調べるのはわたくし
(エレノア)
銀の髪の令嬢の立ち去るを見し者あり。
あの一行は読み上げられた声のまま耳に残っていた。朝の洗面所で髪を梳いている時にも、算術の問いの途中にも、ふいに戻ってきた。立ち去る、という言葉がいちばん嫌だった。わたくしは上の渡り廊下の端から一歩も動けなかったのに、紙の中のわたくしは背を向けて歩いていく。
奉献から十日が過ぎた。学院は夏の休みに向けて少しずつ浮き立っていた。リリアは七日目に杖を返して、七段目をよけて西の小階段を上るようになった。雨の日は、わたくしが手すりの側を歩く。
お父様からの手紙は二度来た。
学院と警備の長が調べている。分かったことは知らせる。どちらにもそう書いてあった。お父様の字はいつもより丁寧で、そのぶん遠かった。
知らせる、と書かれるたびに、わたくしは待つ側に座らされる。紙の中の役と同じように。
*
殿下の手紙は奉献の晩に来ていた。
短かった。本文は三行で、追伸はなかった。
――あなたが上にいたと、アーヴェル嬢が皆の前で言ったと聞きました。礼拝堂の裏の段には、行かずに戻りました。菩提樹は、あなたが行きたいと思える日に。
追伸がないのは、ごめんなさいの一行で終わったあの手紙以来だった。三行しかないと、どこで息をついたのかが分からない。返事は二日かかった。
――行きたいと思える日は、わたくしが決めます。決まったら、すぐにお知らせします。追伸は、次の手紙で二つ分ください。
まだその日は決まっていない。決めたい日が、先に一つあった。
*
お父様は学院長に会う用で、十日目の昼過ぎに学院へ来た。
寮監の先生の許しをもらって、女子寮の面会室を使った。小さな部屋で、窓の外に寮の裏の洗濯物の竿が見える。カイル様は扉の外に立った。
お父様は椅子に座る前に、わたくしの顔と手を順に見た。左手はもう震えていない。それを見てから座った。
「警備のことで、学院長と決めてきた。旧講義棟の奥の戸は閂を替えて、外から錠をかける。灯り番の部屋は――」
「お父様」
わたくしは膝の上で手を重ねた。言うことは昨夜のうちに紙に書いて三度読み、紙は焼いた。
「わたくしは、説明を待つ側でいたくありません」
お父様の口が続きの言葉の形のまま止まった。急かさずに聞く時の顔になった。
「わたくしにできることは、わたくしがします」
「何をする」
「なぜわたくしを殿下から遠ざけたいのか。それを知りたいのです」
お父様の指が膝の上で一度だけ動いた。
「お母様は、わたくしを王家へ近づけないで、とおっしゃいました。紙の中のわたくしが悪役なら、それはわたくしを殿下から遠ざけるお話です。お母様の願いと、あの紙を書いた人の望みは、向きだけ同じです。中身は違うはずです。違うことを、確かめたいのです」
九つの夏に、先生から母の家のことを聞いた。誓いの立会いをする家。血を引くのはわたくし一人。そのあとで、しないことを決めた。外で母の家の名を言わない。大聖堂の文庫へ行かない。母の家のことを人に尋ねない。手紙に書かない。
六年、守ってきた。
「学院の図書館に、古い記録の原本の棚があります。先生が入れなかった棚です。学院の者の名でなければ願い出られない。わたくしは、学院の者です」
お父様はしばらく窓の外の竿を見ていた。洗濯物は一枚も干していなかった。
「何を読む」
「建国の頃の誓いの写しです。いちばん古いものを。学院が古法を教えるために置いている写本があるはずです。母の家が誓いに立ち会う家なら、立ち会う者と王家のあいだに、わたくしの知らない決まりがあるのかもしれません。あるなら、建国の誓いに書いてあるはずです。母の家の名は出しません。何のために読むのかも、人には言いません。読むだけです」
「古い字だ」
「読めるところまでは、わたくしが読みます。読めないところは、読める人に頼みます」
お父様がわたくしのほうへ向き直った。
「九つの時に決めたことを、変えるんだな」
「変えるのではありません。足すのです」
自分でも思ったより早く答えが出た。
「外で名を言わない。人に尋ねない。手紙に書かない。それは守ります。そこに、学院の棚を自分の名で読む、を足します。足したら、お父様にお知らせします。今、そうしています」
お父様は長く息を吐いた。それから、ないはずの眼鏡を指で押し上げた。考えごとの時の癖だ。
「条件を三つ言う」
「はい」
「一つ。棚へ行く時はカイルに言え。中までは入らなくていい。図書館の入口まででいい。二つ。見つけたことは手紙に書くな。休みの日に屋敷で、口で話せ。急ぐことなら、中身は書かずに会いたいとだけ書け。三つ」
お父様は一度言葉を切った。
「三つ目は、俺のほうの条件だ。学院の中のことは、俺には調べられない。帳面も棚も、学院の者の名でなければ開かない。だから学院の中で何が分かったかは、お前が話してくれなければ、俺は知らないままになる。……知らないままでいるのは、俺には向いていない。向いていないが、待つ」
わたくしは少しのあいだお父様の顔を見ていた。待つ、とお父様が言うのを初めて聞いた気がした。
「俺は外を見る。学院の外から来た話がある。案内役の女はどこから学院に入ったのか。教会の机に紙を置いたのは誰か。その金はどこから出たか。学院の外の帳面なら、俺の名で開くものもある」
「では、分けましょう。中はわたくし、外はお父様」
「分ける」
それで決まった。決まってから、お父様は肩掛けを持ってこなかったことを少し悔やむような顔で、面会室の窓の隙間風を気にした。夏なのに。
*
図書館の窓際の机にノアはいた。
入学の四日目と同じ席で、同じように古い写本を広げ、同じように紙に写していた。違うのは、袖口のインクの染みが三つ増えていたことだけだった。
「ノアさん。お願いがあります」
ノアは顔を上げなかった。
「何」
「解読が要るのです。古い記録の原本の棚にある写本を、読みたいのです。わたくしの読めない字が、きっとたくさんあります」
「どの写本」
「建国の頃の誓いの写し。この学院にある、いちばん古いもの」
ペンが止まった。ノアはわたくしの肩の少し上を見た。
「あれは原本の棚だ。一年は入れない」
「学院長の許しがあれば、学生本人の名で入れると規則にあります。四十一頁です。補佐も一人、付けられます」
「……読んだのか、規則」
「ゆうべ、二度」
ノアは鼻の頭を掻いた。インクが少し付いた。
「なんで俺」
「字の表の写し間違いを、三十頁目で見つけた人だからです」
ノアはしばらく黙っていた。それから写していた紙をこちらへ少しずらした。古い字の横に、今の字で読みが細かく書いてあった。撥ねの丁寧な字だった。
その撥ねに見覚えがあった。
「この字の書き方は、どなたに習ったのですか」
「爺さん」
ノアは紙を引き戻した。
「北の修道院で育った。字は、そこにいた学師の爺さんに習った。九つの時に、爺さんは王都へ行った。……オズワルド・ハインって人」
わたくしは手の中の鉛筆を握り直した。
先生の指も、爪の際までインクで黒い。先生の撥ねも、こういう形をしている。九つのわたくしに星図の向きを教えた時、先生は紙の端に同じ撥ねで北と書いた。
「先生を、存じています」
「知ってる。王都で斬られたって聞いた。生きてるのも知ってる。手紙が来る。どこにいるかは書いてこない」
ノアはそこで初めてわたくしの目を見た。一瞬だけだった。
「あんたは知ってるのか」
知っている。東の棟の露台の隣で杖をついて、毎朝窓を開けている。
「どこにいらっしゃるかは、申し上げられません」
ノアの目がまた肩の少し上に戻った。
「お元気です。杖をついておられます。朝はお粥を、半分だけ残されます」
ノアの口の端がほんの少し動いた。
「半分残すのは昔からだ」
ノアは写本を閉じた。
「補佐でいい。俺も自分の名で出す。爺さんが読めなかった棚なら、読みたい」
*
願い出の紙は表の書架の係ではなく、奥の司書の部屋で書いた。
司書は眼鏡を額に上げた年配の人で、わたくしの紙を最後まで黙って読んだ。
「原本は、古法の担当の先生の署名と、学院長の許しが要ります。許しが出たら、資料室で三度。夏の休みの前までに。司書が一人立ち会います。インクは持ち込まないこと。写すのは鉛筆で、別の紙に。綴じ紐には触らないこと。葉はこちらでめくります」
「はい」
「補佐の方も、ご自分の紙を」
ノアがもう書いていた。字は表のものと同じ撥ねだった。
わたくしの紙の最後に印を押した。名の頭の一字。左の角が欠けた印。蝋が固まるのを三つ数えて、まっすぐ上へ。
十二の時、先生の紹介で古い字の教本を借りたことがある。貸してくださったのは先生の知り合いの司祭様で、借りる紙にはお父様の名と先生の名が並んでいた。わたくしの名はその下に小さく書いた。返す日も先生が決めた。
今日の紙には、わたくしの名しかない。
隣でノアがわたくしの印を覗き込んだ。
「欠けたままだな」
「欠けたまま使っています」
「それでいい」
司書が二枚の紙を重ねて綴りに挟んだ。
「許しが出れば、来週には」
*
その晩、お父様に手紙を書いた。
中身は書かない。見つけたことも、まだ何もない。
それでも書きたかった。自分の名で願い出たことだけは知らせたかった。
――お父様。どの欄でもないお知らせです。今日、自分の名で願い出の紙を出しました。補佐は、先生の昔の弟子でした。お父様もご存じない方です。休みの日に、口でお話しします。
――追伸。面会室の隙間風は、夏はちょうどよいのです。
封には、お母様の星の印を押した。
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