階段の地図
学院の警備の詰所は正門の脇の石造りの小屋だった。
卓の上に地図が一枚広げてあった。礼拝堂と講義棟と旧講義棟と女子寮が、上から見た形で描いてある。階段のところだけ、細い線が段の数だけ引いてあった。
警備の長が地図の四隅に文鎮を置いた。娘がその向かいに座っていた。娘の隣にリリアがいた。カイルは扉の脇に立っていた。
「アーヴェル嬢にも来ていただきました」
娘が言った。
「奉献の日に、いちばん長く歩くのはリリアさんです。リリアさんの道は、リリアさんに聞くのがいいと思いました」
「公爵様、こんにちは」
リリアは膝を折って、それから俺の顔を見た。
「今日は、困った顔と怖い顔の、まんなかです」
「……地図を見る顔だ」
「それです」
警備の長が、王太子府からの紙を地図の横に置いた。正式な知らせだった。王太子府の印と侍従の次官の署名がある。
――殿下、二の鐘の前に正門着。正面の大階段を上がり、礼拝堂正面より入堂。礼拝ののち、四半刻、礼拝堂の裏にてご休息。その後、正門より還御。
――道筋の変更は、王太子府から学院の警備の長へ書面にて知らせる。近衛は警備の長の書面のない変更には応じない。
礼拝堂の裏にて、四半刻、ご休息。
娘の手紙にあった四半刻だった。
俺は、ご休息、の三文字から目を離した。娘も地図から目を上げなかった。リリアが、俺と娘の顔を順に見て、口の端を少しだけ持ち上げた。
カイルが天井を見ていた。
「次に、一年の道です」
警備の長が地図の上に指を置いた。
「一年は寮を一の鐘のあとに出て、回廊を通り、礼拝堂の正面へ。組の順に並んで入ります。花の予定が外れましたので、アーヴェル嬢も組の列に戻られます」
「わたし、一年の列で、エレノア様の二人うしろがいいです」
リリアが言った。
「組の順だと、わたしの前に二人います。そのままで」
「控えの間には、行かなくてよろしいですか。教会の方が、光の乙女のための席を、と」
「行きません。花がないので」
警備の長は頷いて紙に書いた。アーヴェル嬢、組の列。本人の希望。
本人の希望、という五文字を、俺はしばらく見ていた。学院の帳面の、本人に知らせた、の横に並べてやりたかった。
地図の上の階段は四つあった。殿下が上がる正門の大階段と、講義棟から礼拝堂の脇扉へ下りる屋根つきの北の階段と、礼拝堂の裏口の五段。それに旧講義棟の西の端の小さな階段で、これだけが途中に踊り場を一つ持っていた。
「西の小階段は、奉献の日には使いません」
警備の長が言った。
「旧講義棟は、今は授業に使っておりません。物置と、窓拭きと灯り番の道具の部屋があるだけで」
「雨が降れば、一年は使います」
娘が言った。
「寮から講義棟へ行く近道です。旧講義棟の一階を抜けて西の小階段を上がると、二階の渡り廊下で講義棟へつながります。屋根の下だけを歩けるので」
「七段目が、すり減ってます」
リリアが言った。
「真ん中がへこんでて、雨の日は靴の底が滑るんです。わたし、九十二歩の日と百十歩の日があるんですけど、百十歩のほうが西の小階段の日です」
「踊り場に扉が一つあります」
娘が地図の踊り場を指でさした。
「灯り番の方の道具の部屋の扉です。いつも閉まっています。開いているのを、わたくしは一度だけ見ました」
警備の長はしばらく地図を見ていた。それから紙をもう一枚出して二つに折った。
「では、道を二つ作ります。晴れの道と、雨の道」
晴れの道は寮から回廊を通って礼拝堂の正面へ。雨の道は、寮から旧講義棟の一階を抜け、西の小階段を上がり、渡り廊下から講義棟へ入って、北の階段を下りて脇扉へ。
警備の長は、二つの道の上に、それぞれ丸を描いていった。
俺は手帳を膝の上で開いていた。開いている頁には、ここにいる誰にも見せられないことが書いてある。
――階段 夏の終わり? 前期試験の日。講義棟の西の階段。光の乙女が落ち、殿下が抱きとめる。証人はコルネリア、「エレノア様が押した」。
この学院に講義棟の西の階段はない。あるのは旧講義棟の西の小階段だ。画面と同じ階段かもしれないし、違うかもしれない。時期も行事も違う。違っても、起きないとは言えない。
言えないことを、口には出せない。だから言えることに変えた。
「人が一度に動く日は、どの階段も危ない。その日に誰かが通る階段は、上と下に一人ずつ置いていただきたい」
「晴れなら、そういたします」
警備の長は指を折った。
「持ち場につく警備は十二名。別に、私と走り役が二名。殿下の近衛は殿下のおそばを離れません。雨の日は回廊の二名を西の小階段の上と下へ回します。どちらの道でも、一年の通る階段には上と下に人がいる」
「家の者を出せる。前もって名と顔を届けておけば」
「ありがたいお申し出ですが、学院の決まりで、行事の日に役につく者は前の月のうちに名簿に載せて、学院長が会っておくことになっております。奉献まで十日です。騎士団の詰所も、その日は王都の奉献の行列に人を出していて、借りられる者がおりません」
警備の長は言いにくいことを先に言った。それから、人を増やさずにできることを並べた。
「雨の道を使う時は、旧講義棟のほかの出入り口を閉めます。一階の東の車寄せの扉も。踊り場の灯り番の部屋は、前の晩に灯り番に鍵をかけさせます。鍵は灯り番と事務に一本ずつ。それと」
警備の長は行事係から届いていた紙を、地図の横に出した。教会の典礼係が、当日、記録係と絵描きを控えさせる部屋を旧講義棟の一階に借りたいと願っている。光の乙女の記の挿し絵を描くのだという。
「この部屋は、旧講義棟ではなく、事務棟でお貸しするよう学院長に申し上げます。道の上に、道に関わらない者を置かない」
「花は外れたのに、絵描きは来るのですね」
娘が言った。地図を見たままだった。
「もう一つ、決めておきたい」
俺は手帳を閉じた。
「道を変えたことが、いつ、誰から、誰へ伝わるか。それと、道を変えてから、人が歩き出すまでの順だ」
警備の長はすぐに書いた。
――当日の道の変更は、行事係の書付に警備の長の署名のあるものだけを正式とする。
――署名したら、走り役が持ち場を回り、雨の道の配置につかせる。持ち場が整ったことを走り役が確かめ、その足で寮監と案内役に「配置よし」を伝える。一年は「配置よし」を聞くまで寮を出ない。案内役もこの決まりに従う。
――案内役から道の変更を聞いても、署名つきの書付がなければ、もとの道で近くの警備に確かめる。
「走り役が全部の持ち場を回るのに、どれくらいかかる」
「二名で手分けして、四半刻の半分。混んでいれば、四半刻。そのあいだ一年は寮で待ちます。礼拝の始まりが少し遅れても、それは構わない」
「わたし、道が変わったら、エレノア様に言います」
リリアが手を挙げた。授業で手を挙げる時の挙げ方だった。
「エレノア様も、変わったら、わたしに言ってください」
「はい。わたくしが先に知ったら、カイル様にも」
「自分の持ち場は、お嬢様の三歩うしろです」
カイルが扉の脇から言った。
「礼拝堂の中では、一年の列の壁際。お嬢様が動けば、自分も動きます。持ち場から見えた変わったことは、その場で近くの警備の方に。お嬢様のそばを離れる時は、近くの警備の方にお嬢様をお預けしてからにします」
警備の長が、カイルの持ち場を地図に書き入れた。一年の列の壁際と、小さな丸を一つ。
*
帰りぎわ、正門の脇でリリアが俺を呼び止めた。娘とカイルは少し先の並木道で待っていた。
「公爵様。今日、わたしに聞いてくれて、ありがとうございました」
「聞いたのは娘だ」
「エレノア様と、公爵様と、警備の方。三人ともです。この春、わたしの道を決める人は、たくさんいました。わたしに聞いてくれた人は、エレノア様だけでした」
リリアは並木道のほうを見た。
「エレノア様の二人うしろで歩きます。わたしが決めた道です」
そう言って、膝を折って、走っていった。走らないでください、と警備の詰所から声がした。
馬車の中で手帳を開き、地図の写しを挟んだ。
画面と違うところは多かった。花は殿下が自分で断り、光の乙女の道は本人が選んだ。
走り役は二名しかいない。踊り場の扉には鍵をかける。
鍵は、二本ある。
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