保護者は帰るもの
引き継ぎは学院の警備の詰所で、一の鐘の少しあとに始まった。
詰所は門の脇の石造りの小屋で、壁に学院の見取り図が貼ってあった。警備の長は五十がらみの男で、左の袖口がすり切れていた。机の向こうに長、手前に俺とカイル。ガレスは騎士団の用で来られず、カイルに封書を一通持たせていた。
封書には三行だけ書いてあった。持ち場は甥に言わせろ。お前は聞いて頷け。要ることは全部聞け。
「授業のあいだは、教室の扉の外に学院の者が立ちます」
長は見取り図の講義棟を指で叩いた。
「一年の教室は二階の東です。階段は二つ、どちらの下にも一人ずつ置きます。教室を移る時と、寮と講義棟の行き来はローウェンが付く」
「カイルにも自分の授業がある」
「はい。ですからローウェンの時間割を、今朝ここへ出させました」
カイルが紙を一枚机に置いた。二年の時間割に、一年の移動の刻が赤い線で書き込んであった。重なるところが週に七つあった。
「この七つは学院の者が付きます。ローウェンは自分の授業の前に、詰所へ一言入れてから行く。誰がいつ付いていたかは、詰所の帳面に残ります」
俺は昨夜の紙の一つ目に線を引いた。
「寮の部屋の鍵は」
「本人と、寮監の合い鍵です。合い鍵を使う時は、寮監が帳面に書きます」
「病の時と、急ぎの時は」
「病は寮監が医務室へ連れていき、寝かせる時は寮監からローウェンへ、ローウェンから騎士団の詰所を通してお屋敷へ。その日のうちに届きます。急ぎの時はこれを待ちません。寮監か学院の者が、門から騎士団の詰所へ直に人を走らせます」
「ローウェンの日々の報告は」
「夕方の鐘のあとに書いて、二通にします」
カイルが言った。
「一通は寮監に預け、その晩のうちにお嬢様へ渡ります。もう一通は騎士団の詰所から叔父を通して、その晩お屋敷へ届きます」
線は四つ目まで引けた。残りは二つだった。
「教科書と持ち物のことを聞きたい」
長が眉を上げた。
「娘は七つの時、自分の家の菓子箱に毒を入れられた。その前には、屋敷で宝石がなくなって、娘が疑われた。どちらも、物が人の手を通るあいだに起きた。学院で物の扱いがどうなっているのかを知っておきたい」
「教科書には名を書かせます。教室は授業のない時は鍵をかけ、鍵は当番の教師が持ちます。共用の棚は組ごとです」
「なくなった物や、見慣れない物が出てきた時は」
「担当の教師へ。見つけた者は触らない。これは入学の時に一度言っております」
「一年には、もう一度言ってもらえるか。言われた側が、一度で覚えているとは限らない」
長は少し考えて、頷いた。
「組の担当に、そう伝えます」
五つ目に線を引いた。
最後の一つは、言い方を昨夜のうちに決めておいた。
「昨日の朝、紺の肩掛けの教師が、特待生の新入生に、別の案内があるから薔薇園を抜けろと言っていた。掲示とは違う。娘がそれを見て、講堂へ一緒に行った。特待生への別の案内は、本当にあったのか」
長は詰所の若い者を教務へ走らせた。答えは俺が茶を半分飲むあいだに戻ってきた。特待生に別の案内は出していない。紺の肩掛けは案内役の目印で、昨日の朝は十二人が立った。
「誰かを責めたいのではない」
俺は言った。
「新入生が掲示と違う道を言われた。それだけを、案内役の方々に伝えてほしい。顔は、うちの侍女が見ている。痩せた女の方で、左の頬に小さな黒子があった。要る時だけ使ってくれ」
「案内役の当番表と突き合わせます。分かったことは、ローウェンを通してお知らせします」
六つ目に線を引いた。
ほかにも聞きたいことはあった。講義棟の窓。階段の手すり。秋の実習の術具の貸し出し。どれも大事だが、今朝のうちに全部を並べれば、それはもう引き継ぎではない。不安の預け入れだ。
「学院の規則の写しを、一部いただけるか。残りは自分で読む」
「お持ちください」
長は戸棚から綴じた紙を出した。思ったより厚かった。
*
詰所を出ると、並木道を生徒たちが講義棟のほうへ歩いていた。
帰りの馬車は門の外に待たせてある。足が講義棟のほうへ半歩向いた。
「閣下。門は、そちらではありません」
カイルが三歩後ろから言った。この若者は冗談を言わない。見たことをそのまま言う。
講義棟のほうから足音が来た。
娘だった。教本を胸に抱えて、緑のリボンを揺らして並木道を横切ってきた。後ろに栗色の髪の少女が少し離れて立ち止まっていた。
「お父様。引き継ぎは、一の鐘のあとだと伺っていましたので」
娘は俺の顔を見て、それから俺の足の向きを見た。
「お父様、今日のわたくしの予定をお伝えします」
娘は指を折った。
「一の授業は礼法です。二の授業は算術。お昼のあとは、図書館の使い方の説明があります。そのあと寮でヘルミーネ様と、湯殿の空いている時刻を確かめます。夜は、お父様へのお手紙の最初の一行を考えます」
「……昼は」
「お昼は、言いません」
娘はそう言って少しだけ笑った。
「どの予定にも、お父様の出番はありません」
出番がないことは、詰所を出た時から分かっていた。分かっていて、足が半歩向いた。
「分かった。帰る」
「はい」
「教科書と持ち物のことは、組の先生から話がある。聞いておけ」
「はい」
娘は膝を折って、待っていた少女のところへ駆けていった。二人は並んで講義棟のほうへ行った。
俺は門のほうへ歩いた。一度だけ振り向いた。石段の上に、もう二人の背中はなかった。
*
馬車の中でミーナは何も聞かなかった。俺も何も言わなかった。
丘を下りきったところで、ミーナが膝の上の籠を開けた。式の朝、俺が屋敷から馬車に積んできた肩掛けが一枚入っていた。
「お届けしなくて、ようございましたね」
「……届けるつもりで積んだのではない」
「さようでございますか」
肩掛けは屋敷に戻って、俺の書斎の椅子の背に掛かった。
*
夜、ガレスが騎士団の詰所から封書を持ってきた。
カイルの最初の報告だ。封を切ると、紙が一枚入っていた。欄が二つ。娘の紙の一つ目と同じ言葉で、カイルが自分で引いた欄だった。
――危ないこと なし
――体のこと 変わりなし
三回読んだ。三回読んでも二行だった。
「セバス」
「はい」
「報告というのは、二行でいいものか」
「異常がなければ、二行で足りるかと存じます」
前の会社でも、問題のない現場ほど日報が短かった。分かっているのに、昼に何を食べたかくらいは書いてあってほしかった。
それは書かない約束だった。
「書き足させるか」
窓際の椅子でガレスが言った。
「いや。これでいい」
「顔が、これでいいって顔じゃねえな」
「これでいい顔だ」
ガレスは鼻で笑って杯を置いた。
「お嬢も今ごろ、寮で同じ二行を読んでる。何か足したら、お嬢はその晩に気づくぞ」
*
ガレスが帰ったあと、書斎で手帳を開いた。
予定表の二行目に、教科書、とある。春、二週目か。横に問いの印。
娘に手紙を書いた。短くした。
――学院の警備の長と話した。持ち物のことは、組の先生から話がある。宝石の時も、菓子の時も、物は人の手を通った。それだけ覚えておけ。 父
二週目のことは書かなかった。書けば、どこで聞いたのかと娘は必ず聞く。聞かれても、俺には答えがない。
書けることは全部書いた。書けないことは、学院の扉の鍵と、組の先生と、娘自身の目に任せるしかない。それで足りるのかどうかは分からない。
椅子の背の肩掛けを膝に掛けた。夜は冷える。娘の寮も、たぶん冷える。
今夜、娘は俺への手紙の最初の一行を考えている。何が書いてあっても、俺はそれを、誰にも見せない手紙として読む。
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