公爵の仕事
家令のヘルマンは書類の山と一緒にやってきた。
セバスが屋敷の内向きを預かる人なら、家令は外向きを預かる人だ。領地からの報告、王宮への届け出、ほかの家とのやりとり。丸い眼鏡をかけた五十がらみの男で、書類を一枚めくるたびに「さて」と言う癖があった。
眼鏡を見て俺は自分の鼻の上に指をやりかけ、途中で止めた。
「さて。こちらが北東の領地の春の作付けの見込みでございます」
「……続けろ」
「さて。こちらは貴族院からの街道の通行料改定に関する意見の照会で」
「続けろ」
「さて。来月の御前会議の議題の写しでございまして、閣下にはこのうち三件についてご発言のご予定が」
三件の議題を俺は読んだ。読めた。そして何についての議題なのか一件も分からなかった。
「……続けろ」
家令は一瞬だけ俺の顔を見て何かに納得したように深く頷いた。閣下は全てご存じの上でまず家令の理解を確かめておられるのだ、とでも思ったのだろう。
違う。何も分かっていないから黙っているだけだ。
*
家令が帰ったあと俺は書斎の机に突っ伏しかけて、セバスの視線に気づいて背筋を戻した。
「正直に言う。書類の中身が半分も頭に入らない」
半分というのは見栄だった。一割も入っていない。セバスは驚かず少し考えてから棚の帳面を二冊取り出した。
「では帳簿の読み方から改めてお浚いなさいますか。お屋敷の出納帳と、鍵の帳面でございます。領地や宮廷の書類も結局はこうしたものの積み重ねでございますので」
教えてほしいと頼む前に向こうが手順を差し出してくれた。
出納帳は日付、品目、数量、金額、記入した者の名が並ぶ、会社の経費精算とそう変わらない形をしていた。分からないのは品目の名前だ。灯り油は厨房と使用人棟の古い灯りに使い、灯り石は表の燭台に入れる術具で高いが三月もつ。季の心付けは季節の変わり目に使用人へ渡すもので額は当主が決める。俺はセバスの説明を手帳に日本語で書き写していった。
鍵の帳面は屋敷のどの鍵を誰がいつ借りて返したかの記録だった。
「宝物庫、ワインの蔵、リネン室。鍵箱から持ち出す鍵はすべてここに記します。名前は借りる者が自分で書きます。貸した時刻と返った時刻は鍵箱を預かる私か家政婦長が書き入れ、確かめた者の印を添えます」
「どこで食い違えば、怪しい」
「借りた時刻と返した時刻の間が用事に比べて長すぎる時。返した時刻が書かれていない時。それから借りた者の名前の字が本人の字と違う時でございます」
俺はその三つを手帳に書いた。
頁をめくると、借りた者が自分で書く名前の欄は字の癖がばらばらで、貸し借りの時刻と確かめの印の欄はほとんどが同じ几帳面な字だった。出納帳のほうはほぼ全部がその字で埋まっている。この屋敷が毎日回っているのはこの人が毎日書いているからだ。三日寝込んでいた主人がいなくてもこの帳面は一日も途切れていなかった。
*
クラウディアの時間割は、授業を止めた次の朝、約束どおりに届いた。姿勢の訓練は午前と午後に十五分ずつ、昼食のあとに一時間の休みがあり、書き取りは一日三十字までになっていた。俺は休みの欄に「勉強部屋の外で」と書き足して署名し、授業はその日の午後から新しい時間割で始まった。先生をどうするかは新しい時間割の授業を自分の目で見てから決めることにした。命じたとおり、勉強部屋には毎日一度は顔を出した。
十五分は最初の日から守った。
一日目エレノアは小さな紙を手に持って待っていた。
――お話しすること。一、天気。二、算術の第三課。三、庭の木の名前。
一番目は俺の「今日は、晴れているな」を研究した結果らしかった。二番目でつまずき、三番目は二人とも木の名前を知らなかった。砂が落ちきるとエレノアは「十五分です」と言って紙を畳んだ。
二日目の昼にはガレス・ローウェンが来た。
「よう。死にかけたって聞いたぞ」
日に焼けた顔の頬に古い傷が一本ある、大きな男だった。騎士団の副団長でこの身体の前の持ち主とは若い頃からの友人らしい。セバスからそう聞いたのは玄関に馬の蹄の音がしてからの三十秒の間だった。
ガレスは俺を屋敷の裏の練兵場へ引っぱっていき、刃を潰した練習用の剣を放ってよこした。受け取った右手が勝手に柄を握り直し、足が肩幅に開く。
「なんだ。鈍ってないじゃないか」
言うが早いか踏み込んできた。速いと思った時には剣が目の前にあり、俺は目をつぶった。金属のぶつかる重い音がして腕が痺れた。目を開けると俺の剣はガレスの剣を受け止めていた。
ガレスは剣を引き、笑っていなかった。
「お前、今目をつぶったな。……剣は昔のままだ。目だけが違う」
それから急に思い出したように話を変えた。
「そういや士官学校の頃の賭け、覚えてるか。あの時の銀貨まだ返してもらってないぞ」
「……覚えている」
覚えているはずがない。だが覚えていないと言えばもっと面倒なことになる。ガレスは「そうか」と言って今度はいつもの顔らしい笑い方をした。日が傾く前にまた来ると言って帰っていった。
その日の十五分、エレノアの紙は二行に減っていた。三日目には紙がなかった。
*
四日目の夕方書斎にヘルマンがいた。
「さて。貴族院への返書でございますが、今夕の使いで出しませんと照会の期日に間に合いません」
街道の通行料の件だった。一度目に「続けろ」で済ませた書類だ。今度は済ませるわけにいかなかった。目覚めた日は中身を知らないまま前任者の決裁に署名した。二度目はやりたくなかった。
ヘルマンの説明を一つずつ聞き、セバスに去年の通行料の額を出してもらい、俺の手帳と照らし合わせる。ようやく当家が何に賛成すればいいのかが見えてきた時、窓の外が橙色になっていた。
夕食の前に十五分。
ヘルマンの説明はまだ半分残っていた。返書の使いは日暮れに出る。
「ヘルマン」
「さて、はい」
「返書の下書きを今の話のとおりに作ってくれ。賛成するのは二つ目の案、ただし北の街道の分は据え置き。理由はさっきの去年の額だ」
「閣下のお目通しは」
「戻ってから全部読む。十五分……いや、二十分くれ。使いには少し待つように」
ヘルマンは眼鏡の奥で目を丸くし、それから「さて」とだけ言ってもうペンを取っていた。
任せた。正確には決めるところまで決めて、書くのを任せた。前の職場ではこれがなかなかできなかった。自分で書いたほうが早いと思っているうちに夜が明けたことが何度もある。
廊下を走った。公爵閣下が屋敷の中を走る。従僕が燭台を持ったまま固まった。その横で先日の厨房で玉杓子を落とした娘だけが、籠を抱えたまま一歩脇へ寄って「お急ぎですか、旦那様」と聞いた。急いでいる、と答えたかどうかは覚えていない。
エレノアの部屋の扉を叩いて開けるとエレノアは机の前に座っていた。
机の上の砂時計は上の段に砂が全部残っていた。
「……遅れた。すまない」
「まだ、始めておりません」
エレノアはそう言って砂時計を返した。
息が切れていて、すぐには話せなかった。エレノアは何も言わずに待っていた。砂が三分の一ほど落ちたところでエレノアのほうが口を開いた。
「お父様は何をなさっていたのですか」
「街道の通行料の返事を書いていた。……分からないところが多くてヘルマンとセバスに一つずつ教わった」
エレノアは少しだけ目を大きくした。
「お父様にも、お分かりにならないことがおありなのですね」
「たくさんある」
「たくさん」
何かを確かめるように繰り返してから、エレノアは算術でつまずいた問題の話を始めた。十から七を引くと、折った指と残った指のどちらを数えればいいのか分からなくなるのだという。
俺には答えが分かった。分かったが言わずに聞いていた。聞いているうちにエレノアは自分で指を折り直して、三だと言った。
砂が落ちきるとエレノアは「十五分です」と言った。それから少し間を置いた。
「明日も、でしょうか」
「明日もだ」
エレノアは頷いた。それ以上は何も言わなかった。
*
書斎に戻ると返書の下書きができていた。
一行ずつ読み、北の街道の額を一か所だけ直して署名した。使いの馬が門を出ていったのは約束の二十分を少し過ぎた頃だった。ヘルマンは「さて」と言って眼鏡を拭き、帰っていった。
その夜更け扉を激しく叩く音で目が覚めた。
「旦那様。お嬢様がお熱を。ずいぶん高うございます」
セバスの声は天気の話をする時の声ではなかった。
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