↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢の父親に憑依した俺、娘を見捨てる未来だけは絶対に認めない  作者: 白川 透


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/70

先生の正しい娘

 勉強部屋は娘の部屋と同じ東の棟の日当たりのいい角にあった。


 授業を見たいと伝えると家庭教師からは「いつでもお越しくださいませ」という丁寧な返事が戻ってきた。

 断られるかと思っていた。拍子抜けしたというより少し身構えた。見られて困ることがない人の返事だったからだ。


 扉を開けると細長い机の前にエレノアが座っていた。

 正確には座らされていた。小さな背中に薄い木の板がまっすぐ当てられ、肩と腰に回した紐で留めてある。背中を丸めようとすれば板の硬い縁が肩甲骨に当たる仕掛けらしい。エレノアは板と同じくらいまっすぐな背中のままペンを動かしていた。


「旦那様。ようこそお越しくださいました」


 机の脇に立っていた女が深く礼をした。

 灰色の服に乱れのない灰色の髪、手には細い木の指示棒。年は四十を少し過ぎたくらいだろうか。背の高さも声の高さもどこにも隙のない人だった。王太子妃教育の専門家として社交界で名が通っているのだとセバスから聞いていた。クラウディア・ローレンという。


「どうぞお掛けくださいませ。お嬢様、手を止めずに」

「その前に、背中の板を外してくれ」


 クラウディアの指示棒がわずかに止まった。


「姿勢が崩れますと、字も崩れます」

「字は見せてもらう。板は外してくれ」


 クラウディアは一礼して、慣れた指つきで紐をほどいた。板が外れてもエレノアの背中は少しも丸くならなかった。板と同じ形のまま、何事もなかったようにペンを取り直した。

 俺は勧められた椅子に座った。


 エレノアは顔を上げなかった。お手本の整った文字を一字ずつ写していくペンの音だけが一定の速さで続いていた。ペンを握る力は見ているだけで分かるほど強く、紙が少しへこんでいる。


「お嬢様」


 指示棒が紙の上の一字を指した。


「また払いが跳ねております。筆圧も強すぎます。この癖は下品です。王太子妃の書状を受け取った方が最初に目にするのは字です。字が跳ねていれば心が落ち着いていないと見られます」

「申し訳ございません、先生」


 エレノアは指された字の横に同じ字をもう一度書いた。力を抜こうとして手が震え、線が少し曲がった。


「最初から書き直してくださいませ」


 エレノアが紙をめくり、最初の字から書き直し始める。

 引き出しの奥のくしゃくしゃの紙を思い出した。震えた字の横に同じ字がもう一度。あの書き方をこの子はここで覚えたのだ。


 壁際の棚には表紙の色が褪せた帳面が何冊も積み重なっていた。背に子供の字で番号が振ってあるから今までの書き取り帳だろう。積み方が雑で、この部屋でそこだけが少し散らかって見えた。

 一冊見せてくれと言うと、クラウディアはいちばん上の一冊を取って渡した。どの頁にも同じ字が何十も並び、跳ねた払いの横に細い赤い線が引いてあった。よく書けた字に付ける印は、めくってもめくっても見つからなかった。


 書き取りが終わると、エレノアは部屋の中央に立たされて頭の上に薄い本を一冊載せられた。壁の大きな砂時計が砂を落とし始める。


 砂が指一本分も落ちないうちにエレノアの膝がかすかに揺れた。

 顔はまっすぐ前を向いたままだった。頬が白い。唇を内側に噛んでいるのが横から見ると分かった。ここ数日、朝早くから書き直しを続けていた子だ。


「そこまでだ」


 椅子から立ち上がっていた。クラウディアが振り返る。


「旦那様。始めたばかりでございます」

「顔が白い。膝が揺れている。座らせろ」


 俺はエレノアの前へ行き、頭から本を取り上げた。思っていたよりずっと軽い本だった。

 エレノアはすぐには座らなかった。俺を見てそれからクラウディアを見た。どちらの言うことを聞けばいいのか確かめるように。


「……旦那様のお言葉でございます。お掛けなさいませ、お嬢様」


 エレノアはそっと椅子に腰を下ろした。背もたれに背中をつけなかった。


 クラウディアは指示棒を両手で持ち直し、穏やかに俺を見返した。慌ててはいなかった。


「姿勢の訓練は一時間でございます。王太子妃は儀式の間、何時間でも同じ姿勢で立っていなければなりません。顔色が悪いのはまだ身体が慣れていないからでございます。途中で崩れたり泣いたりすれば最初からやり直していただいております」

「まだ、五歳だ」

「はい。五歳でございます。ですから今なのです。お嬢様は四つの時から王太子妃のお候補としてお名前が挙がっておられます。宮廷はほんの小さな綻びを何年も覚えている場所でございます。字の癖、姿勢の崩れ、人前で流した涙。それを笑う者は必ずおります。わたくしはお嬢様がそうした者たちに一度も笑われずに済むよう、お教えしているのです」


 嘘をついている顔ではなかった。この人は本気でそう信じている。それが一番やっかいだった。


「そしてこれは旦那様のご方針でございます。『強い娘にせよ。泣かずに立っていられる娘にせよ』。わたくしをお招きくださった時にそうおっしゃいました」


 忘れたのではない。知らないのだ。だがそれを言うわけにはいかない。

 教育論で勝てるとは思わなかった。勝つ必要もない。この家の当主としてやめさせると決めればいい。


「では本日の書き取りについてだけ申し上げます」


 クラウディアはエレノアに向き直った。


「今朝、同じ字を三度書き損じました。お約束どおり本日の昼食はございません」


 エレノアは顔色一つ変えずに椅子から下り、家庭教師に向かってきちんと礼をした。


「当然です。申し訳ございませんでした、先生」


 誰に言わされたのでもない。自分の口で、自分にそう言い聞かせるように。


「昼食は取らせる。今日だけではない。この家では食事を罰に使うことを今日からやめる」


 二人が同時に俺を見た。


「先生。午後の授業は取りやめにしてくれ。明日からのことは今日のうちに書面で渡す」


 クラウディアはしばらく黙ってから深く一礼した。


「かしこまりました」


 その一言のあいだもこの人の背筋は少しも曲がらなかった。


*


 書斎に戻りセバスを呼んだ。


「当主として娘の授業について命を出す。書き取ってくれ」


 セバスは一拍だけ止まり、紙とペンを用意した。俺は思いつく順ではなく、今日見たものの順に言った。


「一つ。食事と休みの時間を罰に使わない。

 二つ。姿勢の板のように、身体を縛ったり固めたりする道具を使わない。

 三つ。姿勢の訓練は一度に十五分まで。続ける時は休みを挟み、一日二度まで。

 四つ。泣いたことを理由にやり直しや反省文を課さない。

 五つ。明日からの時間割は先生が書いて私に出す。私が見てから始める。

 六つ。授業のあいだ、勉強部屋の扉は開けておく。私が一日に一度は見に行く」


 セバスは書き終えると紙をこちらへ向けた。俺はそれを読み直し、署名して指輪の印章を捺した。色の抜けた石の下で台座の紋がくっきりと紙に残った。


「これを先生へ」

「かしこまりました」


 セバスは紙を受け取ったまますぐには下がらなかった。代わりに書棚から薄い綴りを一つ抜いて机に置いた。


「クラウディア殿をお迎えした折の、旦那様のお書きつけでございます。お目に入れておいたほうがよろしいかと」


 開くと見覚えのある字があった。今しがた署名したのと同じ、癖のない完璧な字だ。

 ――泣かぬ娘に。人前で崩れぬ娘に。手段は任せる。


「クラウディア殿は社交界の筋のご推薦でいらした方でございます。旦那様がご自身でお会いになり、このお書きつけをお渡しになりました。お解きになるのであれば推薦なさった方々にどうお話しするかを考えねばなりません」


 この紙を書いたのはこの身体の前の持ち主だ。泣かない娘にしろと頼み、手段を任せた。その責任は今その署名を引き継いでいる俺にある。

 ただ板を背中に縛ると決めたのも、昼食を取り上げると決めたのも、先生だ。任されたからといって、選んだ手段まで命令だったことにはならない。


 推薦した家の顔をどう立てるかは、あの人を辞めさせる時の段取りの話だ。今日の命を止める理由にはならない。


「先生をどうするかは時間割を見てから決める。それまでに推薦した家がどこなのかを調べておいてくれ」

「かしこまりました」


 返事はその日の夕方に戻ってきた。

 ――旦那様のお言いつけ、確かに承りました。時間割は明朝お届けいたします。


 承りましたとだけあった。納得したとは書いていなかった。


*


 夕食の前にエレノアの部屋を訪ねた。


 昼食は取ったとミーナから聞いていた。エレノアは机の前に座っていて、俺を見ると椅子から下りて礼をした。背もたれのない椅子だった。


「毎日、夕食の前に少し話をしに来る」


 エレノアは瞬きをした。


「何をする時間でございますか」

「話す時間だ」

「何をお話しすればよろしいのですか」

「何でもいい」


 何でもいい、では困るのだとこの前の夜に覚えたばかりだった。俺は部屋を見回し、机の上に小さな砂時計を見つけた。勉強部屋から持ち帰ったらしい、十五分の砂時計だ。


「これが落ちきるまで。十五分だけだ。話すことがなければ黙っていてもいい」


 エレノアは砂時計を見てそれから俺を見た。


「……黙っていても、よろしいのですか」

「いい」


 エレノアは少し考えてから頷いた。


「では明日の分のお話を、考えておきます」


 黙っていてもいいと言ったのに、と思ったが言わなかった。


 部屋を出ると廊下の先にセバスが待っていた。腕に書類の束を抱えている。厚さは俺の手首ほどあった。


「ヘルマン殿からお預かりいたしました。明日、家令がまいります。旦那様のお目通しを要するものだけでございます」


 だけ、にしては厚かった。

 毎日十五分。言うのは簡単だった。それを守るための仕事がこの家にはまだ山ほどあるらしい。

お読みいただきありがとうございます!

「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。

Xでも更新情報などを発信しています。

よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!

https://x.com/st_shosetsu

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。