色のない指輪
分からないことは分からないと言う。
十六年の会社員生活で覚えた数少ない役に立つ教えだ。分からないまま分かったふりをすると、三か月後に必ず倍になって返ってくる。
問題はこの家の主人が「分からない」と言っていい立場なのかどうかが、分からないことだった。
「熱のせいか、頭がところどころ抜けている」
昼過ぎ、寝台の上で身を起こした俺は考えた末にそう切り出した。嘘ではない。抜けているどころか最初から何も入っていないだけだ。
「家のことをひととおり聞かせてくれ。知っていることも、全部」
セバスは一拍だけ間を置いた。
それから何事もなかったように「かしこまりました」と一礼し話し始めた。
ヴァレンシュタイン公爵家は建国の頃から続く家であること。当主は御前会議に席を持ち、王都のこの屋敷のほかに北東に領地と本邸があること。奥様――イザベル様が亡くなられてこの冬で二年になること。
説明は短く、順序立っていて、余計な形容がひとつもなかった。新人研修の資料にしたいくらいだ。俺はときどき頷き、ときどき「続けろ」と言った。それ以外の言葉を挟むと、知らないことが一つずつ漏れていきそうだった。
妙だったのはセバスがほとんど驚かないことだ。自分の妻の亡くなった季節も知らない主人を前にして、老執事の顔は少しも動かなかった。
「書斎を見たい」
話が一段落したところで言うと、セバスは初めてほんのわずかに目を伏せた。
「お体に障りませんか」
「歩ける」
実際には膝がまだ少し笑っていた。
*
書斎は寝室と同じ東の棟の、階段を下りた先にあった。
壁一面の書棚。窓際の大きな机。机の上には封蝋で閉じられた書状が三日分きれいに積まれている。
敷居をまたいだところでセバスが言った。
「旦那様はこの書斎でお倒れになっていました」
それだけだった。いつ、誰が見つけたのか、どんな様子だったのか。続きを待ったがセバスはもう口を閉じていた。
俺は机の前の深い緑の絨毯を見下ろした。何かの跡が残っているわけではない。それでもそこを踏まずに机の向こうへ回った。
椅子に座ると身体のほうが先に落ち着いた。背もたれの角度も肘掛けの高さも知っている気がする。知っているのは俺ではなく、この身体だ。
セバスが急ぎの書状を三通差し出した。
一通目を開いて俺は息を止めた。
読める。曲線の多い、見たこともない文字が日本語と同じ速さで頭に入ってくる。
ただし中身が分からなかった。
――東部街道の補修費の按分について、先般の評議の結果を踏まえ閣下のご意向を伺いたく。
先般の評議を俺は知らない。差出人が味方なのか、敵なのか、親戚なのかも分からない。転職初日に前任者の社内メールだけを渡された気分だった。
「金額は」
「補修費の三分の一を当家が持つと、先月の評議で旦那様がお約束なさいました。こちらがその時の控えでございます」
セバスが開いて見せた綴りに、日付と金額と、この身体の署名が並んでいる。それが高いのか安いのか、俺には判断がつかなかった。前任者の決裁を中身を知らないまま引き継ぐ。今回はこの老執事を信じるしかない。
差し出されたペンを受け取った右手が勝手に動いた。
ペン先をインク壺に浸し、余分を縁で落とし、紙の上に構える。気づいた時には流れるような長い署名が書き上がっていた。俺の字は学生の頃から「読めればいい」と言われ続けてきた字だ。
俺はペンを置き自分の右手を眺めた。指を一本ずつ曲げる。普通の手だ。ただ俺の知らないことを、この手は知っている。
三通目の封蝋に剣と環を組み合わせたような紋が捺されていた。天蓋の銀糸と同じ形だ。同じものをもっと近くで見た気がして、視線を落とした。
右手の中指に印章を兼ねた幅の広い銀の指輪がはまっていた。台座に楕円の石が一つ。
石は灰白色だった。
曇った硝子のような、色の抜けた白。宝石というより川原の小石に近い。立派な指輪の真ん中でそこだけが妙にちぐはぐだった。
「この石は昔からこうか」
何気なく聞いたつもりだった。
セバスはわずかに目を細め指輪を見た。それから俺の顔を見ていつもの声で答えた。
「代々伝わる、古い石でございますので」
答えになっているようで、なっていない。押せば何か出てくるのかもしれない。だが熱で記憶が抜けた主人で通るのは知らないことが少しのうちだけだ。自分の指輪の石の由来まで尋ねる男は、記憶が抜けたのではない。別人だ。
俺は「そうか」とだけ言って、指輪から目を離した。
*
夕方、セバスが下がったあとの書斎で机の引き出しから白紙の帳面を見つけた。
この屋敷で誰にも読めない文字を俺は一つだけ知っている。日本語だ。
覚えていることを書き出した。ゲームの題名。登場人物の名前。学院。舞踏会。断罪。
書いているうちに、あの場面が細かいところまで戻ってきた。
舞踏会の音楽が止まる。王太子が壇上に立ち、娘の名を呼ぶ。そこでテキストの欄に「……」だけが一拍出て、声優の声にも短い間が入る。それから罪状が読み上げられる。
妹はあそこが好きだった。「ここの間がいいんだよ」と言うので、俺は「溜めの演出だろ」と返した。何がいいのかは聞かなかった。
罪状が終わる。娘は「わたくしはやっておりません」と言う。誰も動かない広間で娘は父親を探して「……お父様」と呼ぶ。
そして父親があの一行を言う。
ペン先が紙の上で止まっていた。
ただこれは妹のプレイを横で見ていた記憶だ。どこまで正確なのか俺にも分からない。この世界がゲームと同じ順で進むのかどうかも分からない。分かっているのは、あの一行を言う役目が今は俺の口についていることだけだった。
ふと帳面のどこにも娘本人のことを書いていないと気づいた。
ゲームの悪役令嬢についてなら書ける。目の前で礼をしたあの五歳の子については、名前と歳しか知らない。好きな食べ物ひとつ答えられない。
*
とりあえず聞いてみることにした。
厨房は西の棟の半地下にあった。階段を下りきったところで、湯気と、パンの焼ける匂いと、大勢の話し声が一度に押し寄せてきた。
その話し声が、俺が戸口に立った瞬間、全部止まった。
下働きの娘の手から玉杓子が落ちた。床で二回跳ねた。誰も拾わなかった。
奥から太った男が前掛けで手を拭きながら出てきた。料理長だろう。顔色が厨房の湯気よりも白い。
「だ、旦那様。何かお食事に不手際が」
「いや」
違うと言いたかった。仕事中に悪いな、少し聞きたいことがあって、と言いたかった。口から出たのは「いや」だけで、この身体の声で言うと「いや(まだ言わせるのか)」に聞こえた。
「娘の、好きな食べ物は何だ」
料理長は口を開けたまま何も言わず、後ろに並んだ料理人たちが目を見合わせた。娘の好物を厨房に聞きに来る主人の意図を全員が必死に読もうとしている顔だった。抜き打ちの監査を受けている部署はだいたいこういう顔になる。
「お、お嬢様はお出ししたものを残さず召し上がります」
「好きなものは」
「献立はクラウディア殿のお指図で組んでおりまして……お嬢様からお好みを伺ったことは、その、一度も」
料理長はそこで言葉を切り、深く頭を下げた。叱責を待つ姿勢だった。
「……そうか。邪魔をした」
階段を上がっていくと後ろの厨房で話し声がひとつずつ戻ってきた。最初に聞こえたのは誰かの「試験だ」という囁きだった。
*
翌朝セバスは一枚の紙を持ってきた。
「お嬢様の一日のご予定でございます。旦那様がご覧になりたいと仰せでしたので」
厨房から戻ってすぐ頼んだものだ。好物を知る人がいないなら、せめてあの子が一日をどう過ごしているかを知りたかった。
紙には几帳面な字で時刻が並んでいた。
六時、起床。身支度。
六時半、礼法の復習。
七時、朝食。
七時半から十一時、読み方、書き取り、算術。
十一時、姿勢の訓練。
十二時、昼食。
十三時から十五時、歴史、地理、宮廷の作法。
十五時、刺繍。
十六時、礼法。
十八時、夕食。
十九時、一日の復習と、翌日の予習。
俺は二度上から下まで読んだ。
どこにも遊ぶ時間がない。昼寝も散歩もおやつもない。五歳の子供の時間割がうちの部署の繁忙期の予定表より隙間なく埋まっている。
「……これを、誰が」
「家庭教師のクラウディア・ローレン殿が組まれ、旦那様がお認めになりました。お嬢様は王太子妃にふさわしい教育をお受けになっています」
王太子妃。ゲームの中でエレノアは王太子の婚約者だった。その準備が五歳の今から始まっているということか。
そしてそれを認めたのはこの身体の前の持ち主だ。
紙の一番下に最後の一行があった。
二十一時、就寝(泣いた場合は反省文)。
俺はその一行をしばらく読み返していた。
泣くかもしれないと分かっている大人が書いた一行だ。分かっていて泣いたら反省文を書かせると決めてある。
昨日の、泣いた跡のない顔を思い出した。
三日間父親が目を覚まさなかった五歳の子供は、泣いていなかったのではない。泣けば反省文だから、泣かなかったのかもしれない。
紙を持つ右手に力が入っていた。左手は相変わらず半分しか握れなかった。
「セバス」
「はい」
「明日の朝食は娘と一緒に取る」
セバスはほんの一拍だけ止まった。それから何も聞かずに一礼した。
「かしこまりました。お嬢様にお伝えいたします」
扉が閉まってから俺は自分の言ったことを考えた。
一緒に朝食を取る。何を話せばいいのかも分からない。分かっているのは、あの予定表のどこにも父親と話す時間がないことだけだった。
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