わたしの席
(エレノア)
参観の日の次の晩、寮監の先生がお父様の手紙を持ってきた。封は当主の指輪の印で、字がいつもより曲がっていた。
――帰りに回廊で、一年の茶会の招待状が回っているのを見た。アーヴェル嬢の分は回らなかった。お前の意向だと言った者がいた。
わたくしはその場にいなかった。図書館へ本を返しに行っていた。講義室から戻ってきたリリアは、いつもと同じ顔で、何も言わずにわたくしと並んで図書館の階段を下りた。わたくしは返した本の話をしていた。
冷たくなった手が、次の行で熱くなった。
――お前の意向ではないと思っている。違っていたら、そう書いてくれ。
すぐに返事を書いた。わたくしの意向ではありません。どうするかはリリアさんと決めます。学院へのご相談はまだいたしません。
それから帳面の予定の欄に、明日することを三つ書いた。言った方に、わたくしの意向ではないと申し上げる。リリアの招待状をいただく。茶会でリリアをわたくしの右の席に。
三つ並ぶとどれも正しいことに見えた。
算術の授業で、先に言ってほしかった、とリリアに言われたのを思い出した。三つの上に小さく書き足した。リリアに聞く。
*
北の洗面所は朝いちばんでも空いている。
「父が、参観の帰りに回廊を通ったそうです。招待状のことを見ていた、と」
リリアの口の中で歯ブラシが止まった。
「公爵様、いたんですか。あそこに」
「回廊を通って、見た、とだけ書いてありました」
「……出てこなかったんですね。よかった。出てきたら、わたし、たぶん泣いてました」
リリアは口をすすいで、鏡の中のわたくしを見た。
「帳面を抱え直したのは、手が震えたからです。背中は、まっすぐにしたんです。いやなお客さんが帰る時は背中を見られてるから、まっすぐにしとけって、お父さんが」
わたくしは帳面の三つを見せた。リリアは上から順に指でなぞって、一つ目で止まった。
「言ったのは、三の組の方です。扇を持ってた方。……一つ目は、エレノア様の名前のことだから、エレノア様が決めてください。二つ目は、いりません」
はっきりした声だった。
「エレノア様に言われて回ってきた封筒で行っても、あそこにわたしの席はないです。エレノア様がずっと怖い顔で隣にいてくれる茶会、行きたくないです」
「怖い顔はいたしません」
「今、してます」
鏡を見た。していた。
「でも、エレノア様が茶会をするなら、行きたいです」
わたくしは三つ目の行を、わたくしの茶会、と書き直した。
「では、一年の茶会と同じ日の、同じ刻にいたしましょう。学年の皆さまに招待状を出して、どちらの席が楽しいか、選んでいただけばいいのです」
「それは、いやです」
リリアは首を振った。
「ぶつけたら喧嘩です。わたしの名前で、エレノア様とあの人たちの喧嘩になるのはいや。エレノア様の名前が回廊で使われたみたいに。それに、全員もいやです。うちの店の奥の卓、四人がけなんです。四人か五人が一番しゃべれる」
言い返す言葉が出てこなかった。同じ日の、と書いた行に線を引いた。
「呼びたい人がいます。封筒が来なかったの、わたしだけじゃないんです。二の組の、騎士のお家のそばかすの方。それと、食堂でお祈りの言葉が少し違うって笑われてた、北のほうの言葉の方。二人とも、輪の外にいました」
わたくしは首席で、学年の皆さまの顔と名前は覚えている。誰が輪の外にいるかは覚えていなかった。
「それと、扇の方も呼びたいです」
手ぬぐいを落としそうになった。
「なぜですか」
「わたしの分を回さなかった人に、わたしが回すんです。来なくていいんです。でも、回したって自分で覚えておきたい」
「わたくしは、あの方をお呼びしたくありません」
思っていたより小さな声になった。
「わたくしの名前を、わたくしのいないところで使った方です。その方とお茶を飲んで笑っていられるか、分かりません」
「じゃあ、わたしの名前で出したら、だめですか。エレノア様の茶会に、わたしがお客を一人呼ぶ」
わたくしは少し考えた。茶会の主人はわたくしで、呼びたくないのもわたくしだった。
「呼ぶのは、かまいません。でも、来ても、わたくしは隣には座りません。それから、呼ぶことと、許すことは別にしてください」
「はい。わたしも、許してないです。来たら、わたしが向かいに座ります」
リリアはそこで少しだけ笑った。
「ほんとは、来なかったらいいなって、ちょっと思ってます」
「今の顔は、困った顔です。怖いほうじゃなくて」
言ったのは、わたくしだった。リリアが、それわたしの言うことです、と言った。
*
一つ目はその日の昼休みに済ませた。
扇の方は三の組の方で、回廊の窓辺で四人の方と話していた。わたくしが近づくと、扇がいっせいに開いた。カイル様は三歩うしろで止まった。
「参観の日に、一年の茶会の招待状のことで、わたくしの意向という言葉が出たと聞きました。わたくしは、どなたの茶会のお招きについても、意向を申し上げたことはありません。それだけ、お伝えしに参りました」
「……わたくしが言い出したのではありませんわ。皆さま、そうおっしゃっていたの。ヴァレンシュタイン様は光の乙女と同じ卓はお嫌だろうって」
「どなたが、最初に」
「存じません。聞いたのです。どなたからだったかしら」
扇の方は隣の方を見た。隣の方はもう一人を見た。もう一人は窓の外を見た。
確かめる手のないことをここで問い詰めても、問い詰めたという話が一つ増えるだけだった。わたくしは膝を折って下がった。
その夕方、リリアは自分の帳面を一枚切って招待状を書き、三の組の机に自分で置いてきた。わたくしの便箋は使わなかった。わたしのお客なので、わたしの紙です、と言った。
返事は二日後に来た。上質の紙にていねいな字で、その日は先約がございます、と一行。
「返事が来ただけ、封筒より上等です」
リリアは返事を帳面に挟んだ。挟んでから小さく息を吐いた。
*
茶会は一年の茶会の次の休みにした。
寮の南の談話室は寮監の先生の許しで借りられる。決まりは一つだけだった。お茶を出す時は扉を開けておくこと。閉じた茶会は寮では開けません、と先生は言った。
招待状は四通書いた。ヘルミーネ様と、騎士爵のお家の方と、北の男爵家の方と、リリアに。お客を呼んだお客にも、お客の招待状は要る。北の男爵家の方は廊下でわたくしを呼び止めて、行ってもいいのですか、と言葉の終わりを少し上げて聞いた。来ていただきたいのです、とわたくしは答えた。帳面の三つの行より、こちらのほうが言いたいことだった。
前の日、リリアは寮の厨房の窯を借りた。わたくしは生地に粉を三回足して、三回止められた。わたくしの丸めた生地は一回り大きくて、少し傾いていた。リリアはそれにも同じ十字の切れ目を入れた。
*
当日、早めに行って席札を並べた。窓を背にした上座にわたくし、その右にリリア。礼法の教本の図のとおりだった。
リリアは籠を抱えて入ってきて、席札を一つずつ見た。わたくしの札の右で止まった。
「わたしの席、わたしが決めていいですか」
はい、と言うまでに少しかかった。
リリアは自分の札を持って卓のまわりを歩いた。窓の前で陽の当たり具合を手で確かめて、それから扉にいちばん近い席の前で止まった。湯沸かしの台がすぐ横にあった。
「ここがいいです。お店でいうと、勘定台です。皆の顔がいちばんよく見えて、お客さんが入ってくるのも見える。パンも、わたしが切りたいです」
「そこは下座です。それに、お茶は主人が注ぐものです」
「じゃあ、エレノア様も、ここ」
リリアは湯沸かしの台の反対側の椅子を引いた。
わたくしは上座の札を取ってそこへ置いた。窓の前の席が空いた。
「窓の席は、一番寒がりの人です。日が当たるので」
ヘルミーネ様は空いた上座を見て、わたしじゃないわ、冬でも窓を開けて寝るもの、と言った。北の男爵家の方が小さく手を挙げた。北の家は壁が厚くて火を絶やさないので、王都の廊下は寒いのだそうだ。ヘルミーネ様が笑って、その方も釣られて笑い、窓の席に座った。陽が肩に当たった。
わたくしがお茶を注ぎ、リリアがパンを切った。端と真ん中、どっちが好きですか、とリリアが聞くと、騎士爵のお家の方は、端、と答えて、そばかすを寄せて笑った。傾いたパンはわたくしが食べた。一番大きかった。
星の話を始めたのはヘルミーネ様だった。夏になると三階の窓枠の真ん中に竪琴の星が来る、と言った。
「北では、糸巻きって呼びます。明るいのが一つと、その下に小さいのが並んでるのですよね」
「では、下の小さい星は」
「糸の端、です」
扉のほうで笑い声がした。鈴のような声だった。
開けておいた扉のところにコルネリア様が立っていた。本を二冊抱えて、片手で口を押さえていた。押さえた手の上で目が笑っていた。
「ごめんなさい。立ち聞きするつもりはなかったの。……糸の端。あの小さい星、わたくしの家の窓からは木の枝にかかって見えるのよ。枝に糸の端が引っかかっていたんだわ。今まで、ずっと」
そう言って、また笑った。目の端に涙が少し溜まっていた。
教室でも、教科書を配る時にも、コルネリア様はよく笑っていた。こういう笑い方は九つの春の控えの間以来だった。本を抱えた指の先を見た。白くなかった。
隣でリリアが動かなくなっていた。コルネリア様との間には湯沸かしの台が一つあるだけだった。リリアの指が、上着の左の隠しのふたの上に置いてあった。
「コルネリア、入る? パンがあるわよ」
学院の紙のことを、わたくしはヘルミーネ様に話していなかった。
わたくしは口を開きかけて閉じた。ここで何か言えば、学院が置いておいた件を、わたくしが皆さまの前に出すことになる。
コルネリア様は窓際の席を見て、扉の脇のわたくしとリリアを見た。リリアの上着のふたで目が一度止まった。
「いいえ。通りかかっただけですもの。糸の端、明け方に見てみるわ」
北の男爵家の方に膝を折って、廊下を歩いていった。足音は一人分だった。前は少しうしろにもう一人分の足音があった。
リリアの指がふたから離れた。リリアは何も言わずにヘルミーネ様の皿に二つ目のパンを載せた。
*
皆さまが帰ったあと、奥の流しでカップを洗った。リリアが洗って、わたくしが拭いた。
「あの方、ほんとに笑ってましたね。本の包み方が上手って言った時の顔でした」
リリアは流しの水を見たままだった。
「わたし、まだ怒ってます。誰に怒ればいいか分からないから、全部の人に少しずつ。瓶を買った人にも、頼んだ誰かにも、扇の方にも。さっきのあの方にも、少し。それで、あの方が笑ってるのを見て、ちょっとだけよかったって思ったんです。それが、すごくいやでした」
「わたくしは、指を見ていました」
教科書を配りにいらした時、コルネリア様の指の先は白かった。今日は白くなかった。そう言うと、リリアは手を止めた。
「それ、何か分かることですか」
「分かりません」
五つの時の、自分の握った手を思い出した。それは言わなかった。
リリアは最後のカップをわたくしに渡した。
「今日の席、わたしの席でした。上座じゃなかったし、エレノア様の右でもなかったけど、エレノア様の隣でした。勘定台の、隣」
「勘定台は、楽しかったです」
「エレノア様、お茶注ぐの、一滴もこぼしてなかった」
「三年習いました」
「わたし、パンは十年です」
「知っています」
*
次の朝、食堂で隣の卓の声が聞こえた。扇の陰ではない、普通の声だった。
――ヴァレンシュタイン様、光の乙女を手元に置いていらっしゃるのね。一年のお茶会に、わざとぶつけたのですって。殿下のお目に触れないように、ご自分の談話室に囲って。
茶会は一年の茶会の次の休みだった。ぶつけるのをやめたのはリリアだった。
手元に置く、という言い回しが耳に残った。
「わたし、手元に置かれてたんですか。勘定台にいたのに」
リリアはパンを噛みながら少しだけ笑った。目は笑っていなかった。
夕方、ヘルミーネ様がいつもより強く扉を叩いた。
「二年の談話室で、同じ話を聞いたわ。手元に置いて、殿下から遠ざけてるって。わたしの隣の組の子が、家の手紙に書いてあったって言うの。きのうの茶会のことが、今朝届いた家の手紙によ。家の誰が、いつ聞いたのよ」
ヘルミーネ様は扉の枠に寄りかかって腕を組んだ。
「それと、光の乙女がヴァレンシュタインのお嬢様に頭を下げてお茶に入れてもらった、っていうのも聞いた。リリアが取り入ったっていう言い方。同じ話の裏表よ」
夜、三つの欄の紙を出した。茶会は二つ目の欄だった。噂は、どこにも入らなかった。
三つ目の欄、まだ決めていないことに書いた。
――茶会のあとの噂。「手元に置く」(食堂で聞いた。二年の談話室でも、とヘルミーネ様。そちらはわたくしは聞いていない)。翌朝の家の手紙にもう書いてあった。
――リリアを悪く言う言い回しもある。同じ話の裏表。
同じ言い回しが同じ刻に離れた場所で聞こえたら少しおかしい、とユリウス様は言った。食堂と、二年の談話室と、二年の方の家の手紙。
予定の欄に、明日、ユリウス様に聞く、と書いた。お父様へのお手紙の欄はまだ空けておいた。
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