机の中のわたしの本
(リリア)
七日目の一の授業は魔術の基礎だった。
先生は教壇に立つなり、十二頁を開きなさい、と言った。
「三行目。灯りを呼ぶ時は息を吐きながら、と書いてありますね。これは刷り間違いです。吸いながら、が正しい。直しておきなさい」
教室じゅうでペンの音がした。わたしも三行目の「吐きながら」に線を引いて、横の余白に「吸いながら」と書いた。書いてから小さな丸を一つ足した。お父さんが窯の温度を覚える時に粉袋に描くのと同じ印だ。大事なところにはいつもこれをつける。
本はコルネリア様が包んでくれた紙の表紙のままだった。角を三角に畳んで内側へ差し込んだ包み方は、まだ一つも皺がない。自分でも二冊目から真似してみたけれど、わたしのは角がふくらんでしまった。コルネリア様の包み方の本は、組の中でこの一冊だけだ。
授業の残りはずっと息の練習だった。吸いながら指先に灯りを呼ぶ。わたしの指は吸ったとたんに明るくなりすぎて、先生にもう少し控えめに、と言われた。後ろの席の子がくすっと笑った。嫌な笑い方ではなかった。
鐘が鳴った。
「全校集会です。教科書は机に入れて、このまま講堂へ。教室には鍵をかけます。忘れ物のないように」
皆が立ち上がった。わたしは丸の形が気に入らなくて、もう一度なぞっていた。なぞり終えて顔を上げると、もう扉の前に列ができていた。慌てて本を机に入れて蓋を閉めた。
机の蓋には小さな真鍮の錠がついている。入学の日に一人一つずつ鍵をもらって、わたしの鍵は紐に通して首から下げている。下げているのに、その朝は錠をかけるのを忘れた。
自分の物に鍵がかかるのに、わたしはまだ慣れていなかった。うちの店では、鍵がかかるのはお金の箱と粉の蔵だけだ。
列のいちばん後ろで廊下に出た。先生が扉を閉めて大きな鍵を回した。がちゃん、と重い音がした。
*
集会は長かった。
学院長先生が春の行事の話と寮の門限の話と、廊下を走らないという話をした。一年は前のほうの列で、二年がその後ろ、三年はいちばん後ろだった。わたしは前から四列目に座ったから、後ろで誰が出たり入ったりしたのかは知らない。
エレノア様はわたしの三つ前の列にいた。後ろ頭の緑のリボンが、話のあいだ一度も揺れなかった。結び目が少し右に傾いていた。
集会が終わって講義棟へ戻ると、先生が廊下で鍵を回して扉を開けた。
机の上に細長い紙が一枚ずつ置いてあった。
――十二頁三行目 誤 吐きながら 正 吸いながら (教科書委員)
さっきの刷り間違いの直しだった。皆の机に一枚ずつ、きちんと同じ向きで置いてあった。わたしはもう書いたのにな、と思いながら紙を持ち上げて、二の授業の支度をしようと机の蓋を開けた。
本がなかった。
筆入れと帳面はあった。本だけがなかった。机の中を手で探った。奥の隅まで探った。蓋の裏も見た。ない。
「本が、ない」
声が思ったより大きかった。近くの何人かがこちらを向いた。わたしは床を見て、椅子の下を見た。どこにもなかった。
喉の奥が少しずつ狭くなった。貸し出しの本は、学年の終わりに返す本だ。なくしたら弁償しなければならない。弁償のお金のことを考えたら、指先が冷たくなった。
「あら」
通路の反対側で誰かが言った。
「ヴァレンシュタイン様の机、蓋が浮いていますわ」
淡い茶色の髪の子だった。エレノア様のすぐ後ろの席で、名前はまだ覚えていない。その子はエレノア様の机の脇に立って、蓋の端を指でつまんでいた。エレノア様はまだ入口のところで、廊下の誰かに呼び止められていた。
「閉め忘れたのかしら。……まあ」
その子が蓋を持ち上げた。
中に紙の表紙の本が一冊あった。角を三角に畳んだ包み方。組の中に一冊しかない包み方だった。
教室じゅうの声が一度に止まった。それから一度に動き出した。
――公爵令嬢の机から。
――お菓子の箱の、あの家の。
――平民の子の本なんて、何に。
声は小さかったのに、全部聞こえた。焼き窯の前で生地のふくらむ音を聞き分けるみたいに、一つずつ耳に入ってきた。
わたしは通路を走って、その本に手を伸ばした。
「触らないで」
エレノア様の声だった。入口から歩いてきていた。急いではいなかった。
「見つけた物には触らずに、組の先生へ。組の先生に、入学の日とそのあとにもう一度言われました。先生を呼んでください」
わたしの手は本の上で止まった。止まった手をどこへやればいいのか分からなかった。蓋をつまんでいた子が、ぱっと指を離した。
前の席の男の子が廊下へ走っていった。
「まあ、ヴァレンシュタイン様」
開いた扉から、栗色の巻き髪の人が入ってきた。コルネリア様だった。二年の徽章をつけて、腕に帳面を抱えていた。
「直しの紙が皆さまに届いたか、見に来ましたの。……まあ、どうなさったの」
コルネリア様は机の中を覗いて、それからエレノア様の腕にそっと手を添えた。
「お気の毒に。きっと誰かのいたずらですわ。ヴァレンシュタイン様がこんなことをなさるはずがありませんもの。ねえ、皆さま」
鈴みたいな声だった。何人かが曖昧に頷いた。頷いたけれど、目はエレノア様の机に残っていた。
「ありがとうございます、コルネリア様。先生がいらっしゃるまで、このままにしておきます」
エレノア様はそれだけ言った。コルネリア様の手に一度だけ目を落とした。
先生を待つあいだ、わたしは机の中の本を、触らないで上からよく見た。
包み紙は角まで畳まれたままで、破れても濡れてもいなかった。包みの上の名はわたしの字だった。ただ、本がそこにあるというだけでは、誰が置いたのかは分からない。
それから順番を並べた。こねて、寝かせて、丸めて、焼く。順番がずれたらパンにならない。
机の上には直しの紙があった。本が動いたのは、鍵のかかった教室に誰かが直しの紙を置いていったあいだだ。
それから、エレノア様の机の錠を見た。触らないで、腰をかがめて顔だけ近づけた。
小さな真鍮の錠の、鍵穴のまわりに細い引っかき傷が三本、斜めに走っていた。傷の中だけ真鍮の色が明るかった。古い傷ならまわりと同じくすんだ色になる。うちのかまどの鉄の扉もそうだ。火かき棒が当たったばかりのところだけ光る。
「エレノア様。この錠、集会の前にかけましたか」
「かけました。鍵はここにあります」
エレノア様は制服の隠しから小さな鍵を出した。
「傷が新しいです。光ってます」
エレノア様は錠を見て、それからわたしを見た。少しだけ目を見開いていた。
組の担当の先生が入ってきたのはその時だった。前の席の男の子が息を切らしてついてきた。
先生は話を聞きながら錠の傷を見て、机の中の本を見た。それから手巾を出して本を取り出し、わたしの前に置いた。
「アーヴェルさん。あなたの本ですか」
「中を見てもいいですか」
「どうぞ」
十二頁を開いた。三行目に線が引いてあって、余白に「吸いながら」と丸が一つ。丸は二回なぞってあった。
「わたしのです。今朝、一の授業で書きました。丸を二回なぞったので、列のいちばん後ろになりました」
皆がわたしを見た。わたしは頁を開いたまま、高く持ち上げた。
「書いてから机に入れて、先生が鍵をかけるのを見ました。だから、この本が動いたのは集会のあいだです。わたしたちは全員、講堂にいました」
「エレノア様も、ずっと講堂にいました。わたしの三つ前の列でした。わたし、リボンを見てましたから」
結び目が右に傾いていたのも見ていた。それは言わなかった。
「それに、錠の傷が新しいです。エレノア様は自分の鍵を持ってます」
誰かが後ろのほうで言った。
「でも、公爵家のご令嬢なら、誰かにやらせることだって」
声の主は分からなかった。わたしはその声のほうを向いた。
「エレノア様がするなら、もっと上手にやります」
教室がしんとした。
言ってから、自分でも少し驚いた。でも本当のことだった。
「錠に傷なんかつけません。自分の鍵があるんだから。蓋だって、ちゃんと閉めます。わたしの書き込みのことだって、きっと先に気がつきます」
隣でエレノア様がわたしを見ていた。口の端がほんの少しだけ動いた。笑ったのかどうかは分からなかった。
先生は咳払いをした。
「誰がしたのかは、ここでは決めません。教室の鍵と錠のことは、学院で調べます。それから」
先生は淡い茶色の髪の子を見た。
「見つけた物の蓋を開けた人は、あとで名前を言いに来なさい。叱るためではありません。誰が何に触ったかを書いておかないと、調べられないからです」
その子は小さな声で、はい、と言った。耳まで赤かった。
わたしは本を胸に抱えた。抱えてから、自分の机の錠を見た。鍵は首から下がっていた。かけていなかったのは、わたしだった。
*
昼休みにエレノア様が廊下に出た。わたしも追いかけた。
廊下の端にカイル様が立っていた。大きな体をまっすぐにして、三歩うしろの場所で待っていた。
「カイル様。集会のあいだ、講堂を出た人はいましたか」
「自分は二年の列の端、後ろの扉の脇の席でした。集会のあいだは前の扉に閂がかかっていて、開いていたのは後ろの扉だけです。そこを通った人は見ております」
カイル様は少しも考えなかった。
「出ていった生徒は三名です。一年の男子が一名。顔色が悪く、付き添いの先生と医務室へ行き、戻りませんでした。三年の女子が一名。学院長の伝言を受けて出て、すぐに戻りました。もう一名は二年の教科書委員です。直しの紙を一年の教室に置くために、教務から鍵を借りて出ました。鍵のことは、さっき教務の帳面で確かめました。学院長の話が春の行事から門限に移るころ、戻りました」
カイル様はそこで一度だけ、わたしのほうを見た。それからエレノア様に戻った。
「三名の名は、組の先生と警備の詰所へすでに出してあります。お嬢様にも申し上げますか」
わたしは息を呑んだ。二年の教科書委員。さっき、お気の毒に、と言った人だ。紙を三角に畳むのがあんなに上手な人だ。
エレノア様は少しのあいだ黙っていた。
「今は、わたくしは聞きません。父への報告にも、名は書かないでください。出た人の数と、名を学院へ渡したことだけを」
「理由を伺ってよろしいですか」
「出ていったことは、入れたことではありません。証拠のないまま名が紙に書かれて、その紙が人の手を通れば、名だけが噂になります」
エレノア様はそこで少しだけ考えた。
「でも、その方たちのどなたかがわたくしかリリアさんに近づくとか、身に関わることが分かった時は、名も含めて、わたくしと父に知らせてください。聞きたくないのと、知らないでいいのは違いますから」
カイル様はしばらく黙っていた。それから、承知しました、と言った。
「報告には、そのように書きます」
カイル様が三歩うしろの場所へ戻っていった。わたしはエレノア様の横顔を見た。
「でも、委員の人は、鍵を」
「分かっています」
エレノア様は前を向いたまま言った。
「……分かっていることと、言えることは違います」
言い方が少しだけ寂しそうに聞こえた。
*
その夜、エレノア様がわたしの部屋に来た。
北の端の部屋は狭い。椅子が一つしかないので、わたしは寝台に座って、エレノア様に椅子をすすめた。エレノア様は座る前に部屋の中をぐるりと見た。窓の小ささと、机の上のお母さんへの手紙と、壁の釘に掛けたわたしの前掛けを見た。
「錠は、明日から」
「かけます。今日、わたしがかけてたら、こんなことには」
「かけていても、錠は引っかかれました。わたくしの錠のように」
エレノア様は制服の隠しから帳面を一冊出した。緑の布の表紙だった。
「わたくしは、自分の持ち物を朝と晩に数えています。寮に入った日からです。今朝、机に入れた本は四冊でした。集会のあとは五冊でした」
「数えて、どうするんですか」
「減ったり増えたりしたら、いつかが分かります。いつかが分かれば、その時そこにいた人を数えられます」
わたしは寝台の上で膝を抱えた。
「今日のは、わたしの物が減って、エレノア様の物が増えたんですね」
「はい」
「わたしの物を、わたしじゃない誰かが、エレノア様の机に入れた」
「はい」
エレノア様はわたしを見た。
「誰かが、わたくしたちの物を使っています」
わたくしたち、と言った。
わたしはそれがうれしかった。うれしがっている場合ではないのは分かっていた。でも、わたくしたち、だった。
「じゃあ、わたし、エレノア様の物も数えます」
「アーヴェルさんの物は、わたくしが数えます」
「リリアでいいです。それに、わたしの物なんて、すぐ数え終わりますよ。本と帳面と、前掛けと、お母さんの手紙と」
それから布の袋。言わなかったけれど、エレノア様の目がわたしの枕元に一度だけ動いた。
「……リリアさん」
エレノア様は少しのあいだ黙っていた。膝の上で両手を重ねて、指を一本ずつ組み直していた。言いたいことがあって、どこから言えばいいのか分からない時の手だった。わたしもお母さんへの手紙でよくそうなる。
「今日、教室で」
「はい」
「わたくしがするなら、もっと上手にやる、と言ってくださいました」
「本当のことですから」
「それから、錠の傷を、わたくしより先に見ました」
「かまどの扉と同じだったので」
「……ありがとう、ございます」
ありがとう、と、ございます、のあいだに小さな隙間があった。焼き上がったパンに入る細いひびみたいな隙間だった。
わたしは笑ってしまった。エレノア様が眉を寄せた。
「何がおかしいのですか」
「ごめんなさい。エレノア様、ありがとうって言う時、ちょっと止まるんですね」
「止まっていません」
「止まりました。この前も」
エレノア様は何か言い返そうとして口を閉じた。耳が赤くなっていた。
「……練習します」
「練習するものなんですか」
「必要なら、何でも練習します」
真面目な顔だった。わたしはまた笑った。今度はエレノア様も少しだけ笑った。
消灯の鐘が鳴った。エレノア様は立ち上がって、扉のところで振り返った。
「錠を」
「かけます。今、かけます」
扉が閉まった。わたしは言われたとおり、すぐに鍵を回した。かちり、と小さな音がした。
寝台に戻って、枕元の布の袋を手に取った。青いリボンの輪はちゃんとそこにあった。
一つ、と数えた。
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