制服と染料
(エレノア)
休みが明けて二日目の朝、寮監の先生に洗濯室へ呼ばれた。
前の日は一年の魔術の実技の試験で、一年は皆、朝から実技着で試験場にいた。制服はその朝、洗濯に出してあった。週に一度の搬入の日だった。
洗濯室は寮の裏手の石の建物で、大きな桶が六つ並んでいる。湯気と石鹸の匂いの中に、リリアが先に立っていた。リリアは寮の貸し出しの上着を着ていた。袖が長すぎて手の甲まで隠れていた。
洗濯係の長が、長い作業台の上に紺の布を広げていた。リリアの制服だった。
上着の前の、隠しの口のすぐ下に、指を二本並べたほどの青い染みがあった。右の袖口と、スカートの裾には、布の端に沿って細く青が走っていた。紺の上に落ちているのに、紺より明るい青だとはっきり分かった。
「今朝、仕分けをしていて見つけました」
洗濯係の長は太い腕を組んでいた。
「それから、これが」
作業台の端にわたくしの衣装箱が置いてあった。週に一度、寮の下働きの人が洗濯室へ運んでくれる箱だ。蓋が開いていて、畳んだ肌着の上に指の長さほどの硝子の瓶が一本載っていた。
「箱の蓋を開けたら、いちばん上にございました。あたしは触っておりません。先生をお呼びしただけで」
寮監の先生がわたくしを見た。リリアもわたくしを見た。
わたくしはすぐには瓶を見られなかった。肌着の白と、その上の硝子だけが目に入って、喉の奥が冷たくなった。わたくしの物の中に、わたくしの知らない物がある。
息を一つ吸ってから、もう一度見た。底に濃い青が少しだけ残っている。栓は蝋で封をしてあったらしく、割れた蝋が栓の縁に残っていた。蝋には小さな印が押してあった。半分欠けていて、何の印かは分からなかった。
「その瓶は、わたくしの物ではありません。わたくしは箱に瓶を入れていません。栓の蝋に印があります。欠けていますが、学院で残しておいてください」
寮監の先生が頷いて、瓶を箱ごと手巾で覆った。
「箱は、いつからここにありましたか」
「昨日の朝、一の鐘のすぐあとに。次の朝から洗うので、搬入の日はひと晩置きます」
リリアが袖口の染みに顔を近づけた。触らずに色を見ていた。
「この色、うちの通りの染物屋さんで見た南方の青に似てます。洗っても落ちない青。染物屋さんの裏の溝が、たまにこの色になるんです。おじさんが、高いのをこぼしたって泣いてました」
「石鹸で落ちない青は、あたしの知る限り南方のだけですよ」
洗濯係の長が言った。
「今朝、端を一度もんでみましたが、色は動きませんでした」
「王都でこれを置いてる店は二つしかないって、おじさんは言ってました。今もそうかは、分かりません」
言いながら、リリアは袖口の縫い目を指でなぞった。
「袖、お母さんが一寸長く仕立ててくれたのに」
*
一つ目の欄のことなので、その日のうちに寮監の先生とカイル様に書いて渡した。昼には警備の詰所の人が来て、染みの場所と形を紙に写し、瓶を持っていった。それから事務棟から使いが来て、保護者か家の代理の方に明日お越しいただきたい、と言った。
父への手紙は短くした。
――お父様。一つだけお願いがあります。我が家の仕入れ帳の、染料と布の分を見せてください。それから、入寮の前にミーナが付けた荷の目録を。学院は家の代理の方でもよいそうです。ミーナに持たせてください。お父様は、来なくても大丈夫です。
来ないでください、とは書かなかった。前の手紙でそれを書いた時、お父様は書斎を何往復もしたとカイル様から聞いた。報告に書いてあったのではない。カイル様が叔父様から聞いた話を、わたくしに言わなかったつもりで言ったのだ。
手紙を出してから、リリアの部屋へ行った。リリアは寝台に座って、詰所の人が返していった上着を膝に置いていた。
「新しい制服を、仕立てましょう。うちに出入りの仕立て屋がいます。寸法さえ分かれば、十日で」
言ってから、リリアの顔を見た。見て、言ったことを取り消したくなった。
リリアは怒ってはいなかった。困った顔をしていた。お父様が娘に何かを買ってやろうとして断られた時の顔に、少し似ていた。
「エレノア様。新しいのを作ってもらったら、この上着は捨てるんですか」
「……着られなくなったのですから」
「着られます。直せば」
リリアは上着の袖を持ち上げた。
「お父さんが、冬のあいだ毎朝ひと窯多く焼いて買った上着です。袖はお母さんが一寸長くしてくれた。わたし、これを着たいんです。直せるなら、直して着たい」
わたくしは椅子の上で手を握った。
新しい制服は、わたくしならうれしい。リリアが欲しいのは、この上着だった。
「ごめんなさい。仕立て屋の話は、なかったことにします」
「はい。ありがとうございます、言ってくれて」
「でも、汚した人がいるなら、直す費えはその人が持つべきです」
「それは、学院が決めてくれたら、もらいます」
リリアはそこで少しだけ笑った。
「もらえるまで待ってたら、学年が終わっちゃいそうだけど」
「……直すには、何が要りますか」
リリアは顔を上げた。
「道具です。わたし、家から持ってきたのは普通の針と白い糸だけなんです。毛の布に通る細い針と、この紺に合う糸。糸切りと、印をつける白墨。それから、同じ布の端切れが少し。あと火のし」
「探します」
「端切れは、わたしが買います」
「わたくしが」
「わたしが買います。予備の袋から出して、来月のお手当で袋に戻します」
*
次の日の昼、ミーナが事務棟へ来た。
仕入れ帳の写しと荷の目録を胸に抱えて、門のところで背筋を伸ばして待っていた。わたくしを見ると、膝を折る前に一度だけわたくしの顔を上から下まで見た。小さい時から、ミーナはいつもそうする。
門番に見せた紙はお父様の一筆だった。この者に家の代理を委ねる。その下にお父様の署名と指輪の印があった。
「お嬢様。旦那様は、書斎で歩いておいでです」
「何往復ですか」
「数えるのをおやめになったそうでございます」
通された部屋には事務官が一人座っていた。痩せて背の高い、四十前後の人だった。事務官はお父様の一筆を読んでから、ミーナに椅子をすすめた。
「ヴァレンシュタイン嬢の衣装箱から出た瓶は、詰所で預かっております。アーヴェル嬢の制服の染みと同じ色でございます。箱は公爵家のお道具。中から出た以上は、まず御家にお話を伺うのが筋かと存じまして」
事務官は丁寧だった。丁寧なまま、言葉の選び方に迷いがなかった。
わたくしは口を開きかけた。開く前にミーナが一歩前に出た。
「お話を伺う前に、確かめていただきたいことがございます」
ミーナは荷の目録を事務官の机に置いた。
「お嬢様の衣装箱の中身は、入寮の前の日に私が詰めました。一つ残らずこの帳面に書いてございます。瓶は一本も入れておりません」
「侍女殿のお言葉は承ります。ただ、入寮からひと月近くたっておりますから」
「はい。ですから、この帳面だけでは足りません。もう一つ伺います。その箱は、いつ、どなたが洗濯室へ運びましたか」
事務官はわたくしを見た。わたくしは用意してきた紙を二枚、ミーナの目録の隣に置いた。昨日の夜、リリアの部屋で二人で書いた紙だ。
「一枚目は、洗濯物の道です。洗濯係の方と、寮の下働きの方と、寮監の先生に伺って書きました。箱は搬入の日の朝に下働きの方が運んで、その時は留め金がかかっていて軽かったそうです。洗濯室は夕方の鐘まで開いていて、令嬢方の侍女が届け物に出入りします。二枚目は、前の晩にわたくしが箱へ入れた物の書き付けです」
事務官は二枚を見た。それからわたくしの顔を見た。
「その日、わたくしは朝から夕方まで、一年の実技の試験場にいました。試験官の先生は朝と昼と夕方に点呼を取ります。試験のあいだに場を出る者は、試験官の帳面に出た刻と戻った刻を書きます。わたくしは一度も出ていません。帳面は学院のものです。学院で確かめてください」
事務官はしばらく手元の綴りを繰った。繰る手が少しずつ遅くなった。
「……ヴァレンシュタイン嬢の名は、三度の点呼のいずれにもございます。出入りの帳面には、お名前はございません」
部屋が静かになった。
わたくしはもう一枚、セバスの字の写しを置いた。
「家の仕入れ帳です。この十年、我が家は南方の青を一度も買っていません」
事務官が写しに目を落とした。
「それから、お店の帳面です。王都で南方の青を置いている店は二つだと、リリアさんが下町で聞いていました。搬入の日の前に誰が買ったのかを、学院から店に聞いていただけますか。瓶の栓の蝋の印も、店の印と比べてください。わたくしが聞きに行けば、公爵家が店を脅したことになります」
事務官は長いあいだ黙っていた。それから、警備の詰所の者に店を当たらせます、と言った。
帰りがけ、ミーナが廊下で小さく息を吐いた。
「お嬢様。あの方、私のことを手強いとお思いでございますね」
「わたくしも、そう思いました」
*
針と糸と糸切りと白墨は二日で揃った。
細い針と紺の糸は洗濯係の長が繕い物の籠から貸してくれた。寮の令嬢方のほころびを直すための籠で、針は毛の布に通る細さのものが三本あった。
「返してくださればいいんですよ。糸は、使った分だけ」
糸切りと白墨は購買の棚にあった。火のしは洗濯室のものを、翌朝の一の鐘までに返す約束で借りた。
端切れだけはなかなか見つからなかった。制服の布は学院の仕立て屋が月に一度だけ来て扱う。寮監の先生に次はいつ来るのかを聞くと、三日後だった。
三日後、仕立て屋の台の前でリリアは端切れを選んだ。手のひら二つ分の紺の毛の布だった。リリアは値札を見て、部屋の予備の袋から持ってきた銅貨を出した。それから帳面の端に何か書いた。
「予備の袋に、来月のお手当で戻す分です」
わたくしは自分の財布を握ったまま、何も出さなかった。出さないでいるのは、出すより難しかった。
*
その晩、リリアの部屋で直した。
詰所の人が染みを写した紙の控えを、寮監の先生が一枚くれていた。リリアはそれを机に置いて、染みの場所を一つずつ指で押さえ、それぞれのやり方を決めた。
「裾は、ほどいて、染みのところまで深く折り上げます。一寸短くなるけど、わたし、もう背は伸びないと思うので」
「袖は」
「お母さんが長くしてくれた一寸を、今使います。染みのところで切って、端を折って縫う。そしたらちょうど、ほかの人と同じ長さになります」
リリアは袖口を見て少しだけ黙った。それから切り取った青い布の端を、紙に包んだ。
「これは、詰所の人に渡します。いるかもしれないので」
それから前の染みを指さした。
「前のは、隠しの口のすぐ下だから、ふたを付けたら隠れます。端切れで、隠しのふた。片方だけだと変なので、両方に」
「ふたを、二つ」
「一つはエレノア様が縫ってください」
わたくしは針を持った。
最初の一針は表から刺すところを裏から刺した。二針目で糸を引きすぎて布が寄った。ふたの縁がさざ波のようにうねった。
リリアはそれを見て笑わなかった。
「引きすぎです。パン生地と同じで、糸も、ちょっと休ませてあげないと」
「休ませる」
「引いたら、指で布をなでて、糸が寝るのを待つんです。ほら」
リリアの手は速かった。速いのに、一針ずつが同じ幅で、裏からも表からも目立たなかった。裾をほどく手も白墨で線を引く手も迷わなかった。
わたくしは寄ったふたを一度ほどいた。二度目は縫い目の幅がばらばらで、またほどいた。三度目にやっと縫い終えて表に返すと、上下が逆さまだった。
「……逆さまです」
「逆さまですね」
リリアは今度は笑った。わたくしも笑った。笑いながら三度目をほどいて、四度目を縫った。
消灯の鐘の少し前に上着ができた。リリアが火のしを当てると、紺の布の上で二つのふたが同じ高さに並んだ。右のふたはリリアの、左のふたはわたくしのだ。よく見ると左のほうが少しだけ縫い目が大きい。
「左のふた、好きです」
リリアが言った。
「エレノア様が四回縫ったやつ」
「ほどいたのは三回です」
「縫ったのは四回です」
*
店の話は、ミーナが事務棟へ来てから五日目に、寮監の先生を通して届いた。警備の長の字だった。
瓶は二軒目の店の物で、栓の蝋の欠けた印が店の印と合った。買ったのは搬入の前の日の昼過ぎで、さる家の侍女と名乗る若い娘だった。店の手代に学院の門の脇に立ってもらうと、手代は一人の侍女を指した。二年のブラント嬢付きの侍女だった。
侍女は頼まれて瓶を買い、洗濯室の届け物の棚に置いたことは認めた。誰に頼まれたかは言わなかった。制服を汚したことと箱に瓶を入れたことは、していないと言った。
翌朝ブラント家から迎えが来て、侍女は暇を出され、その日のうちに王都を離れた。ブラント嬢は、侍女に何も頼んでいないと申している。
紙の終わりに一行あった。ヴァレンシュタイン嬢への疑いは、学院としては持たない。件は終わりとせず、置いておく。
ブラント嬢。コルネリア様だった。
紙を持つ手が冷たくなった。リリアの本を三角に畳んだ紙で包んでくれた手。教室で、お気の毒に、とわたくしの腕に添えた手。帳面を抱えていた指先が白かった。
侍女に頼んだ人がいたことと、それが主人だったことは違う。わたくしが侍女の行き先を追えば、公爵家が人を追ったことになる。
わたくしはリリアの部屋へ行って、紙を見せた。リリアは二度読んで、ふたの付いた上着を膝に抱えた。
「コルネリア様、本を包むの、上手でしたよね」
「はい」
「何も頼んでないって、言ってるんですね」
「はい」
リリアはしばらく上着のふたを指でなぞっていた。左のふたを、なぞっていた。
「瓶を見た時、エレノア様、顔が真っ白でした」
「……怖かったのです」
「エレノア様が」
「箱の蓋が開いていて、いちばん上に瓶があって。五つの時と同じでした。わたくしの物の中から、知らない物が出てくる」
言ってから、言ったことに自分で驚いた。五つの時のことを家の者でない人に話したのは、初めてだった。リリアは何も聞かなかった。上着を膝から下ろして、わたくしの隣に座り直した。
その夜、父へ手紙を書いた。
――お父様。仕入れ帳をありがとうございました。ミーナにも、ありがとうと伝えてください。ミーナは、事務官の方に手強いと思われたと申しておりました。わたくしもそう思います。
――瓶を買った人は分かりました。頼んだ人は、まだです。わたくしは自分では追いません。
――リリアさんの上着は、リリアさんが直しました。隠しにふたが二つ付きました。左のふたは、わたくしが縫いました。
ふたのことまで書く必要はなかった。でも、書きたかった。
*
その週の終わり、寮監の先生が学院の紋の入った封書を配った。
保護者参観のご案内。初夏の前に一日、保護者が授業を見られる日があるという。一家に入門の札が二枚ずつ付いていた。
わたくしは札を二枚持って、帳面の三つの欄を開いた。授業は、どの欄にも入っていなかった。
お父様が来たら、と考えた。来たら、教室の後ろで、たぶん誰よりも目立つ。目立たないように、いちばん地味な上着を着てくる。それでも目立つ。
来なかったら、と考えた。来なかったら、たぶん書斎を何往復もする。
封書に添え書きをした。
――お父様。参観の日は、授業を見てくださって構いません。二の授業の政治史がよいと思います。わたくしが手を挙げるかもしれません。お昼と、そのあとは、二つ目の欄です。
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