押したのは
(リリア)
「エレノア様は、上にいました」
声は思ったより出た。階段の下で固まっていた次の組の子たちが、一度にこっちを見た。
「わたしの前の、ずっと上です。わたしが押されたのは、横からでした」
言ってから、手のひらが痛いのを思い出した。両手とも石の段の角で皮がむけて赤くなっていた。
焼きたてのパンの匂いは、あとから窓を開けても店の壁に残る。押したの、という声はもう出てしまった。その横に、わたしの見たことを一つだけ置いておきたかった。
「アーヴェル嬢」
警備の長さんが階段の下からわたしを見上げていた。五十くらいで、袖口のすり切れた人だ。その横に公爵様がいた。一歩前に出かけた足を、自分で戻したところだった。
「ありがとうございます。続きは、あとで一人ずつ伺います。お一人で、ゆっくり」
「……はい」
わたしは口を閉じた。上の渡り廊下の端で、エレノア様が手すりの柱を握ったままわたしを見ていた。顔が紙みたいに白かった。わたしが頷くと、エレノア様も少しだけ顎を引いた。
踊り場の灯り番の部屋の扉は半分開いたままだった。カイル様が入っていった扉だ。中は暗くて何も見えなかった。
*
医務室は講堂の裏の平屋で、薬草と石鹸の匂いがした。
わたしは警備の若い人に椅子ごと運んでもらった。医務室の先生は白髪の混じったおばあさんの先生だった。わたしの足首の手巾をほどくと、指で骨のところを順に押した。
「折れてはいないわね。ひねっただけ。腫れるから冷やして、三日は杖。手のひらは洗って、薬を塗って、布を巻きます。しみるわよ」
しみた。水を流された時は声が出そうになって、歯を食いしばった。窯の鉄の扉に腕の内側をつけた時よりは痛くないと思うことにした。
エレノア様は別の部屋にいた。組の先生が付き添っていて、扉が閉まっていた。手当ては済んだと、医務室の先生が教えてくれた。
「怪我はないそうよ。手が冷たいから、温かいものを飲ませているの」
隣の部屋から話し声はしなかった。
遠くで鐘が鳴った。二の鐘だった。少しして礼拝堂のほうから歌が聞こえてきた。奉献の歌だ。一年はあの列の中にいるはずだった。わたしもエレノア様の二人うしろに並んで、歌のところで口を動かすはずだった。
礼拝のあと、殿下は礼拝堂の裏で四半刻お休みになる。詰所で見せてもらった知らせにそう書いてあった。その四半刻にエレノア様が裏の段へ行くことを、わたしは知っていた。二つ目の欄です、とエレノア様が少しだけ赤い顔で言ったから、それ以上は聞かなかった。
今日はもうその段へは行けないだろう。
*
警備の長さんは手当てのあと、奥の小さな部屋でわたしの話を聞いた。
組の先生が一人、隅の椅子に座っていた。エレノア様に付いていたのとは別の算術の先生だった。警備の長さんは卓に紙を置いて、自分でペンを持った。
「見たことと、聞いたことと、思ったことを分けて伺います。分からないことは、分からないと言ってください。それも書きます」
「はい」
「階段を上った時の、並んでいた順から」
わたしは思い出せる順に言った。
組の列で上っていた。わたしは組のいちばんうしろ。わたしの一人前が淡い茶色の髪の子で、その前がエレノア様。カイル様は手すりの側をエレノア様の三歩うしろの辺りで上っていた。階段の下と上に警備の方が一人ずつ立っていた。
七段目で、わたしは一度止まった。真ん中がすり減っていて、雨の日は滑る段だ。靴の底で確かめてから上がったので、前の子とのあいだが開いた。前の子は振り向かずに上っていった。
「わたし、七段目で止まったんです。だから踊り場に着いた時には、前の子はもう上の段の途中で、エレノア様は上の段の終わりにいました。渡り廊下に足をかけるところでした」
「あなたは踊り場のどこに」
「上の段へ曲がるところです。右足を、上の段の一段目に載せようとしていました」
警備の長さんは紙に小さな四角を描いた。踊り場だ。四角の端に線を一本引いた。
「扉は」
「わたしの左の、少しうしろです」
ペンの先が止まった。
「何が聞こえましたか」
「かちり、って。錠の音だと思います。思ったことです。それから扉の蝶番がきしみました。うちの粉の蔵の扉と同じ音でした」
「匂いは」
聞かれるとは思わなかった。でも、覚えていた。
「灯り油の匂いがしました。それと、毛織りの匂い。乾いた毛織りです」
「乾いた」
「みんな雨で濡れてたんです。わたしの上着も、前の子の肩も。濡れた毛織りは、もっと重たい匂いがします。あれは乾いてました」
警備の長さんは何も言わずに書いた。書く手が少し速くなった。
「手は」
「左の肩の、うしろです。肩甲骨のところ。大きい手でした。手のひらで、横へ押されました。上の段のほうじゃなくて、下の段のほうへ」
言いながら、背中がまたその形を覚えているのに気づいた。息が浅くなった。隅の先生が身を乗り出しかけて、また椅子に戻った。
「ゆっくりで結構です」
わたしは手のひらの布を見て息を吸った。灯りを呼ぶ時は吸いながら、と教科書に書いてあった。灯りは呼ばずに、息だけ吸った。
「手すりをつかもうとしました。右手で。つかめたと思ったんですけど、手すりの留め金に袖が引っかかって、袖のほうが先に裂けました。それで落ちました。天井の梁が見えて、それから、下の方の腕が来ました」
「下の警備の者ですね」
「はい。七段目の辺りだったと思います。すり減ってる段です。そこで止まって、二人で三段目まで滑りました」
「押した者の顔は見ましたか」
これを聞かれると思っていた。思っていたから、医務室で手を洗われているあいだに言い方を決めておいた。
「見ていません。振り向けませんでした。見えたのは、開いた扉の板と、扉の中へ戻っていく灰色の袖の端だけです。背の高さも、顔も、分かりません」
「では」
「だから、誰の名前も言いません」
警備の長さんが顔を上げた。
「でも、エレノア様じゃないことは言えます」
わたしは卓の上の小さな四角を指でさした。踊り場の四角から上の段の線をずっと辿って、いちばん上の端まで。
「わたしが落ちた時、エレノア様はここにいました。振り向いて、こっちへ手を伸ばしてました。口が、リリア、って動いてました。手は、届くところになかったです。届く距離じゃなかったんです。だから、押したのはエレノア様ではありません」
隅の先生が小さく息を吐いた。警備の長さんはわたしの言ったとおりに書いた。書き終えると、紙をわたしのほうへ向けた。
「これで合っていますか。違うところがあれば」
読んだ。わたしの言ったことが、わたしの言った順に並んでいた。乾いた毛織り、と書いてあった。思ったことの横には小さな印が付いていた。
「合ってます」
「上の警備の者は、上から見下ろしていました。あの扉は外へ開きます。開くと、扉の板が上の段のほうへ張り出す」
警備の長さんはそこで言葉を止めた。上からだと扉の陰が見えにくい、ということだ。警備の長さんはそれ以上言わなかったし、わたしも聞かなかった。
「もう一つだけ。下で、押したの、と言った声がありましたね」
「はい」
「あれを聞いて、どう思いましたか」
答える前に少し考えた。考えたら、お腹の底がまた熱くなった。
「怒りました。でも、あの子たちは下にいたから、エレノア様が上にいたのは見えたんだと思います。上にいたのは本当です。上にいたから、押せなかったんです。それも、あの子たちに分かるといいと思います」
話が終わって廊下へ出された時、医務室の表の扉が開いた。
カイル様だった。上着の裾から水が垂れていた。膝から下が泥だらけで、髪が額に貼りついていた。警備の長さんが奥の部屋から出てきて、カイル様は廊下の端で背筋を伸ばした。わたしは長椅子の上で、聞こえないふりができなかった。
「報告します。扉の中は灯り番の道具の部屋で、奥に細い階段がありました。下りると外への小さな戸があり、閂は内から外されていました。外の泥に足跡。西の生垣の切れ目まで追いましたが、その先の石畳で見失いました」
「見たものは」
「扉が開いて、男が半身出ていました。灰色の外套。背は自分より頭半分低い。アーヴェル嬢の肩の高さに手がありました。その手が何をしたかは、扉の板で見えませんでした。男はすぐ中へ戻りました。顔は見ておりません」
見えませんでした、とカイル様ははっきり言った。言い直さなかった。
「お嬢様は上の警備の者に預けてから追いました。持ち場を離れました」
「預けたことは、上の者から聞いている。足跡の場所を、もう一度、私に見せてくれ」
二人はそのまま外へ出ていった。
わたしの肩の手と、カイル様の見た手は、同じ扉の同じ側にあった。どっちも顔は見ていない。
でも、二つ並べたら、扉の中に誰かがいたことだけはもう誰にも消せない気がした。
*
夕方の鐘の少し前にエレノア様が来た。
組の先生がわたしの部屋の扉を開けて言った。四半刻だけですよ。お二人とも聞き取りは済んだから、話してかまわないと、警備の長さんがおっしゃいました。それから先生は廊下へ出た。エレノア様は寝台の横の椅子に座った。座り方がいつもよりゆっくりだった。
エレノア様は膝の上で両手を組んでいた。左手が右手の中でまだ少し震えていた。
「足は」
「ひねっただけです。三日は杖だって」
「手は」
「しみました」
エレノア様はわたしの手の布を見た。それから壁に掛けてあるわたしの上着を見た。右の袖口が裂けて、縫い目の糸が三本外へ飛び出していた。
「袖」
「はい。留め金に持っていかれました」
「また、縫いましょう。今度は、わたくしが右を」
エレノア様は左のふたを四回縫った。途中で一度は逆さまになった。ほどいたのは三回です、とエレノア様は言い張ったけれど。それでも右をやると言った。
「お願いします」
話してかまわないと言われても、何から言えばいいのか分からなかった。だから、いちばん言いたかったことから言った。
「手、届かなかったですね」
エレノア様の指がほどけかけて、また組まれた。
「……届きませんでした」
「届く距離じゃなかったです。だから、言えたんです」
エレノア様はしばらくわたしを見ていた。目の縁が少しずつ赤くなった。泣くのかと思ったけれど、泣かなかった。かわりに背筋をいつもより少しだけまっすぐにした。
「リリアさん。ありがとう」
「どういたしまして」
言ってから、二人とも少し笑った。
廊下で足音がした。急いでいる重たい足音に、走らないでください、という医務室の先生の声が重なった。扉が開く前から分かった。窯の前で一日立っている人の足音だった。
「リリア」
お父さんは前掛けのまま来ていた。袖も髭も粉で白かった。わたしの足と手を見て、それから壁の上着を見た。
「誰に」
「顔は見てない」
お父さんはわたしの頭に手を置いた。粉の匂いがした。
「見てないなら、見てないでいい」
エレノア様が椅子から立って、お父さんに頭を下げた。お父さんも慌てて頭を下げて、粉がぱらぱらと床に落ちた。
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。
Xでも更新情報などを発信しています。
よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!
https://x.com/st_shosetsu




