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悪役令嬢の父親に憑依した俺、娘を見捨てる未来だけは絶対に認めない  作者: 白川 透


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おかゆと人参

 廊下を走った。娘の部屋の前で灯りを持ったミーナと鉢合わせた。


「熱は」

「高うございます。今、先生を」

「俺が呼ぶ」


 ミーナの目がわずかに動いた。それを見たのは一瞬で、俺はもう使用人棟へ向かっていた。


 寝ぼけた侍医を起こして連れ戻ると、侍医は娘の額に手を当て「冷やすものを」と言った。俺は厨房の氷室まで走り氷の塊を両腕に抱えて戻った。布にも包まなかった。


「旦那様、それでは手が」


 ミーナに言われてようやく自分の手を見た。両方とも真っ赤で、痺れの残る左手は冷たさも分からなくなっていた。


「……どこに置けばいい」

「こちらの盥に。それから水差しをもう一つと、乾いた布を三枚お願いできますか」


 ミーナは俺の顔を見ずにそう言った。俺は言われたものを取りに行き、言われた場所に置いた。次に頼まれたのは侍医の鞄を廊下の明るい所まで運ぶことだった。それが済むと侍医が振り返った。


「閣下。あとはお部屋の外でお待ちいただけますか。人が多いとお嬢様が落ち着かれません」


 俺は寝台の上の小さな顔を一度だけ見て部屋を出た。


 扉の横の床に座って、壁に背中をつけた。


 しばらくは侍医の低い声と、布を絞る水の音が続いた。やがて侍医が「季節の変わり目の熱でしょう。朝にまた参ります」と言って出てきて廊下の向こうへ帰っていった。夜番の足音も遠ざかり東の棟はしんと静かになった。

 寝台は扉のある壁のすぐ内側にある。静かになると中の声が板一枚越しに聞こえてきた。


「……ミーナ。おとうさまには、いわないで」


 熱に浮かされた声は昼間よりずっと幼かった。


「何を、でございますか」

「ないたこと」


 少し間があってミーナがひどく低い声で「言いません」と答えた。


 俺は膝を立て腕を組んで壁の向こうの音を聞いていた。

 この子が言わないでと頼んだのはミーナにだ。俺にではない。聞かなかったことにすると決めた。


*


 気がつくと廊下の窓が白んでいた。


 壁にもたれたまま眠っていたらしい。首が痛い。左手は膝の上で半分握られたまま指先がまだ赤かった。肩には何もかかっていない。廊下の端の長椅子に夜番の毛布が畳んで置いてあるのが見えた。


 隣の扉が指一本分だけ開いていた。

 夜中に出た時には確かに閉まっていた扉だ。細い隙間から夜中よりずっとゆっくりした寝息が聞こえてくる。


 朝になって侍医が来て峠は越えましたと言った。

 ミーナが盥を抱えて部屋から出てきて廊下の俺を見た。何も言わずに厨房のほうへ歩いていった。扉は指一本分開いたままだった。


*


 厨房は朝の支度の真っ最中だった。


 俺が入っていくとパン生地をこねていた娘が手を止め、竈の前の男が振り返った。奥で大鍋をかき回していた料理長だけが杓子を持ったまま「旦那様、今朝は何をお調べで」と聞いた。二度目ともなると向こうも覚悟ができているらしい。


「鍋を一つと、竈を一つ借りたい。娘に熱の時の食事を作りたい。自分で」


 料理長は太い腕で胸を押さえた。それでも黙って竈の一つを空け、小さな鍋と、挽き割りの麦の壺と、りんごの籠を持ってこさせた。米はなかった。粥にするならこれで十分だ。


 前の世界で熱を出した妹のために何度か作った。母が仕事で遅い日だった。粥と、薄く切って砂糖を少しだけ入れて煮たりんご。妹はすりおろしより煮たほうが好きだった。

 手が勝手に動くことはなかった。この身体は剣と署名は知っていても粥の炊き方は知らないらしい。こちらは全部俺の手だった。


 料理長と下働きたちが遠巻きに俺の手元を見ていた。俺が木べらの先を舐めて味見をすると背後で料理長が椅子に座り込む音がした。


*


 盆を持って娘の部屋へ行くとエレノアは寝台の上で身を起こしていた。


 頬はまだ少し赤い。ミーナが背中に枕を当て寝間着の襟を整えたところだった。俺を見ると寝台から下りようとしたので「下りなくていい」と止めた。

 ミーナが小卓を空け、俺はそこに盆を置いた。麦の粥と、煮たりんご。湯気がまだ立っていた。


「……お父様が、これを」

「ああ」

「なぜ、お父様が」


 なぜだろう。料理長に頼めばもっとうまく作れたはずだ。


「熱の時はこれだと決まっている」


 誰が決めたのかと聞かれたら困る。俺の家で母が決めたことだ。

 だがエレノアはそれ以上聞かなかった。小さな手で匙を取り粥を一口すくって口に運んだ。ゆっくり噛んで飲み込む。もう一口。今度はりんごを。

 食べてくれた。それだけで肩の力が抜けた。


「人参は入れてない」


 口が滑った。初めて一緒に朝食を取った朝からずっと引っかかっていたことだった。


 エレノアの匙が止まった。

 盆の上を見てそれから俺の顔を見た。長い沈黙のあとで小さな声が言った。


「……人参は、嫌いです」


 言ってからエレノアは固まった。

 匙を持ったまま動かない。目だけが俺の顔を見ている。肩が熱の名残とは違う固さで上がっていた。


 好き嫌いを言うのはこの家では叱られることなのかもしれない。俺は見たことをそのまま言うことにした。


「教えてくれて、助かった。次から入れないようにできる。知らなかったらまた入れていた」


 エレノアは瞬きをした。ミーナが小卓の向こうで何かを堪えるように唇を結んでいた。

 エレノアはしばらく俺を見ていた。それから何も言わずに粥をもう一口すくった。上がっていた肩がゆっくり下りていった。


 盆の上が空になる頃エレノアがもう一度口を開いた。


「りんごは、また煮ていただけますか」


 言ってすぐエレノアは匙を置いて背筋を伸ばした。言ってはいけないことを言ったかどうか確かめる顔だった。


「熱がなくても、煮る。……私は、生のまま皮ごと齧るほうが好きだが」


 エレノアは瞬きをした。公爵がりんごを齧るところを思い浮かべようとしている顔だった。


「……かじる、のですか」

「皮ごとな」


 エレノアは小さく「はい」と言った。それからもう空になった皿の縁を匙でなぞった。


*


 熱は三日で下がった。十五分はその間、寝台の横で黙って座るだけになった。エレノアは途中で眠ってしまう日もあった。


 四日目の朝、勉強部屋を覗くと授業は新しい時間割のとおりに進んでいた。棚に新しく小さい砂時計が一つ増えていた。姿勢の訓練はそれで十五分、終わると窓を開けて休みになる。クラウディアはそれを何一つ省かずに守っていた。


 その日の夕方クラウディアが書斎に来た。


「旦那様のお言いつけは守っております」


 灰色の袖を少しも乱さずに一礼し、まっすぐ俺を見た。


「ただ、一つだけ。……後悔なさいますよ。お嬢様が今楽をなさったぶん、いつかもっと大勢の前で思い知らされます」


 脅すような響きはなかった。むしろ気の毒そうだった。


「先生には時間割を守る限り続けてもらう。守れないと思った時はそう言ってくれ」


 クラウディアは少しだけ目を見開き、それから深く一礼した。


「承りました。……それでは来月の茶会のことを。旦那様のご快気祝いでございます。慣例どおりお嬢様が女主人をお務めになります」


 快気祝い。祝われる本人がそういう会があることを今知った。


*


 その夜の十五分で俺は娘に聞いた。茶会の女主人をやりたいか。


「やらなくてもいい。お客を迎えて挨拶をするところまでにしてもいい。お茶を注ぐのを途中でミーナに代わってもらうこともできる。どれにするかお前が決めていい」


 エレノアは少し考えてから膝の上で手を重ねた。


「やります。お父様のお熱がなおったお祝いですから。……おしまいまで自分で注ぎます」


 やりたいとは言わなかった。やりますと言った。

 挨拶だけにする道も、途中で代わる道も、この子は聞いた上で選ばなかった。それでも自分の口で選んだことだった。


「なら私は一番奥の席で見ている」

「はい。……まちがえないで、やります」


 まちがえてもいいと言いかけてやめた。この子にはまだそれは決まりとして渡せない。


「終わったら、りんごを煮る」


 エレノアは少しだけ考えてから「はい」と言った。

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