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【1万PV突破】悪役令嬢の父親に憑依した俺、娘を見捨てる未来だけは絶対に認めない  作者: 白川 透


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保護者参観

 付け髭はヘルマンの部屋の行李から出てきた。


「さて、昔、使用人の年越しの芝居で使ったものでございます。さて、王様の役で」


 白くて長い顎髭だった。耳に掛ける紐が片方だけ伸びていた。セバスが書斎の引き出しから、度の入っていない丸い縁の古い眼鏡を黙って出してきた。どうしてそんなものがあるのかは聞かなかった。セバスも言わなかった。


 俺は髭と眼鏡を机の上に並べてしばらく見ていた。

 娘の添え書きには、授業を見てくださって構いません、とある。お昼と、そのあとは二つ目の欄です、ともある。別人の顔で入れば、昼の中庭を通りかかっても別人のせいにできる。


「ヘルマン。これは、しまってくれ」

「さて、お使いにならない」

「使わない。俺の顔のまま行く」


 ヘルマンは髭を丁寧に巻いて行李へ戻しに行った。セバスは眼鏡を引き出しに戻した。


「旦那様。目立たない上着を、お選びになりますか」

「頼む」

「旦那様の背丈と、そのお顔では、どの上着でも目立つかと存じますが」

「分かっている。少しでいい」


 ミーナが選んだのは袖口の擦れた焦げ茶の上着だった。十年前、領地の視察で泥の中を歩いた時のものだった。


*


 門番は札を受け取って俺の顔を見た。式の日も、引き継ぎの日も俺の顔を見ていた男だ。


「ヴァレンシュタイン公爵閣下。ようこそおいでくださいました」


 よく通る声だった。門の前に並んでいたほかの家の親たちが、いっせいにこちらを向いた。焦げ茶の上着は何の役にも立たなかった。

 並木道では端へ寄って歩いた。ほかの親たちはもっと端へ寄った。俺のまわりにだけ、人ひとり分ずつ道が空いた。


 講義棟の入口に黒い髪の若者が一人立っていた。柱に肩を預けて、出入りする親たちを眺めていた。アレクシスは俺を見ると、柱から肩を離して軽く一礼した。評定の広間で当主たちにしたのと同じ角度だった。


 廊下には上級生が案内役として何人か立っていた。金の髪が案内の紙を手に、俺の前で姿勢を正した。


「閣下。……ようこそ。一年の講義室は、この先の右手です」


 王太子は真顔で言った。言ってから、片方の口の端だけが先に上がった。手紙の字と同じくらい右上がりの笑い方だった。


「焦げ茶のお召し物は、初めて拝見します」

「目立たないものを、と言ったのですが」

「……はい」


 王太子はそれ以上何も言わなかった。言わないでいる顔だった。


*


 一年の講義室は、後ろの壁際に親たちの椅子が並べてあった。俺は端に近い椅子に腰を下ろした。


 前の席の生徒たちの背中が見える。前から二列目の窓寄りに、淡い銀金の髪が一つ結びで座っていた。緑のリボン。結び目は少しだけ右に傾いていた。隣に栗色のふわふわした髪があった。寮の貸し出しではない、自分の紺の上着を着ていた。


 二の授業は政治史だった。白髪の痩せた教師が教壇に立って、後ろの壁際を一度見た。俺のところで目が止まった。教師は咳払いをして教本を開き、開いた頁を一度閉じてから、もう一度開いた。


 娘の頭がほんの少しだけ動いた。

 横を向いたのではない。窓の硝子のほうへ顔を寄せただけだった。窓の硝子には講義室の後ろの壁が映っている。娘の頭は元の位置に戻って、それきり一度も振り返らなかった。背筋がさっきより少しだけまっすぐになっていた。


 授業は一刻続いた。古法の相続の項だった。

 教師の問いに、娘は一度手を挙げて答えた。養子の扱いがいつ改められたか。答えは短く正確だった。教師は、よろしい、と言った。後ろの壁際で、どこかの家の母親が小さく感心の声を漏らした。俺は膝の上で拳を握った。誇らしさで声が出そうになったのを奥歯で噛んだ。


 次の問いには、隣の栗色の髪が手を挙げた。二度目の声で教室の後ろまで届いた。娘は前を向いたまま、少しだけ肩を緩めた。

 前から三列目の窓際で、細面の生徒が本の陰で何か書いていた。教師の話とは別のことを書いているように見えた。後ろの列の鳶色の寝癖の生徒は、肘の擦り切れた袖で頬杖をついて目を閉じていた。眠っているのか考えているのかは、後ろからは分からなかった。


 娘の毎日の中に、俺の知らない顔がいくつもあった。知らないままでいい顔だった。


*


 授業が終わって昼の鐘が鳴った。廊下へ出たとたんに、後ろから声がした。


「公爵様!」


 廊下じゅうの親と生徒が振り向いた。

 リリアが帳面を胸に抱えて小走りに来た。来てから、自分の声の大きさに気づいたらしい。首をすくめた。


「ごめんなさい。大きかったです」

「構わない」

「来てくださったんですね。エレノア様、朝から三回、窓の外を見てました」


 娘は講義室の中で、先生に呼ばれて教壇のところにいた。

 近くで見ると、リリアの上着の隠しにはふたが二つ付いていた。右と左が同じ高さに並んでいる。左のほうが、縫い目が少しだけ大きかった。俺がそれを見ているのに気づいて、リリアは左のふたを指で押さえた。


「これ、エレノア様が縫ったんです。四回」

「手紙に書いてあった。左のふたは、わたくしが縫いました、と」

「エレノア様、そんなことまで書くんですか」


 リリアは少し笑って、それから娘のほうを一度見た。


「公爵様。一つだけ、言ってもいいですか」

「言いなさい」

「瓶が出てきた時、エレノア様、ご自分も怖かったんです。顔が真っ白でした。それなのに次の日にはミーナさんと事務の方のところへ行って、その晩は、わたしの上着を一緒に直してくれました。針、ほんとに下手だったけど」


 リリアは帳面を抱え直した。


「わたしは、まだ怒ってます。汚した人に。誰だか分からないのが、いちばん嫌です。でも、上着は着られます。エレノア様が四回縫ったので」


 返事がすぐには出なかった。

 娘が怖かったことを、俺は知らなかった。娘の手紙には、ふたのことは書いてあって、怖かったことは書いていなかった。


「……ありがとう。聞けてよかった」


 やっと、それだけ言った。リリアは頷いて、講義室の入口へ戻っていった。


 娘が入口に来た。両手を前で重ねて足を揃えて、背筋を伸ばしていた。


「お父様。来てくださって、ありがとうございました」

「手を挙げたな」

「はい。挙げるかもしれません、と書きました」

「書いてあった」


 娘は少しだけ口元を緩めた。それから俺の焦げ茶の上着の袖口を見た。


「この上着は、目立たないためですか」

「そのつもりだった」

「門のところから、皆さまがお父様のほうを見ていたと、カイル様が」

「そうか」


 娘はそれ以上は言わなかった。言わないでいる顔が、王太子と少し似ていた。


「お昼は」

「帰る」


 娘は頷いた。膝を折って、入口で待っていたリリアと二人で反対側の階段のほうへ歩いていった。


 門へ向かう廊下の途中に中庭を見下ろす窓があった。

 足が止まった。窓の下で生徒たちが昼の包みを広げ始めていた。噴水の脇にも楡の木の陰にも人がいる。どこかに娘がいる。一歩窓へ寄れば見えるはずだった。

 窓へ寄りかけた足を戻した。


「見ていかないのですか」


 振り返ると、アレクシスが廊下の柱の脇に立っていた。いつからそこにいたのかは分からなかった。


「昼は、見ない約束です」

「約束」


 アレクシスは窓の外を一度だけ見た。中庭全体を見渡しているようだった。


「楽しい父親ですね」


 薄い笑みだった。


「うらやましい」


 目は笑っていなかった。それだけ言うと、アレクシスは一礼して歩いていった。左手は上着の袖の中にしまわれていた。

 三つで母を亡くした、とセバスは言った。うらやましい、が何を数えた言葉なのか、俺にはまだ分からない。


 門へ出る手前の回廊で、一年の令嬢たちが固まっていた。


 白い封筒を手から手へ回していた。学年の令嬢たちの茶会の招待状らしかった。受け取った者が一人ずつ、嬉しそうに封を胸に当てていた。

 輪の外に栗色の髪が立っていた。講義室へ帳面を取りに戻ってきたらしい。封筒はリリアのところまで回ってこなかった。


「あの、わたしの分は」


 輪の中の一人が扇を開いた。


「ごめんなさいね、アーヴェルさん。ヴァレンシュタイン様のご意向ですって」


 扇の陰で、別の誰かが小さく笑った。


 俺は回廊の柱の陰で足を止めていた。奥歯が鳴った。

 娘はその場にいなかった。娘の名だけが、そこにいた。


 出ていけば令嬢たちは黙るだろう。黙らせて済むのは今日だけで、リリアの分の封筒は回ってこない。

 リリアは封筒の回っていく輪を少しだけ見て、帳面を抱え直して講義室のほうへ歩いていった。背中はまっすぐだった。


*


 帰りの馬車の中で娘への手紙を書いた。揺れて字が曲がった。意向、の二字だけは、揺れのせいではなく紙に食い込んだ。


 ――今日はよく見えた。手を挙げたのも、隣の子の左のふたも見た。

 ――帰りに回廊で、一年の茶会の招待状が回っているのを見た。アーヴェル嬢の分は回らなかった。お前の意向だと言った者がいた。お前の意向ではないと思っている。違っていたら、そう書いてくれ。どうするかはお前とアーヴェル嬢が決めることだが、学院に相談するなら手伝える。

 ――昼は見ていない。窓の前で一度止まった。それは言っておく。


 封をして上着の内側に入れた。焦げ茶の上着の内側は、娘への手紙を入れるには少し狭かった。


*


 屋敷に戻ると、セバスが玄関で上着を受け取った。


「お帰りなさいませ。いかがでございましたか」

「手を挙げた。古法の相続の、養子の扱いだ」

「さようでございますか」

「答えは短くて、正確だった。先生が、よろしい、と言った」

「さようでございますか」


 廊下の先でミーナが焼き菓子の型を抱えて立ち止まっていた。


「ミーナ。娘が手を挙げた」

「旦那様。それは玄関で、セバス殿に二度お話しになりました」


 三度目は、書斎で一人で言った。

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