三日目の朝
最後に覚えているのはスマートフォンの画面だった。
午前零時を少し過ぎた駅からの帰り道。コンビニの袋を提げた右手の中で、スマートフォンの画面に妹の名前が光っていた。
出ようと思えば出られた。ただその日の俺は十四時間働いていて、頭の中にはまだ明日の会議資料の数字が並んでいた。
――明日かけ直そう。
そう決めて画面を伏せた。覚えているのはそこまでだ。
*
目を開けると天井が遠かった。
天蓋というものを俺は実物で初めて見た。濃紺の布に銀糸で何かの紋章が縫い取られていて、その向こうの天井は俺のワンルームを二つ積んでも届かない高さにある。
病院ではない。病院の天井はこんなに金をかけていない。
起き上がろうとして左手が言うことを聞かないと気づいた。指先から肘まで正座のあとの足のような痺れが詰まっている。握ろうとしても指は半分しか曲がらなかった。
「旦那様」
声の方へ首を回すと、白髪の老人が寝台の脇に立っていた。黒い上着に、皺ひとつない白い手袋。背筋は定規を当てたようにまっすぐで、その顔に一瞬だけ何かがよぎり、すぐに消えた。
「お目覚めになりましたか。三日お熱が下がりませんでした」
旦那様。
俺のことか?三十八年生きてきてそう呼ばれたことは一度もない。課長代理と呼ばれたことならあるが、それも半分は皮肉だった。
「……ここは」
出てきた声に自分で驚いた。低い。平らで温度がない。丁寧に尋ねるつもりだったのに、乾いた喉から出たのはそれだけだった。
老人は眉一つ動かさずに答えた。
「王都のお屋敷の、旦那様の寝室でございます。侍医を呼んでまいります」
ほどなく侍医が来た。
灰色の髭を蓄えた男は脈を取り、俺の左手を長いこと診てから「お体に残るものがあるかもしれません、閣下」と言葉を選んだ。
旦那様の次は閣下だ。
俺はその間ずっと二人の顔を見比べていた。どちらも冗談を言っている顔ではない。本気で俺を誰かだと思っている。
だとすれば間違っているのは向こうではなく、俺の方なのかもしれなかった。
顔を洗いたいと言った。正確には「水を」とだけ言った。三日寝ていた身体は一言ごとに息が要った。
運ばれてきた銀の水盤の向こう、壁に掛かった鏡に男が映っていた。
黒い髪。灰色がかった青い目。眉間には怒っていなくても怒って見える縦皺が一本深く刻まれている。三十代半ばの、整っていて、ひどく冷たい顔。
俺は右手を上げ自分の頬に触れた。
鏡の男も同じ指で、同じ頬に触れた。
目をそらし、天蓋の銀糸を三つ数えてからもう一度見た。
男はまだそこにいた。俺がまばたきをすると男もまばたきをした。
知らない顔だった。
けれど見たことのある顔だった。
妹が「お兄ちゃん、これだけはやって」と押しつけてきた乙女ゲーム。その一枚絵で俺は何度もこの顔を見ている。断罪の大広間で立ち尽くす娘を見下ろし、たった一行の台詞を言う男。
『ヴァレンシュタイン公爵家に、お前のような娘はいない』
悪役令嬢の父親だ。
*
侍医が下がり、老人――セバスと名乗った執事長が寝台の脇で湯冷ましを注いでいる。
俺はその音を聞きながら天蓋を見上げて記憶を掘り返していた。
『光の乙女と銀の王冠』。妹は「ひかぎん」と呼んでいた。
平民出身のヒロインが王立学院に入学し王太子や騎士候補生と恋をする。そのどのルートにも同じ令嬢が立ちはだかる。完璧な礼法と冷たい言葉で取り巻きを従えた公爵令嬢。
エレノア・ヴァレンシュタイン。
ヒロインへの嫌がらせが積み重なり、最後は学年末の王宮舞踏会で罪状を読み上げられる。娘は父親を探し、父親はさっきの一行を言う。
勘当された令嬢は翌朝、北の国境へ向かう馬車に乗せられる。そして山越えの崖道で馬車ごと落ちる。
画面の中ではたった一行の後日談だった。妹は「ここ、何回見てもきついんだよね」と言い、俺は「悪役なんだから仕方ないだろ」と答えた。
自分がその父親の顔をして目覚める日が来るとは思っていなかった。
待て。まだ決まったわけじゃない。
似た顔の、似た名前の、別の誰かかもしれない。夢という線も捨てきれない。三日も熱があったなら悪夢の一つや二つは見る。
「……セバス」
呼ぶと老人は湯冷ましの器を置いて一礼した。
「この家の名を言ってみろ」
言ってから我ながらひどい質問だと思った。熱で頭がおかしくなった主人の典型だ。
だがセバスは少しも表情を変えなかった。
「ヴァレンシュタイン公爵家でございます、旦那様。アルヴェリア王国のヴァレンシュタイン公爵家」
王国の名にも聞き覚えがあった。ゲームのオープニングで同じ名前が流れていた。
「……娘が、いるな」
「はい。エレノアお嬢様が。この三日、毎朝お加減を伺いにいらしておりました」
毎朝。
俺は湯冷ましの器を受け取ろうとして左手が使えないことを思い出し、右手で受け取った。水面がかすかに揺れていた。
「歳は」
「春に五つになられました」
五つ。
ゲームの本編は学院の入学から始まる。入学は十五歳。断罪はその一年目の終わりだった。
十一年後だ。十一年後にこの家の娘は大広間に立たされる。そして父親はあの一行を言う。
その父親が今は俺だ。
会社で炎上案件を押しつけられたことは何度もある。前任者が辞め、引き継ぎ資料もなく、取引先の担当者の名前すら分からない案件。あの時は少なくとも自分が何の仕事を任されたのかは分かっていた。
今度は違う。俺が引き継いだのは十一年後に娘を見捨てる男の人生だ。
「旦那様」
セバスが扉の方へ目を向けた。廊下から小さな足音が近づいてくる。走ってはいない。一歩一歩測ったように同じ間隔で。
「お嬢様がいらしたようです。お通ししてよろしいでしょうか」
よろしいでしょうか、と聞かれても困る。
困ったまま頷くと扉が叩かれた。三回きっちり同じ強さで。
扉が開いた。
入ってきたのは驚くほど小さな女の子だった。
淡い銀金の髪を頭の形が分かるほどきつく編み上げている。紺の服には皺ひとつなく、白い靴の先がそろっている。背筋は隣に立つセバスと同じくらいまっすぐだった。
灰色がかった青い目がまっすぐ俺を見た。鏡の中の男と同じ色の目だった。
女の子は寝台から三歩の位置で止まり、スカートの裾をつまんで膝を折った。教本の挿絵を切り抜いてきたような完璧な礼だった。
「ご快復お慶び申し上げます、お父様」
声は澄んでいて一度も揺れなかった。
三日間父親の熱が下がらなかった。毎朝見舞いに来ていた。その五歳の子の顔に泣いた跡はどこにもなかった。
頬が赤くもない。目も腫れていない。ただ俺の返事を待っている。叱られる前の子供が次の言葉を待つ時の顔で。
何か言わなければならなかった。
ありがとう、か。心配をかけたな、か。こっちへおいで、か。どれも違う気がした。どれを言ってもこの子はきっと同じ顔で「はい」と答える。
俺は口を開け、閉じ、もう一度開けた。
「……ああ」
出てきたのはそれだけだった。
女の子――エレノアはもう一度礼をした。そして来た時と同じ歩幅で扉の向こうへ帰っていった。
足音が遠ざかるまで俺は閉じた扉を見ていた。
十一年後に娘を見捨てる男の身体で、俺は五歳の娘の扱い方を一つも知らない。
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