手紙では言えること
(エレノア)
殿下への手紙の一行目を、三回書き直した。
一回目は噂のことになった。手元に置く、という言い回しのこと。二回目はリリアの予定の紙のことになった。前の列、殿下に花。三回目はお父様が事務棟へ行ったことになった。
三枚とも、お父様にお知らせするほうの欄のことだった。
便箋を一枚出してペン先を拭いた。
――殿下。お願いが一つあります。
そこまで書いて窓の外を見た。夕方の鐘が鳴り終わったところだった。
――次の休みの日、図書館の裏の菩提樹の下で、昼の鐘から次の鐘まで、同じ本を読みたいのです。並んで、別々に。話さなくてもかまいません。殿下が頁をめくるのが、わたくしより速いか遅いかを知りたいだけです。
書いてから読み返した。頬が熱くなった。廊下で会えば、殿下は公の顔をなさる。わたくしも公の顔をする。公の顔の二人は菩提樹の下で並んで本を読んだりしない。
だから手紙に書いた。
――追伸。竪琴の星を、北では糸巻きと呼ぶそうです。下の小さい星は、糸の端。茶会で教わりました。殿下はご存じでしたか。わたくしは知りませんでした。
封をしてお母様の星の印を押した。蝋が固まるのを三つ数えた。
寮監の先生の部屋へ持っていくと、先生は帳面に日付と宛名を書いて受け取りの印を押した。殿下へのお手紙はいつも先生の帳面を通る。返事も先生の帳面を通って届く。
*
返事が届くまでのあいだ、わたくしは扉を叩く音を数えていた。
一日目は三回叩かれた。ヘルミーネ様と、リリアと、ヘルミーネ様だった。二日目は一回で、寮監の先生だった。先生はお父様からの手紙を持っていた。お父様の手紙だったのでうれしかった。うれしかったけれど、そのあとで扉を見た。
「エレノア様、お手紙待ってますね」
朝の洗面所でリリアが歯ブラシをくわえたまま言った。
「待っていません」
「待ってる顔です。お店で、焼き上がりを待ってるお客さんの顔。窯のほうばっかり見てる」
「わたくしは、窯のほうは見ていません」
「扉のほうを見てます」
三日目の夜、寮監の先生が扉を叩いた。叩き方で分かった。
封に銀の小さな印。名の頭の一字。
――エレノア・ヴァレンシュタイン嬢
――菩提樹の下、承知しました。本は何を。
本文はそれだけだった。一行だった。
追伸のほうが長かった。
――追伸。糸巻きは知りませんでした。竪琴を弾く者が、糸を巻きすぎて弦を切った星だ、と今考えました。考えたので知らなかったことは帳消しにしてください。
――追伸の二。頁はたぶん私のほうが遅い。一行ずつ量りながら読む癖があります。待たせるかもしれません。
読み返した。もう一度読み返した。
一つ目の追伸は冗談だった。殿下の冗談はいつも下手で、わたくしにしか言わない。下手な冗談なのに、窓を開けても頬の熱が引かなかった。
本は何を、と聞かれていた。答えるのに一晩かかった。
次の夜の手紙は本の名前だけにした。図書館の表の書架にある、北の国の旅の記。わたくしは半分まで読んでいる。殿下は読んでいない。わたくしが半分先にいれば、頁をめくる速さの違いがちょうど見える。
――追伸。弦を切った星、という話は、帳消しにします。糸の端の小さい星が、切れた弦の端に見えてきたので。
次の夜、一行だけの返事が来た。
――借りました。三頁目でもう遅れています。
その次の夜も一行だった。
――十二頁目。北の国の人は朝にまず窓の霜の形を見るそうです。知っていましたか。
知っていた。知っていると書いた。知っていたけれど、殿下の字で読むと知らなかったことのように思えた。
一行の手紙を待つのは、長い手紙を待つより楽しかった。
帳面の予定の欄の、次の休みのところに書いた。菩提樹。昼の鐘から次の鐘。北の国の旅の記。
*
休みの前の日の夕方、寮監の先生が扉を叩いた。叩き方が、いつもの夜の叩き方ではなかった。
封に銀の小さな印。いつもより、字が速かった。
――エレノア・ヴァレンシュタイン嬢
――明日、行けなくなりました。昼から王太子府で奉献の礼拝の打ち合わせが入りました。侍従と、教会の典礼係と。
――私が頼んだ打ち合わせです。奉献の日、光の乙女から花を受けるという予定が、私の知らないところで入っていました。アーヴェル嬢が断ったことも母から聞きました。私は花を受けません。それを典礼係の前で、私の口から言うことにしました。手紙で済ませると、また誰かが、王家のご意向、と書くので。
――ごめんなさい。
ごめんなさい、が最後の行だった。殿下の手紙でその言葉を読んだのは初めてだった。
追伸はなかった。
わたくしは便箋を膝に置いたまま、しばらく座っていた。
殿下は正しいことをなさる。リリアが断ったことを、リリアのいないところで、もう一度断ってくださる。手紙で済ませずに、ご自分の口で。わたくしが殿下でも同じことをしたと思う。
それでも菩提樹の下へ行けなくなった。
残念だった。とても残念だった。正しいことのせいで残念になったので、どこにも文句の言いようがなかった。
扉が叩かれた。リリアだった。リリアはわたくしの顔を見て、扉の枠に手をかけたまま入ってこなかった。
「……お客さんが、焼き上がりの前に帰っちゃった時の顔です」
「はい」
「入っていいですか」
「はい」
リリアは入ってきてわたくしの隣に座った。便箋を見ようとはしなかった。
「殿下が、明日、王太子府へ行かれます。花のことで。殿下が、受けないと、ご自分で典礼係にお伝えになるそうです」
リリアの手が膝の上で止まった。
「わたしが断ったから、ですか」
「リリアが断ったことを、殿下が知ったから、です。殿下が決めたことです」
「……そっか」
リリアは少しのあいだ黙っていた。
「よかった、って言っていいのか、分かんないです。わたしはうれしい。でも、エレノア様の菩提樹がなくなった」
「なくなっていません。明日でなくなっただけです」
言いながら、自分がそれを信じたいのだと分かった。
「エレノア様、残念って言っていいんですよ」
「……残念です」
「はい」
「とても、残念です」
「はい。わたしも残念です。わたし、明日の昼、図書館の窓から菩提樹を見て笑うつもりでした」
わたくしは笑った。笑ったら、少しだけ目の奥が熱くなった。
*
次の日の昼の鐘のあと、わたくしは一人で菩提樹の下へ行った。
北の国の旅の記を持っていった。半分のところにしおりが挟んである。カイル様は図書館の裏口の石段に腰を下ろして、三歩よりは遠くにいた。
菩提樹の葉の影が、頁の上で揺れた。わたくしは読まなかった。しおりの頁を開いたまま、葉の影を見ていた。
隣が空いていた。
次の鐘が鳴るまで座っていた。座っていても誰も来ないことは知っていた。知っていたけれど、昼の鐘から次の鐘まで、と書いたのはわたくしだった。
その夜、手紙を書いた。一行目はすぐに決まった。
――殿下。残念でした。とても。
それから少し考えて、書き足した。
――花のことを、ご自分の口で言いに行ってくださって、ありがとうございました。リリアさんが、よかったと言っていいのか分からない、と言っていました。わたくしはよかったと思います。
――次は、いつにしましょう。殿下が公務を入れない日を、教えてください。
返事は次の夜に来た。
――エレノア・ヴァレンシュタイン嬢
――私も残念でした。打ち合わせの間、ずっと菩提樹のことを考えていました。花は外れました。典礼係は、殿下のお気持ちは承りました、と言いました。
――次は、あなたが決めてください。私が決めると、また公務の隙間に押し込んでしまう気がします。候補を二つ出します。
――一、奉献の礼拝の三日後の休み。菩提樹。同じ本、同じ時刻。
――二、奉献の礼拝の日の、礼拝が終わったあと。礼拝堂の裏の段で、四半刻だけ。本は持たずに。
追伸があった。
――追伸。休む場所と刻は、近衛と学院の警備の方に合わせてもらいます。話すことは、私たちのことです。
両方を選んだ。
――一も二も、両方にします。奉献の日に四半刻。三日後に菩提樹。どちらかがまた正しいことのせいでなくなっても、もう一つ残るように。
――追伸。礼拝堂の裏の段はわたくしもまだ行ったことがありません。行ったことのない場所で会う時は、先に地図を見ておきます。
封をして星の印を押した。蝋が固まるのを三つ数えた。
それからもう一枚便箋を出した。帳面のいちばん右の欄、お父様へのお手紙。
――お父様。奉献の礼拝の日の学院の警備のことで、一度ご相談したいのです。地図は、わたくしから警備の方にお借りできるか聞いてみます。
――礼拝が終わったあと、わたくしには四半刻の予定があります。場所と刻は、学院の警備の方がご存じになります。何を話すかは、二つ目の欄です。
――追伸。茶会で、わたくしの丸めたパンが一番傾いていました。これは、どの欄でもありません。
書いてから、お父様の顔を思い浮かべた。たぶん、書斎を三往復くらいなさる。
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