救われる役
娘に会えたのは昼の鐘のあとだった。
医務室の奥の小部屋で、娘は湯気の消えた茶碗を両手で持っていた。組の先生が戸口で会釈をして廊下へ出た。聞き取りは済んだと警備の長から聞いていた。何を話したのかは聞いていない。聞かないと決めていた。
「怪我は」
「ありません。どこも」
娘は茶碗を卓に置いた。置く時に底が小さく鳴った。左手がまだ思うように動いていなかった。
「リリアさんが、言ってくれました」
「聞こえた」
「……わたくし、手を伸ばしたのです。届かないのに」
階段の下から見えたのは震える手だけだった。何を掴もうとしたのかは、さっきリリアの言葉で知った。
「助けようとしたんだな」
「……助けたかったのです」
娘は自分の左手を見た。それから右手でその手首を握った。握ったまま、少しのあいだ目を閉じていた。
「お父様。今日は、お屋敷に帰りません。寮にいます。リリアさんが寮にいるので」
「分かった。カイルは今夜から寮の門に詰める。学院の許しはもう取った」
「それは、一つ目の欄のことですね」
「一つ目の欄のことだ」
娘は少しだけ笑った。笑ったのは今日初めてだったと思う。
*
夕方の鐘のあと、詰所の卓に物が並んだ。
学院長が奥の椅子に座っていた。行事係が卓の端で控えの紙を広げ、警備の長が一つずつ指で示した。俺は今朝と同じ卓の端にいた。付き添いとして呼ばれたのだと、警備の長は学院長の前で言った。
一つ目は封をした偽の書付。王太子府の答えは今朝のとおりで、次官は出していない。
二つ目は雨の道の書付。行事係の字に、警備の長の署名がある。刻は一の鐘。
三つ目は二人分の書き取りだった。事務棟の別々の部屋で、記録係と絵描きが一人ずつ話したことを、事務の者が書いたものだ。
「記録係の話から申します」
警備の長が紙をめくった。
「今朝、夜明けの鐘のすぐあと、典礼係の使いが事務棟の部屋へ来た。殿下と光の乙女が北の階段でお会いになる、その場を見て書け、絵描きも連れていけ、と言った。使いの顔は知らない者で、典礼係の札を見せたと。絵描きの話も、使いが来た刻と言葉は同じです。二人は互いの話を聞いておりません」
使いの顔を知らないのは二人とも同じだった。
「それから、これを」
警備の長が革の綴りを卓に置いた。記録係の聞き取りの綴りだ。リリアに十二の問いをした、あの綴りだった。裏表紙の内側に紙が一枚挟まっていた。
警備の長はそれを抜いて、俺の前に広げた。
「記録係は、北の階段の踊り場で上の者に止められた時、ここで書けと言われたのだと申して、この紙を上の者に見せております。上の者は字の読める者で、北の階段、殿下、抱きとめたまう、の行を、西の小階段の声が上がる前に読んだと申しております。最後の行まで確かめたのは、私の指図で預かった時です」
教会の紙だった。書記の字らしい整った字が並んでいた。
――光の乙女の記。初夏の奉献。
――雨の朝、礼拝堂へ下る北の階段にて、光の乙女、濡れた段に足を取られて踏み外す。折しも階を下りたまう殿下、御手にこれを抱きとめたまう。乙女に怪我なし。
――乙女、頬を染めて申す。殿下のお手の温かさを、生涯忘れませぬ。
――踊り場の上より、銀の髪の令嬢の立ち去るを見し者あり。
読み終えて、もう一度最初から読んだ。二度目は字ではなく墨を見た。
「雨の朝」と「北の」の二か所だけ墨の色が違っていた。下に削った跡があり、透かすと「晴れの朝」「大」と読めた。
「記録係が申すには、これを受け取ったのは奉献の三日前の夕方です。典礼係の書記から、清書は礼拝のあとに、と。受け取りは綴りの控えに書いてあります」
警備の長が綴りの最後の頁を開いた。記録係の字で一行あった。
――奉献の記の下書き、受く。典礼係書記より。奉献の三日前、夕の鐘。
「直したのは記録係自身です。今朝、使いが口で言った。雨ならば晴れを雨に、大階段を北の階段に直せ、と。言われたとおりに削って書いたと」
学院長が一度だけ咳をした。誰も口を開かなかった。
俺は紙を見ていた。
殿下が抱きとめる。乙女に怪我はない。乙女が頬を染めて礼を言う。台詞まで書いてある。三日前に、本人に一度も聞かずに書いてある。リリアが十一番目の問いに答えなかったことを、俺は思い出した。花は渡しません。断りました。本人が断っても、紙の上では役が決まっていた。
最後の一行で手が冷たくなった。銀の髪の令嬢。その色の髪と聞いて、この学院で思い浮かべられる令嬢は一人だ。
「絵描きの画板には、これが」
警備の長が画板の紙を一枚出した。木炭の下絵だった。屋根のある階段に、二つの人影が重なっている。顔は描いていない。階段の上の端に、小さな影が一つ背を向けていた。
「前の日に、典礼係の話だけで描いたと申しております。場所を見たのは今朝が初めてだと」
俺は下絵を紙の横に置いた。並べはしたが、重ねなかった。
「灯り番の部屋のほうを申します」
警備の長は別の紙を出した。
「鍵は二本とも持ち主の手にありました。灯り番は腰に、事務は鍵の箱に。錠に傷はありません。灯り番は昨日の夕方の鐘で鍵をかけた。かける前に戸口から中を見たが、奥の細い階段の下までは見ていない、と申しております。奥の外への戸の閂は、内から外されていた。外の泥の足跡は出ていく向きだけです」
警備の長は自分の書き取りの紙に目を落とした。
「アーヴェル嬢は、押された時に乾いた毛織りの匂いがしたと申しました。雨は夜明け前からです。雨より前から中にいたのかもしれません。雨具の下で濡れずに来たのかもしれない。鍵がかかる前に入っていたのか、鍵を持っていたのかも、まだ分かりません」
分からない、と警備の長ははっきり言った。俺も手帳に「まだ」と書いた。
「案内役のほうは」
行事係が控えの紙を持ち上げた。
「奉献の案内役は十二名、先月のうちに名簿に載せ、学院長が会っております。今朝から一人、姿が見えません。この春から勤めている女です。住まいとして届けてあった下宿には、今日の昼にはもう荷がありませんでした。近衛の方が覚えておられた顔を伺って、私が十二名の中から一人に絞りました。案内役は皆、私が会っておりますので。その者の顔をお話しすると、近衛の方もそうだと」
「顔の特徴は」
「痩せた女。紺の肩掛け。左の頬に、小さな黒子」
手帳をめくった。入学式の朝の頁だ。ミーナが覚えてきた特徴を、俺はそのまま書いていた。紺の肩掛けの痩せた女。左の頬に小さな黒子。少女を薔薇園へ連れていこうとした人。問いの印は付けていない。
今も付けなかった。ミーナに顔を見せられるまでは、同じ人かもしれない、までだ。
*
三日後、学院長は教会へ書面で問い合わせた。典礼係の受け渡しの帳面は教会の物だ。学院から出す問い合わせなら、王家が教会の帳面を取り上げたことにはならない。
返事は翌々日に来た。典礼係の受け渡しの帳面に、奉献の三日前の夕方、書記の字で「奉献の記の下書き、記録係へ」とあった。書記は、典礼係の机の上に清書せよとの札とともに置いてあった、と答えた。誰が書いて机に置いたのかは、典礼係の中でもまだ分からない。奉献の朝の使いを出した者もいない、と。
受け取った日、受け取った者、持っていた者、学院が預かった刻。それだけは紙の上で揃った。誰が書いたのかは揃っていない。
学院長は、その日のうちに二人の一年とその保護者を事務棟へ呼んだ。紙のうち、二人の名や姿に触れる行だけを見せる、と前もって言った。娘は自分で来ると返事をよこした。リリアは杖をついて来た。父親は前掛けを外した上着で、袖に粉が残っていた。
行事係が写しを読み上げた。抱きとめたまう、のところで、リリアの父親の肩が動いた。頬を染めて申す、のところで、リリアが顔を上げた。
「わたし、そんなこと言ってません」
声は大きくなかった。
「殿下のお手、触ったこともないです。言ってないことが、わたしの言ったことになってる」
「言っていないことは、言っていないと書きます」
学院長が言った。行事係がそれを紙に書いた。リリアは杖の握りを両手で包んで、自分の膝を見た。父親がその手の上に、粉の残った手を置いた。
最後の行が読まれた。銀の髪の令嬢の立ち去るを見し者あり。
娘は背筋を伸ばしたまま、読み上げる行事係の口元を見ていた。読み終わっても、しばらくそのままだった。
「銀の髪の令嬢は、わたくしですね」
「この紙の中では」
学院長が答えた。娘は頷いた。
「わたくしは、北の階段にはおりませんでした。西の小階段では、上の渡り廊下の端におりました」
「存じております」
「それでも、紙の中では、わたくしは上から立ち去るのですね。リリアさんは足を取られて、殿下に抱きとめられて、礼を言う」
娘はリリアを見た。リリアも娘を見ていた。
「わたくしたち、二人とも、役をもらっていたのですね。頼んでもいないのに」
誰も答えなかった。答えられることではなかった。
*
帰りの馬車で手帳を開いた。
春に書いた行がある。悪役は、誰かが作っている?
その下に一行だけ足した。
――話の中の乙女は、怪我をしない。
本当のリリアは、杖をついて父親に付き添われ、寮へ戻っていった。
窓の外で、学院の丘が遠ざかっていった。
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