首席と先輩
(エレノア)
三日目の算術で、先生は問いを黒板に書いてから振り向いた。
「では、首席に答えてもらいましょう」
教室の顔がいっせいにこちらへ向いた。わたくしは立って答えた。答えは合っていた。先生は頷いて次の問いを書いた。次も、首席に、と言った。
三つ目の問いで少し考えた。
首席に答えてもらう、と先生は言う。ヴァレンシュタインさん、とは言わない。首席でいたいとは思っている。夏の試験でも、秋の試験でも、いちばん上に名前を書かれたい。それはわたくしの欲だ。
「先生。三つ目は、アーヴェルさんのほうが早く解けていました」
隣の席でリリアが石板を胸に抱えて固まった。石板には答えが書いてあった。合っていた。
先生はリリアを見て、それからわたくしを見て、咳払いをした。
「では、アーヴェルさん」
リリアは真っ赤になって答えた。声が小さかったので、先生がもう一度と言った。二度目は教室の後ろまで届いた。
授業のあと、リリアは石板を抱えたまま、わたくしの袖を引いた。
「エレノア様。急に当てられると、心臓が口から出そうになります」
「……合っていたので、喜ぶと思いました」
「合ってたのはうれしいです。でも、先に言ってほしかったです」
わたくしは、自分がうれしいことは相手もうれしいと思いやすい。お父様にも一度そう言われた。
「ごめんなさい。次は、先に聞きます」
「はい。聞いてくれたら、たぶん、手を挙げます」
*
午後、二年の先輩が教室へ入ってきた。
「一年の皆さま、教科書委員でございます。特待生の方の貸し出しの本をお持ちしましたわ」
華やかな栗色の巻き髪だった。耳の脇で三本ずつ、縦に巻いている。父がわたくしの髪を見て顔色をなくした、あの巻き方だった。腕に本を五冊と貸し出しの帳面を抱えていた。
コルネリア様だった。
九つの春の勉強会で、わたくしは竪琴の星のことでコルネリア様の一行を間違いだと言い、翌日、皆の前で取り消した。
あれから会うのは年に一度か二度の王宮の催しだけだった。
コルネリア様は本を一冊ずつ特待生の机に置いていった。リリアの机の前で止まって帳面を開いた。
「アーヴェルさんね。ここにお名前を。それから、この本は学年の終わりに返していただくの。表紙が傷まないように、紙で包んでおくといいわ。包み方、ご存じ?」
「いいえ」
「では、一冊目だけ、わたくしが包んで差し上げる」
コルネリア様はリリアの机の端で、持ってきた紙を本に当てて折った。角を三角に畳んで表紙の内側へ差し込む。手早くて、紙に皺が一つもなかった。
リリアは目を丸くして見ていた。
「すごい。パンの包み紙より、きれいです」
「まあ。パン屋さんにそう言っていただけるなら光栄だわ」
コルネリア様は鈴のように笑った。頬が少し赤くなっていた。褒められて、本当にうれしそうだった。それから包んだ本をリリアに渡して、わたくしの机の前へ来た。
「ヴァレンシュタイン様。首席ですってね。入学の誓い、とても立派でしたわ」
「ありがとうございます。コルネリア様も、委員のお仕事を」
「二年は、皆なにかの委員をするの。わたくしは本が好きだから、教科書にしたのよ」
帳面を抱えた指の先が白かった。重い帳面だから、そうなるのかもしれない。
「竪琴の星、今でも見ていらっしゃいますか」
「ええ。明け方に、ときどき。あれはヴァレンシュタイン様のおかげで、今でも自信があるのよ」
コルネリア様はそう言って、次の机へ行った。最後の特待生に本を渡して、帳面を閉じて、膝を折って出ていった。
リリアが小さな声で言った。
「やさしい先輩ですね」
「はい。本の包み方を、わたくしも教わりたいです」
*
四日目は図書館へ行った。
学院の図書館は、一年でも表の書架なら自由に読める。古い字の教本や、その元になった写本も表にある。学院の昔の記録を置いた奥の棚は、自分の名で願い出て先生の署名をもらい、入学からひと月たってから入れる。お母様が調べたような古い記録の原本は、さらにその奥で、別の許しが要る。
わたくしは願い出の紙を書いた。名前、組、読みたい棚。最後に自分の印を押した。蝋が固まるのを三つ数えて、まっすぐ上へ持ち上げた。
願い出の紙を図書館の係に預けてから、表の書架の古い字の棚へ行った。窓際の机に先客がいた。
鳶色の髪に寝癖がついていた。制服の肘が擦り切れていて、袖口にインクの染みがある。机に、表の書架の古い写本を三冊広げて、紙に何かを写していた。
わたくしの探していた古い字の手引きは、その人の肘の下にあった。
「その手引きを、少しお借りしてもよろしいですか」
「今、使ってる」
顔も上げずに言われた。
「では、使い終わったら」
「三十頁目から写し間違ってる。借りても役に立たない」
わたくしは机の端から手引きを覗いた。三十頁目の字の表を、写本の同じ字と比べた。二つの字の形が入れ替わっていた。わたくしに分かるのは形が違うことまでで、その字を読むことはできない。
「……本当ですね」
「だから正本を読んでる」
その人は写本の一冊を指で叩いた。指先が爪の際まで黒かった。インクが皮膚に染みて洗っても落ちなくなった指だった。
それからわたくしの手元の願い出の紙に目を落とした。
「その印、左の角が欠けてる」
「はい。十三の時に」
「欠けた印は、欠けたまま使ったほうがいい。作り直すと、どっちが本物か分からなくなる」
欠けたまま使えと言う人には、初めて会った。理由は、わたくしのとは少し違ったけれど。
その人は顔を上げたが、わたくしの目は見なかった。肩の少し上を見て、すぐ紙に戻った。
「ノア。一年の特待生」
「エレノア・ヴァレンシュタインです」
「ああ。首席の」
ノアはそれだけ言ってまた写し始めた。わたくしは手引きを借りずに、向かいに座って別の写本を開いた。ノアは何も言わなかった。追い払われもしなかった。
図書館の鐘が鳴るまで、二人とも一言も話さなかった。悪くない一刻だった。
*
四日目の昼はパンの日だった。
リリアは食堂のパンを両手で割って断面を見て、匂いを嗅いでから、少しだけ眉を寄せた。
「焼きはいいけど、こねが足りないです。たぶん、朝が忙しいんだと思う」
「分かるのですか」
「穴の大きさで分かります。ほら、ここだけ大きいでしょう」
見せてもらったけれど、わたくしにはどの穴も同じに見えた。そう言うと、リリアは笑った。
隣の卓の令嬢たちが、こちらを見て扇の陰で何か言っていた。光の乙女と、という言葉だけが聞こえた。
一つ向こうの卓で、細面の令息が本を開いたまま言った。同じ組の、前から三列目の窓際の人だ。
「噂は、流れるのではなく、流されるものだ」
本から目を上げなかった。
「今の卓の話が、明日どこで、どんな言い回しで聞こえるか、気をつけてみるといい」
「速く広まれば、流した方がいるということですか」
「速いだけなら、皆が好きな話だというだけだ。同じ言い回しが、同じ刻に、離れた場所で聞こえたら、少しおかしいと思う」
令息は本を閉じて立った。
「ユリウス・アルシュタイン。宰相の息子に、そういうことを聞くのか」
「宰相閣下のご子息に聞いたのではありません。同じ組のアルシュタイン様に聞きました」
ユリウス様は少しだけ目を細めた。笑ったのかどうかは分からなかった。
「なるほど。覚えておく」
それだけ言って食堂を出ていった。
*
その夜、寮監の先生が手紙を一通持ってきた。
封に銀の小さな印。名の頭の一字。学院の中では手紙は寮監の帳面を通って届く。
――エレノア・ヴァレンシュタイン嬢
――入学、おめでとうございます。講堂の後ろまで届く声でした。
――学院の中でも手紙を出してよいか、寮監に確かめました。帳面に付ければよいそうです。
本文はそれだけだった。いつもより短かった。追伸のほうが長かった。
――追伸。入学式の朝、拱門の下で祝辞を読み返していたら、生垣の向こうに公爵閣下がおられました。会釈をいただいたのだと思います。祝辞の三行目を一度忘れました。
――追伸の二。学院の廊下で会っても、たぶん私は公の顔をしています。あれは、あなたに向けた顔ではありません。手紙の顔のほうが、本当です。
読み返した。もう一度読み返した。
頬が熱かった。窓を少し開けた。夜の風が入ってきても熱は引かなかった。
返事を書いた。本文は、学院の四日のこと。算術の三つ目の問い。図書館の写し間違い。パンの穴。
それから追伸を書いた。
――追伸。三行目は、少しだけ早口でした。わたくしにしか分からないくらいに。
――追伸の二。廊下で公の顔をなさっていたら、わたくしも公の顔をいたします。手紙の顔は、手紙で見せてください。
封をしてお母様の星の印を押した。
帳面のいちばん右の欄にはまだ何も書いていない。お父様への最初の一行はまだ決まらない。決まらないうちに、殿下への返事のほうが先にできてしまった。お父様には言わないでおこうと思う。
*
五日目の夕方、ヘルミーネ様がわたくしの部屋に、リリアと一緒に押しかけてきた。
「灯火の儀の話をしに来たの。秋だけど、一年は今から飾りを決めておかないと、いいところを二年に取られるわよ」
灯火の儀は秋、学院の礼拝堂で行う。神官が灯をともして礼拝堂の中を光で満たす。生徒は通路の燭台に飾りをつける。燭台の場所は組ごとに希望を出し、出した順に決まるのだそうだ。
「去年、わたしの組は柱の陰で、誰にも見えなかったの」
「飾りは、何をつけるのですか」
「何でもいいの。花でも、紙でも、リボンでも」
リボン、とリリアが言った。わたくしを見た。わたくしもリリアを見た。
「燭台の脚に、リボンを結びましょう。ほどけにくい結び方で」
「輪が二つで、端を下にくぐらせるやつ」
「それです。組の皆さまに、わたくしが結び方をお教えします」
ヘルミーネ様が、何の話、という顔をした。
「昔、教えてもらった結び方です。ヘルミーネ様にもお教えします」
「わたしの組の燭台にも結んでいいなら、習うわ」
どこで教えてもらったのかは、リリアもわたくしも言わなかった。
「儀式のあとは、どうするのですか」
「丘の上から礼拝堂を見るの。窓が全部光って、きれいよ。去年は焼き栗を持っていったわ」
「パン、焼いていきたいです」
リリアが言った。
「寮の厨房、借りられるなら。灯火の日のパン、うちでは毎年焼くんです。丸くて、上に十字の切れ目があって」
「借りられるか、寮監の先生に聞いてみます」
わたくしは帳面を開いて、予定の欄のずっと先の月に書いた。灯火の儀。燭台にリボン。丘の上。パン(厨房、寮監の先生に聞く)。
まだ半年も先の予定だった。何も起きなくても楽しみにしていい予定だった。
二人を寮の玄関まで送ってから、教室に忘れた教本を取りに講義棟へ行った。カイル様が三歩うしろについた。
講義棟の廊下の掲示板に、一年の名簿が貼ってあった。その前に二年の徽章をつけた黒い髪の人が一人立っていた。名簿の上のほうを見ていた。
わたくしが通りかかると、その人は振り向いた。殿下に似た青い目だった。殿下の目より、少し冷たい色に見えた。
「君が首席か」
それだけ言って、薄く笑って、階段のほうへ歩いていった。足音はほとんどしなかった。三歩うしろで、カイル様の足音が止まっていた。
翌朝、湯殿の前でヘルミーネ様に聞くと、去年の秋に隣の国から戻られた第二王子殿下だと教えてくれた。二年に入られたのだそうだ。殿下の弟君だと聞いて、あの目が似ていたわけが分かった。
首席、と呼ばれたのは、この五日で何度目だったろう。途中から数えるのをやめていた。
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