変わった順路
奉献の朝は、寝室の窓を叩く雨の音で目が覚めた。
夜明け前から降っていた。地図の写しを上着の内側に入れて屋敷を出た。セバスは門の外の馬車に残った。学院の帳面に載っているのは当主だけだ。
詰所には二の鐘まで、と警備の長が言ってくれていた。俺はそれまで卓の端に座る。指図はしない。気づいたことがあれば言う。それだけを、前の晩に自分で決めてきた。
行事係も詰所にいた。袖の墨の跡が、雨に湿って滲んでいた。
「雨は、一の鐘までにやむかもしれません」
警備の長は窓の外を見た。
「やまなければ、雨の道にします。書付はここで書いて、ここで署名します」
*
一の鐘が鳴っても雨はやまなかった。
行事係が卓で書付を書いた。雨のため、一年は雨の道を通る。寮より旧講義棟の一階を抜け、西の小階段より二階の渡り廊下へ、講義棟を通り、北の階段より脇扉へ。書き上がった紙に警備の長がその場で署名した。
走り役が二人、写しを懐に入れて出ていった。「配置よし」を聞くまで、一年は寮を出ない。
走り役が出てまもなく、近衛が一人、詰所の戸口に立った。肩から雨が滴っていた。
「殿下の道筋の変更の書付が、侍従の次官のお名前で、正門の車寄せに届いております。雨のため旧講義棟の東の車寄せへ回り、二階の渡り廊下から講義棟を通って、北の階段より脇扉へ、と。警備の長の署名がございませんので、応じておりません。殿下は正門でお待ちです」
近衛は書付を卓に置いた。王太子府の紙で、次官の署名がある。日付の横に刻が書いていなかった。
「誰が持ってきた」
「学院の案内役の者です。行事係の使いだと申して、すぐに戻っていきました。顔は覚えております」
行事係が首を振った。
「私は今朝、雨の道の一枚しか書いておりません。案内役に殿下のことを頼んだ覚えもない」
「近衛のどなたかに、王太子府へ確かめに行っていただけますか。私の走り役は出払っております」
警備の長が言うと、近衛は頷いた。
「殿下は、それまで正面の大階段から。傘をお差しします」
近衛が言った。警備の長は行事係のほうを向いた。
「それから、その案内役を」
「事務の者に探させます。見つけたら、ここへ」
行事係が立ち上がった。
近衛が出ていった。俺は卓の上の偽の書付を見ていた。
旧講義棟の東の車寄せ。雨の道を使う時は閉める、と決めた扉だ。そこから二階の渡り廊下へ。講義棟を通って、北の階段を下りる。
「待ってくれ」
声が先に出た。
「殿下の偽の道と、一年の雨の道が、北の階段で重なる」
警備の長は地図の上で二本の道を指で辿った。辿り終わる前に顔を上げた。
「走り役が戻ったら、一年を渡り廊下の手前で止めます。北の階段を確かめるまで」
ちょうどその時、走り役の一人が戻ってきた。肩で息をしていた。
「配置よし。寮監さまと案内役に伝えました。一年は、もう寮を出ております」
警備の長は戻ったばかりの走り役の肩に手を置いた。
「もう一度だ。北の階段の上の者に、踊り場と下を確かめさせろ。それから渡り廊下へ回って、一年を手前で止めろ。止めた刻を覚えておけ」
走り役はまた雨の中へ出ていった。
俺は椅子の上で手を組んだ。止める指図は、一年が寮を出たあとに出た。一年の列がいまどこにいるのか、詰所からは見えなかった。
寮から旧講義棟までリリアの足で何歩になるのかは知らない。雨の日は百十歩だと、あの子は言った。娘の組は何番目に寮を出るのか。娘の二人うしろにリリア。娘の三歩うしろにカイル。
組んだ手の指を一本ずつ数えて、途中でやめた。
*
先に戻ったのはもう一人の走り役だった。持ち場を回る途中で、北の階段の上の者から言付けを預かっていた。
「北の階段の踊り場に、教会の記録係と絵描きが来ておりました。事務棟の部屋にいるはずの者たちです。画板を広げようとしていたので、上の者が止めて、そのまま踊り場に留めております。殿下と光の乙女がこの階段でお会いになると伺った、と申しております。典礼係から、今朝早く聞いたと」
殿下の道は変わっていない。近衛が署名のない書付に応じなかったからだ。応じていたら殿下は北の階段を下りていた。雨の道の一年も、同じ北の階段を下りる。
その階段の踊り場で画板が広げられかけていた。
「二人を別々の部屋へ。事務棟の者に戸口を見させて、話を合わせる間を作るな。画板と持ち物は預かれ。誰が今朝、何を伝えたかを、一人ずつ書き取ってくれ」
警備の長が言い、行事係がそれを紙に書いて走り役に持たせた。
*
最初の走り役が戻ってきたのは二の鐘の少し前だった。
戸口で足を滑らせて、手をついた。上着の前に泥がついていた。
「西の小階段で、アーヴェル嬢が落ちました」
椅子が後ろへ倒れる音がした。俺の椅子だった。
「下の者が、段の途中で受け止めました。足を痛めておられます。手のひらに擦り傷。頭は打っておられません。医務室の先生を、組の先生の一人が呼びに行っております」
走り役は息を継いだ。
「私が渡り廊下へ着いた時、先の組は講義棟の中で止まりました。ヴァレンシュタイン嬢の組は、まだ西の小階段の途中でした。止めろと声をかける前に、下から声が上がりました。……踊り場の灯り番の部屋の扉から男が出た、とローウェンが申しております。ローウェンは上の者にお嬢様を預けて、その扉から男を追っております。扉には、鍵がかかっていたはずです」
画板が待っていたのは北の階段だった。落ちたのは、その手前の西だった。
警備の長はもう外套を手に取っていた。
「閣下」
「行く。指図はしない」
警備の長は頷いて戸口を開けた。
*
旧講義棟の一階は暗かった。雨の朝の光が、西の窓から斜めに入っていた。
西の小階段の下に、次の組の一年たちが固まっていた。組の先生が一人、皆を壁際へ下がらせていた。
リリアは下から三段目に座っていた。下の警備の若い者がその横に膝をつき、上着を脱いでリリアの肩に掛けていた。右の足首に手巾が巻いてあった。両の手のひらが赤かった。上着の右の袖口が裂けていた。娘と二人で直した上着の、染みを切って縫い直した袖口だった。
リリアは泣いていなかった。踊り場のほうを見ていた。
踊り場の灯り番の部屋の扉は、半分開いていた。
娘は上の渡り廊下の端にいた。上の警備の者が娘の前に立ち、組の先生が娘の肩に手を置いていた。娘は右手で手すりの柱を握っていた。握った指が白かった。左手は胸の前で、何かを掴み損ねた形のまま、小さく震えていた。
次の組の一年たちの中から小さな声がした。
「エレノア様が、上にいらしたの」
別の声が続いた。
「……押したの?」
階段の下の空気が、一度に冷たくなった。組の先生が、静かに、と言った。静かになった分だけ、目が上へ集まった。
十年前の客間でも、皆がこうして娘を見た。
娘の左手は、まだ震えていた。あの手が何を掴もうとしたのか、俺は見ていない。震える手から、目を離せなかった。
足が前へ出た。警備の長が、俺の横に並んだ。
「閣下。医務室の先生が着いたら、まずお二人の手当てを。それから、見たことを一人ずつ伺います。お嬢様にも、アーヴェル嬢にも、ここにいる皆さまにも。先にこちらで伺います。すぐにお会いになれます」
前へ出た足を、自分で戻した。戻して、階段の上へ声を投げた。
「エレノア。怪我はないか」
娘が俺を見た。首を一度だけ横に振った。それから手すりの柱を握ったまま、下の段のリリアを見た。
リリアが口を開いた。
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。
Xでも更新情報などを発信しています。
よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!
https://x.com/st_shosetsu




