褒め方がわからない
褒めるというのは技術だ。
課長代理になった年、会社の研修で「部下を伸ばす声かけ」という講座を受けたことがある。覚えているのは講座の名前と会議室の空調が寒すぎたことくらいだ。部下を褒める機会より部下の代わりに謝る機会のほうがずっと多かったからだ。
翌朝、寝室の鏡の前で俺は練習をしていた。
「……すごいな」
鏡の男が低い声でそう言った。
すごいなという言葉がこれほど脅しに聞こえることがあるだろうか。眉間の縦皺のせいでどう聞いても「すごいな(覚えておけよ)」だった。
口角を上げてみる。目が笑っていないので悪役が何かを企んでいる顔になった。口角を下げる。普通の怖い顔に戻る。
顔はどうにもならない。せめて言葉だけでも増やそうと俺は決めた。
*
結論から言うと言葉を増やしたのは失敗だった。
朝食の席でエレノアがパンをちぎった。「すごいな」と言った。
エレノアが紅茶の茶碗を音を立てずに受け皿に戻した。「すごいな」と言った。
エレノアが「ごちそうさまでした」と言った。「……すごいな」と言った。
三回目でエレノアは手を止めた。膝の上の布をきちんと畳み、顔を上げてまっすぐ俺を見た。
「お父様。何がお望みですか」
警戒されていた。当然だ。これまで「はい」と「いいえ」くらいしか交わさなかった父親が急にパンのちぎり方を褒め始めたのだ。
「……いや。望みは、ない」
「左様でございますか」
エレノアは一礼して席を立った。壁際のミーナが、何とも言えない顔でその背中を見送っていた。
言葉がだめなら物はどうか。我ながら安直だと思う。
セバスに頼んで王都の玩具屋から人形を一つ取り寄せてもらった。陶器の顔に淡い色の髪、青い服を着た、五歳の腕には少し大きすぎる人形だ。「今、貴族のお嬢様方にいちばん人気の品」だと店の者が言ったらしい。それしか選べなかった。
夕方勉強部屋から出てきたエレノアに差し出すと、エレノアは人形を見て、俺の顔を見て、もう一度人形を見た。
「ありがとうございます、お父様。ですがわたくしはもう五歳です。お人形で遊ぶ歳ではございません」
両手は前で重ねたままだった。
五歳だから人形で遊ぶのではと言いかけて飲み込んだ。この家で五歳はもう人形で遊ぶ歳ではないらしい。
「……そうか。なら部屋に置いておくだけでいい」
人形は結局ミーナが受け取った。エレノアが部屋へ戻っていったあとも、ミーナは大きな人形を抱えて俺の前に残っていた。
「……旦那様。お嬢様をお褒めになりたいのでしたら」
人形の頭越しに俺を見る目は昨日の朝ほど冷たくはなかった。かわりにひどく面倒くさそうだった。
「具体的に褒めてください。何を見たか、です。『すごい』では何がすごいのか、お嬢様には分かりません」
その一語で寒い会議室のホワイトボードが戻ってきた。すぐに、具体的に、本人の努力を。講師はそう書いていた。俺はそれを手帳に写して、写したことまで含めてきれいに忘れていたのだ。
礼を言いそびれた。ミーナの足音はもう聞こえなかった。
*
次の朝授業の始まる前に勉強部屋を覗いた。
七時半より少し早い。家庭教師はまだ来ていなかった。エレノアは一人で細長い机に向かい、書き取りの紙に何かを写していた。俺に気づくと椅子から下りかけたので手で止めた。
机の上の紙を見た。お手本と同じ文字が一行に十ずつきれいに並んでいる。
具体的に。何を見たか。
「この行はどの字も同じ大きさでそろっている。よく書けている」
エレノアはペンを持ったまま紙と俺を交互に見た。
「……ありがとうございます、お父様」
前の二つよりは通じた気がした。少なくとも「何がお望みですか」とは言われなかった。
俺は少し浮かれて勉強部屋を出た。
その日の夕食のあと書斎の扉が三回叩かれた。
エレノアが紙の束を両手で抱えて立っていた。
「本日の書き取りでございます。ご覧いただけますか」
頼んでいない。驚いて受け取り一枚ずつめくった。
どの紙にも一字の乱れもなかった。朝見た行よりさらにそろっている。俺は見たとおりに褒めた。字の大きさ、行のまっすぐさ、払いの長さ。エレノアは一つ褒めるごとに小さく「はい」と言い、全部聞き終えると礼をして帰っていった。
嬉しかった。たぶん俺のほうが。
*
二日後の夜ミーナが書斎に来た。
手にくしゃくしゃの紙を何枚も持っていた。広げて皺を伸ばしたらしいが折り目がまだ残っている。どれも書き取りの紙で、どれにも一字か二字、線の震えた字があった。
「お嬢様の机の引き出しの奥にございました」
ミーナは紙を机の上に置いた。
「旦那様にお見せする分をお嬢様は休み時間に書き直していらっしゃいます。昨日は六回です。お昼のあとの休みも、ずっと」
「……私が、褒めたからか」
「旦那様がきれいな字をお褒めになったからです」
ミーナはそれだけ言った。責める調子はなく、事実を一つ伝えただけだった。
俺は皺の残った紙を一枚ずつ見た。
震えた字の横に同じ字がもう一度書いてある。その横にもう一度。三度目でも震えていてそこで紙ごと丸められていた。
この字はきれいだ。行がそろっている。よく書けている。
俺が言ったのは全部、出来上がった紙のことだった。あの子がそれをどう受け取ったのかは分からない。ただ父親に見せるのは震えのない紙だけだと決めたらしいことは、この丸まった紙が言っていた。
「この紙は元の場所に戻しておいてくれ。私が見たと知ったら次は隠し場所を変える」
「……かしこまりました」
「それと明日から昼の休みには、娘を勉強部屋から出してくれ。庭でも台所でもいい。私の言いつけだと言っていい」
ミーナは少し驚いた顔をして紙を集め直した。それからもう一度だけ俺を見て頭を下げた。
*
翌日の午後、書斎から戻る途中で二階から下りてくるエレノアとミーナに行き合った。
エレノアは俺に気づくと階段の途中で足を止めて礼をしようとした。
片足を一段下ろしかけたところで膝を折った。踵が段の縁に半分しかかかっていなかった。
「お嬢様!」
俺は二段下にいた。考えるより先に腕が出て、前に傾いた小さな身体を両脇から受け止めていた。勢いに押されて背中が手すりにぶつかり、痺れの残る左手は娘の服をつかみ損ねた。右腕一本で抱え込みそのまま段に尻をついた。
格好のいいものではなかった。ただ娘は段の上に落ちなかった。
腕の中のエレノアは目を大きく開けて俺の上着の襟を小さな手でぎゅっとつかんでいた。
「……怪我は」
声がかすれた。エレノアは首を横に振り、自分が父親の襟をつかんでいることに気づいてぱっと手を離した。
段の上に立たせると、エレノアはすぐに一歩下がって裾を直し、背筋を伸ばして膝を折ろうとした。
「いい」
強い声になった。膝が途中で止まる。俺は息を整えてから言い直した。
「階段では礼はしなくていい。下りてから、でいい」
エレノアは俺を見上げ、それからさっき踏み外した段のほうへちらりと目をやった。
「……はい」
ミーナが娘の背中に手を添え、二人は手すりに寄って一段ずつ下りていった。エレノアの目の下が薄く青かった。
あとでミーナに聞くと昼の休みには庭に出たが、朝、授業の前に起きて書いていたという。休みを一つ空けてもあの子は別の時間を削っていた。足を踏み外すほど疲れが溜まっているとは俺は思っていなかった。
手すりに打ちつけた背中は夜まで痛んだ。
*
夕食の席で褒めるのをやめて聞いてみることにした。
「今日は何を習った」
エレノアはナイフとフォークを置き、背筋を伸ばした。
「読み方は第十二課を二回読みました。書き取りは三十字です。算術は十までの足し算と引き算を二十問いたしました。歴史は建国の三家のお名前を、地理は王国の川の名前を五つ」
一息に、順番どおりに、間違えずに。
言い終えるとエレノアは俺の顔をじっと見た。
「合っておりましたか」
合っているかどうか俺には分からない。そもそも試験のつもりで聞いたのではなかった。
何が面白かったか。どこが難しかったか。俺が聞きたかったのはそういうことだったのに、この子にとって大人の質問は答えに点がつくものなのだ。
「……ああ。合っている」
エレノアはほっとしたように小さく息を吐いた。それが一番こたえた。
*
夜、寝台の中で前の世界の父のことを考えた。
父は褒めない人だった。怒鳴るわけでも手を上げるわけでもない。俺が何かをうまくやっても「そうか」と言うだけだった。テストで満点を取っても、就職が決まっても「そうか」。
嫌いではなかった。ただ何を見てくれているのかが最後までよく分からなかった。
この数日の俺は褒め言葉で娘に書き直しをさせ、質問で娘に試験を受けさせた。
あの子が何をどんなふうに教わっているのか、俺は一度も見たことがない。教わったとおりに答えようとする子の、教わっている場所を知らない。
翌朝セバスを呼んだ。
「今日、娘の授業を見たい。家庭教師にそう伝えてくれ」
「かしこまりました」
セバスはいつもと同じ声で答え、扉を閉める前にほんの少しだけ俺の顔を見ていった。
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