夜は部屋から出ません
朝食の前に使用人の名簿を見せてもらうことにした。
名前を知らない相手に礼を言うのが苦手だからだ。前の職場でも異動した最初の週は部署の全員の名前と顔を覚えることから始めた。覚えるまでは「すみません」で呼び止めるしかなく、それが妙に申し訳なかった。
この屋敷で「すみません」と言ったらたぶんもっと申し訳ない事態になる。
セバスが書斎に持ってきたのは革表紙の分厚い帳面だった。
「雇用の台帳でございます。雇い入れた日、給金、身元の保証、紹介状の写しを綴じてございます」
一人につき一頁、几帳面な字で名前、年齢、生まれ、前の勤め先が書き込まれ、頁の端には紹介状の写しが糸で綴じつけてある。
料理長、厨房の下働き、洗濯係、庭師、馬丁、従僕、侍女。ざっと数えて四十人を超える。先日の厨房で玉杓子を落とした娘の名前もあった。眼鏡の位置を直そうとして鼻の上に何もないことに気づき、指を宙で止める。目覚めてからもう四回目だ。
ある頁で手が止まった。
名前と冬の日付。そこまではほかの頁と同じだ。その下に短い一行が書き足されていた。
――春、第三週六日目の朝より不在。
「この者は」
「従僕のハンスでございます。冬に雇い入れましたが、旦那様がお倒れになった翌朝から姿が見えません」
セバスの声は天気の話をする時と変わらなかった。
「荷物は」
「身の回りの物だけ持って出たようです。主が倒れると、ときどきそういう者が出ます」
主人がいきなり倒れた屋敷は、たぶん居心地のいい場所ではない。責める気にはなれなかった。
それでも俺は手帳を開いてその名前と日付を書き写した。倒れた夜の翌朝に一人いなくなった。それだけのことだが、引き継ぎで「それだけのこと」と言われた案件ほどあとで掘ると何か出てくる。
「行き先は分かっているのか」
「保証人の商人へ使いを出しましたが、まだ返事がございません」
「返事が来たら教えてくれ。来なくても、いつまで来ないかを教えてくれ」
セバスは一拍置いて「かしこまりました」と答えた。
「あの従僕なら」
背中から声がした。
書斎の扉のところに若い女が立っていた。赤茶の髪をきつくひっつめ、頬にそばかすが散っている。腕に畳んだ布を何枚も抱えていた。
「お茶を運ぶのが下手でした。左の眉に傷のある」
それだけ言うと女は首を一度前に倒しただけのような礼をした。
「ミーナ」
セバスが低く名を呼んだ。女は「失礼いたしました」と言い、今度はもう少しだけ深く頭を下げて廊下の向こうへ消えた。
「お嬢様付きの侍女、ミーナ・ベルでございます。お嬢様が三つの頃からお仕えしております。口の利き方は私から改めて申しておきます」
「いや、いい」
台帳の一頁より、今の一言のほうが具体的だった。下手だったと言えるほど彼女はあの従僕を見ていたのだ。
ただ扉のところから俺を見たミーナの目は、はっきりと冷たかった。熱から覚めた主人を気遣う目ではない。嫌われている。それもたぶん、だいぶ前から。
次の頁にも冬の日付があった。侍女、ドーラ。口入れ屋の紹介状。
セバスはそれだけ読み上げ頁をめくった。
*
食堂は細長かった。
長い卓の両端に椅子が一脚ずつ。その間に十人は座れそうな空白が白い布をかけて横たわっていた。会議室なら端と端に座る二人はたいてい仲が悪い。
エレノアは先に来ていて俺が入るとすぐに椅子から下りて礼をした。
「おはようございます、お父様」
「……ああ。おはよう」
座れと言いかけてやめた。命令に聞こえる気がした。かわりに自分が先に座るとエレノアも座った。
パンと卵と、温かい野菜の煮込みが運ばれてくる。エレノアは膝の上に布を広げ背筋を伸ばしたまま小さな手でナイフとフォークを動かし始めた。音を一つも立てない。皿の上で食べ物が順番に正確に減っていく。
五歳児に何を話せばいいのか。好きな遊びは、あの予定表を読んだ後では聞きにくい。
「……今日は、晴れているな」
俺の口から出たのはそれだった。
「はい。晴れております」
エレノアは手を止めて答え、また食べ始めた。
会話が終わった。
「よく眠れたか」
「はい」
「寒くないか」
「いいえ」
こちらをまったく信用していない取引先の担当者と同じ答え方だった。必要なことだけを答え、それ以上は一言も渡さない。違うのは相手が五歳で、こちらが父親だということだけだ。
ふとエレノアの皿に目が留まった。
煮込みの中から橙色の人参だけが皿の端に寄せられていた。ほかの具はもう食べ終わっている。エレノアはその一切れをフォークに刺し、口の前でほんの一瞬だけ止めてから口に入れた。
顔色ひとつ変えなかった。噛む回数がほかの具より少し多い。飲み込む前に小さく息を吸う。そしてまた次を刺す。最後の一切れまで同じ間合いで食べ終えると、エレノアはナイフとフォークをそろえて置いた。
聞いてみようかと思ってやめた。聞いても、たぶん「いいえ」と返ってくる。
空いた皿を下げに給仕の若い男が来た。
「ありがとう」
考えるより先に口が言っていた。この身体の癖ではない。俺の癖だ。
給仕の手が止まった。皿の上でナイフが小さく鳴り、壁際の侍女の一人が隣の侍女の袖を引いた。給仕はさっきより深く頭を下げ、ほとんど逃げるように下がっていった。
壁際のミーナがさっきより冷たい目で俺を見ていた。何をたくらんでいるのか、と目が言っていた。
卓の向こうではエレノアがまっすぐ俺を見ていた。驚いた顔ではなかった。ただこちらから目を離さなかった。
昼前には「旦那様はお熱がまだ頭に残っておられる」という厨房の見立てが、セバスを通して俺の耳に届いた。先日の好物の件と合わせて二件目の症例になったらしい。
*
二十時を少し過ぎた頃、俺は娘の部屋の前に立っていた。
手には何も持っていない。絵本を探したのだが、セバスによれば「お嬢様のお部屋の絵本はクラウディア殿のご指示で、昨年すべて教本に替えました」とのことだった。
五歳の部屋から絵本が消えている。驚くより先にそうだろうな、と思ってしまった自分が嫌だった。
扉を開けたのはミーナだった。俺を見てほんの一瞬眉が動いた。
「少し、娘と話をしに来た」
ミーナは脇へ退いて道を空けたが部屋の隅から出ていく気配はなかった。
エレノアは白い寝間着で寝台の上にいた。髪をほどいて一本に編んであり昼間よりずっと幼く見える。膝の上の本の背には金の文字で『宮廷儀礼の基本』とあった。寝る前の読み物としては、たぶん世界で一番眠くなる本だ。
俺に気づいて寝台から下りようとするのを「そのままで」と止めると、エレノアはどうしていいか分からない顔で寝台の端に座り直した。
「……昔話を、一つ話してもいいか」
「はい」
浦島太郎は最後に老人になる。かぐや姫は最後に月へ帰る。どちらも母親を亡くした子に聞かせる話ではない気がして、結局桃太郎にした。
誰かに昔話をするのは妹が小さかった頃以来だ。上手くはなかった。エレノアは背筋を伸ばしたまま瞬き一つせずに聞いていた。授業を受けている顔だった。
「……そして桃太郎は、鬼の宝物を持って村へ帰った。おしまい」
部屋が静かになった。
エレノアはしばらく黙ってから、まっすぐ手を挙げた。授業で質問をする時の作法なのだろう。俺は少し迷ってから頷いた。
「お父様。鬼のたからものを持って帰ったら、どろぼうではないのですか」
言葉に詰まった。
「鬼が村から取ったたからものなら、村に返すのはいいと思います。でも鬼のたからものだったら、どろぼうです。それと、おだんごを一つもらっただけで鬼のところへ行くのは、犬がかわいそうです。鬼は大きいのでしょう?」
本人は大真面目だった。眉を少し寄せ、膝の上で両手を重ね、答えを待っている。
俺は笑ってしまった。声を立てたわけではない。口の端が勝手に緩んで息が漏れた。きびだんご一つで鬼退治は割に合わない、という感想を三十八年生きてきて初めて人の口から聞いた。
その瞬間エレノアの肩がぴくりと固くなった。
顔は動かない。目だけが俺の口のあたりを見ている。
「違う」
思ったより強い声が出て、肩がもう一段固くなる。俺は息を吸い直してゆっくり言った。
「笑ったのはお前の質問がいい質問だったからだ。……俺も、子供の頃に同じことを聞けばよかった」
言ってからしまったと思った。俺、と言った。
エレノアは瞬きをした。部屋の隅でミーナが小さく身じろぎした。
エレノアの肩が少しずつ元の高さに戻っていった。膝の上の手を重ね直し、ほとんど聞こえないくらいの声で言った。
「……でも、桃は好きです」
桃太郎の筋のどこにも、桃が好きかどうかを答える場面はない。
厨房の誰も知らなかった娘の好物を俺は一つだけ知った。
「そうか」
それしか言えなかった。言えば余計なものまで出てきそうだった。
椅子から立ち、扉へ向かいかけたところで背中から呼ばれた。
「お父様。夜は部屋から出ません。物音がしても出ません。公爵令嬢ですから。ご心配なく」
エレノアは昼間と同じ澄んだ声に戻っていた。
俺は何も心配していないし、出るなとも言っていない。それでもこの子は言われる前に、それを俺に約束した。
「……誰が、そう言った」
「クラウディア先生が、夜に泣いて部屋を出るのは公爵令嬢のすることではないとおっしゃいました」
泣いて、とこの子は言った。泣かない、とは言わなかった。泣いても部屋からは出ない、と言った。
「眠れない夜は」
言いかけて言葉を探した。甘えていい、とこの世界の父親はどう言うのか分からない。
「私の部屋に来てもいい」
エレノアはすぐには答えなかった。重ねた手の指が一本ずつ動いた。数えているのだと分かった。
「何時までなら、よろしいのですか」
「……何時でも」
「扉は何回叩けばよろしいですか。お父様がお休みの時は、起こしてもよろしいのですか。クラウディア先生にはどなたがお伝えくださいますか」
来てもいい、の中にこの子が要るものは何も入っていなかった。必要なのは許可ではなく、許可を使っても叱られないという決まりなのだ。
決まりなら今ここで作れる。
「寝ていたら、起こしていい。先生には私から伝える。夜に私の部屋へ来たことで叱られることはない」
エレノアは三つを一つずつ聞き小さく頷いた。
「扉は、何回でございますか」
「……いつもと同じ、三回でいい」
「三回」
エレノアは口の中で繰り返し、膝の上の本を閉じた。
「おやすみなさいませ、お父様」
*
廊下に出るとミーナがついてきていた。
扉を背にして立ち、まっすぐ俺を見上げる。燭台の灯りがそばかすの散った頬を下から照らしていた。
「何をお考えですか、旦那様」
侍女が主人にかける言葉ではない。分かっていて言っている顔だった。
「娘と、話をした。それだけだ」
ミーナはしばらく俺を見ていた。それから「左様でございますか」とだけ言い、部屋の中へ戻っていった。
東の棟の廊下は長い。娘の部屋は廊下の端で、俺の寝室は反対の端にある。
歩きながら数えてみた。娘の部屋から俺の部屋まで扉が七つ。灯りは途中で二つしかなく、真ん中のあたりは足元が見えない。夜中に五歳の子が一人で歩くには、ずいぶん遠い。
決まりを作ってもこの廊下を歩けなければ使えない。
寝室に戻る前に夜番の従僕を呼び、廊下の真ん中の燭台を朝まで消さないように言いつけた。従僕は理由を聞かなかった。翌朝セバスに同じことを頼み、授業の前の勉強部屋でクラウディアに、夜に娘が父の部屋へ来ても咎めないようにと自分で伝えた。
返事は「承りました」の一言だった。
ゲームの中でこの子に何かが起きるのは十年先だ。今夜作れたのは灯り一つと、扉を叩く回数だけだった。
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