公爵邸の光の乙女
上着を三回替えた。
一着目は黒だった。鏡に映したとたん、断罪の場面で王太子の後ろに立っていそうな顔になった。二着目は紺にした。紺にしたら今度は評定に出る顔になった。三着目の灰色で手を打った。どれを着ても顔は同じだということに、三着目でようやく気づいた。
「旦那様。お客様は十五のお嬢様でございます」
廊下でミーナが言った。両腕に焼き菓子の型を抱えていた。
「分かっている」
「ご商談のお相手ではございません」
「分かっている」
分かっていないのは俺のほうだった。
光の乙女が来る。妹の画面の真ん中にいた少女が、今日この屋敷の玄関をくぐる。画面の中で、あの子が公爵家の屋敷に来る場面はなかった。来る理由がなかった。悪役令嬢の家は、主人公にとって敵の城だった。
その城に娘が自分で招いた。
階段の下でヘルマンが丸眼鏡を押し上げた。
「さて、厨房は朝から粉だらけでございます。さて、ミーナ殿が張り切っておりますので」
さて、が二回あった。今日のはたぶん、いい意味の二回だった。
*
馬車は昼前に着いた。
カイルが馬を下りて馬車の扉の脇に立った。三歩うしろの代わりに、今日は扉の脇が持ち場らしい。扉が開いて、まず娘が降りた。娘は振り返って中に手を差し出した。
栗色の髪がふわふわと揺れて、少女が降りてきた。
学院の制服ではなかった。生成りの木綿の服に、洗いざらした紺の上着を重ねていた。上着の袖口は丁寧に繕ってあった。両手で小さな籠を抱えていた。
少女は石段の下で屋敷を見上げた。それから玄関の前に並んだセバスとミーナと使用人たちを見た。最後に石段の上の俺を見た。
俺は一歩前に出た。
「……よく来た」
声は低かった。自分でも客を迎える声ではないと分かった。取り立てに来た相手に言う声だった。
少女は一瞬だけ目を丸くした。それから籠を抱えたまま深く頭を下げた。礼法の授業で習ったばかりの形なのだろう。膝の折り方が少しだけぎこちなかった。
「リリア・アーヴェルです。お招きいただいて、ありがとうございます。あの、これ、父が焼きました。お口に合うか分かりませんけど」
籠の中に丸いパンが六つ並んでいた。表面に十字の切れ目が入っていて、焼き色がどれも同じだった。
「ありがとう」
籠を受け取ると、少女は顔を上げた。
「公爵様、困ったお顔をなさってます」
背中の後ろでミーナが咳をした。咳をしたのはミーナだけではなかった。使用人の列の端まで同じ咳が順番に移っていった。
娘が俺の隣に来て小さな声で言った。
「お父様。リリアさんは、怖い顔と困った顔の区別がつく人です」
「……そうか」
「わたくしのほかでは、初めてです」
*
昼からは厨房だった。
ミーナが焼き菓子を教えると言い、少女が手伝うと言った。手伝うと言った少女の手つきを見て、三つ目の型を出したところで、ミーナは口を閉じて、少女の手元を見ていた。
「生地、もう少し寝かせたほうがいいかもしれません。この粉、うちの粉より水を吸います」
「アーヴェル様は」
「リリアでいいです」
「では、リリアさんは、いつから」
「五つくらいからです。最初は、こねるだけでしたけど」
ミーナが笑った。声を上げて笑うミーナを見るのはずいぶん久しぶりだった。
俺は厨房の入口の柱の陰からそれを見ていたつもりだったが、肩が半分出ていたらしい。
「旦那様。そちらは風が通ります」
セバスが後ろから言った。
「お茶をお持ちいたしましょうか。書斎へ」
「……ここでいい」
セバスは何も言わずに、厨房の入口の脇へ小さな椅子を一つ運んできた。使用人たちは誰も驚かなかった。公爵が厨房の入口で椅子に座っている光景に、この屋敷はもう十年慣れている。
生地を寝かせているあいだ、少女は何かを口ずさんでいた。
ふくらめ、ふくらめ、朝までに。
知らない歌だった。同じ節を何度も繰り返す短い歌だった。
一番が終わったところで、ミーナが型を拭きながら続きを歌った。少女が目を丸くしてミーナを見た。娘は粉のついた手のまま、二人の顔を代わる代わる見ていた。三番は娘が小さな声で歌った。
「ミーナさん、この歌、どこで」
「昔、覚えた歌でございます。お嬢様には、二番と三番を、私が」
少女は娘を見た。娘は少女を見なかった。生地の上に手を置いたまま、耳の先を赤くしていた。
三人のあいだで何かが通じたのは分かった。何が通じたのかは分からなかった。娘がこの歌を三番まで知っていることも、俺は今日まで知らなかった。
*
夕食の席で少女はよく食べた。食べながらよく話した。
セバスが籠のパンを切って皿に載せると、少女は端の固いところを取った。
「端が好きなんです。うちでは、売れ残りの端はわたしの朝ごはんでした。真ん中はお客さんの分なので」
バターは塩のきいたほうを取った。ミーナが甘い煮詰めた果物を勧めると、少しだけ載せて、甘いのは少しで足ります、と言った。
「うちの店は、夜明けの二刻前に火を入れるんです。冬はかまどの前がいちばん暖かいので、わたし、小さいころはそこで寝てました」
「二刻前、か」
「はい。朝いちばんのお客さんは、川の荷揚げの人たちです。あの人たち、パンを二つ買って、一つは歩きながら食べるんです。だから歩きながらでも崩れないように、うちのは皮を硬めに焼きます」
話す時に手が動いた。パンの大きさを手で作り、荷揚げの男たちの歩き方を肩で真似た。
娘が匙を置いた。
「お父様。リリアさんは、寮の費えの帳面を、わたくしより上手に付けています」
「エレノア様、それ、ここで言うんですか」
「言います。予備の袋のことも」
少女は少し赤くなってから、観念したように指を折った。
「学費と寮のお金は、特待生なのでかかりません。本は貸し出しです。紙とインクは自分で買います。月に一度、学院からお手当が出るので、それで足ります。お手当の残りは、少しずつ予備の袋に入れておくんです。足りない月は袋から出して、帳面の端に書いて、次のお手当で袋に戻します。先月までのわたしが貯めた袋から借りて、来月のわたしが返すんです。お父さんがそうしてます。粉屋さんの払いが重なる月は、そうやって回すんです」
「わたくしも同じ帳面を付けています。でも、予備の袋はまだありません」
「じゃあ、エレノア様も今月から作ってください」
「そういう話ではありません」
少女が笑った。娘はむっとした顔をした。
少女はそれから自分の服の袖を見た。
「今日は家の服で来ました。制服は汚せないので。一着なんです。お父さんが冬のあいだ、朝のパンを毎日ひと窯ずつ多く焼いて、それで買いました。母が袖を一寸長く仕立ててくれたので、たぶん三年着られます」
少女はそこで匙を置いた。
「それから、教会の方が、春の行事に出てほしいって。光の乙女として、祝福の歌のところで立っていてほしいって。もう三回、お手紙が来ました。わたし、歌、下手なのに」
「お断りすればよいのです」
「三回とも、お断りしました。四回目が来ます、たぶん。四回目は、何て書いて断ればいいのか分かりません」
言い方は明るかった。指先が皿の縁を一度だけなぞった。
「光の乙女って、わたし、好きじゃないんです。パン屋の娘で、たまたま光が出ただけなのに。乙女って呼ばれると、パン屋の娘のほうがどこかへ行っちゃう気がして」
娘がすぐに言った。
「リリアさんはリリアさんです。光が出たことと、パンを焼く人であることは、どちらも本当です。どちらかを取り上げる権利は、教会にもありません」
「エレノア様、声が大きいです」
「大きくありません」
「大きいです。セバスさんがびっくりしてます」
セバスは驚いていなかった。少なくとも顔には出していなかった。給仕の盆を持ったまま、ほんの少しだけ目を細めていた。
二人は顔を見合わせて、同時に吹き出した。娘が口元を押さえて肩を揺らした。少女は匙を持ったまま背中を丸めて笑った。
食卓を挟んで、二人の椅子は斜め向かいだった。最初は間に皿二つ分の距離があった。気がつくと少女が身を乗り出して、娘が身を乗り出して、その距離は皿一つ分になっていた。
画面の中で、この少女はいつも王太子の隣にいて、まっすぐな目で悪役令嬢を見ていた。学院の門で娘がこの子と並んで講堂へ歩いた日から、俺はどこかでその目を見張っていた。見張っていることに、今夜まで気づかなかった。
今、俺の前にある目は娘に向かって笑っている。
この子が何かの役を持っているのだとしても、それはこの子が選んだ役ではない。
*
門限に間に合うように、二人は夕方の鐘のあとに屋敷を出た。
カイルが馬を引いてきた。ミーナが焼き菓子の包みを二つ、少女の籠に入れた。一つは寮の料理番の方へ、とミーナが言った。少女は籠を抱え直して深く頭を下げた。
「ミーナさん、ありがとうございました。セバスさんも」
「またいらしてくださいませ」
「はい。また来ます。今度は、わたしが焼いたのを持ってきます」
それから少女は俺のほうを向いた。今度は石段の下からではなく、同じ段の上からだった。俺の胸のあたりまでしか背がない。見上げる目は、さっき食卓で笑っていた時と同じ目だった。
「公爵様、今日はありがとうございました」
「……ああ。また来るといい」
やはり取り立ての声だった。少女は気にした様子もなく、もう一度頭を下げた。
馬車の扉が開いた。娘が先に乗り、手を差し出した。少女はその手を取って、片足を踏み台にかけた。かけたところで振り返った。
「エレノア様」
声は小さかった。俺に聞かせるつもりのない声だった。石段の上は静かで、聞こえてしまった。
「エレノア様のお父様は、優しい方ですね」
馬車の中で、娘は返事をしなかった。少女の手を握ったまま、黙って一つ頷いた。
扉が閉まった。馬車が動き出して、カイルの馬がその三歩うしろについた。
俺は門が閉まるまで石段の上に立っていた。
横でミーナが前掛けの端を目元に当てていた。お嬢様に、お友達が、とだけ言って、あとは言わなかった。
書斎に戻ってから、手帳の予定表を開いた。教科書の行の下に、制服、とある。春から初夏か、と問いの印。
その横に、今夜聞いたことを一行だけ書いた。
――制服は一着。父親の朝のひと窯で買った。三年着るつもり。
書いてから、それが予定表の言葉ではないことに気づいた。消さなかった。
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。
Xでも更新情報などを発信しています。
よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!
https://x.com/st_shosetsu




