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【1万PV突破】悪役令嬢の父親に憑依した俺、娘を見捨てる未来だけは絶対に認めない  作者: 白川 透


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祭りの女の子

(リリア)


 わたしの部屋は女子寮のいちばん北の端だった。


 部屋は家の格の順に南から並んでいて、平民の特待生は北になる。窓は小さくて朝日は入らないらしい。それでも寝台があって、机があって、扉に鍵がかかる。自分だけの扉なんて生まれて初めてだった。

 床は飴色で靴下で歩くとつるりと滑る。窯から出したばかりのパンの皮の色だ。匂いは蝋だけれど。


 机に紙を広げてお母さんに手紙を書いた。


 ――お母さん。学院の廊下は、うちのお店が十軒は入りそうなくらい長いです。


 そこまで書いてペンが止まった。廊下が長いことより書きたいことがあった。


*


 今朝、寮から講堂へ行く途中で、紺の肩掛けの先生に呼び止められた。痩せた女の先生だった。アーヴェルさんね、と名前を呼ばれてびっくりした。特待生は別に案内があるから、薔薇園を抜けたほうが近いわ、と先生は言った。

 講堂の石段は目の前に見えていた。でも先生がそう言うのだからそうなのだと思った。わたしはまだ、この学院の何も知らない。


 分かれ道を曲がったところでうしろから声がした。掲示には講堂の前に集まるとしか書いてありません、と言う声だった。焼き上がりの時刻を告げる時のお父さんの声みたいに、ただまっすぐだった。

 振り向くと同じ制服の人が立っていた。目尻がきゅっと上がっていて、顔だけ見ると怒っているみたいだった。その人は先生に膝を折ってからわたしを見た。


「わたくしは講堂へ参ります。あなたは、どうなさいますか」


 わたしが決めていいんだ、と思った。先生は笑っていたけれど、手が肩掛けの端をぎゅっと握っていた。


「……講堂へ行きます」


 その人は手を引かなかった。わたしの歩く速さに合わせて隣を歩いた。石段でわたしは半歩うしろになった。

 目の前でリボンの結び目が揺れていた。輪が二つ。垂れた端の片方が、結び目の下にくぐらせてある。


 足が一段ぶん止まりかけた。

 でも、結び方なんて、貴族のお嬢様たちのあいだではやっているのかもしれない。違ったら、恥ずかしい。期待して違ったら、きっとすごく悲しい。だから見なかったことにして石段を上がった。


*


 名前は式のあとで知った。誓いの言葉を読んだ人だった。

 エレノア・ヴァレンシュタイン様。下町でその名前を知らない人はいない。怖い公爵様のお家のお嬢様。お客さんがそう言っていたのを、わたしは覚えている。小さい頃にお菓子の騒ぎがあった、とも。

 その続きは思い出さないことにした。わたしが見たのはわたしに道を選ばせてくれた人だ。


 広場でお礼を言ったら、ヴァレンシュタイン様は「掲示のとおりにしただけです」と言った。それからご自分のお父様のほうへ歩いていった。背の高い、顔の怖い男の人だった。顔はものすごく怖いのに、ヴァレンシュタイン様を見た時、困ったような、ほっとしたような顔をした。

 うちのお父さんが、初めて一人で配達に行ったわたしを店の前で待っていた時の顔に、少し似ていた。


 午後、寮の廊下で一人で掲示を読んでいたら、ヴァレンシュタイン様が声をかけてくれた。


「二年の方が寮を案内してくださるそうです。ご一緒しませんか」


 二年の方はヘルミーネ様という背の高い人だった。赤い金色の巻き毛で、声が大きくて、笑うと廊下の端まで響いた。湯殿の空く時刻と、食堂でいちばんおいしいパンが出る日を教えてくれた。

 パンの日は、四日に一度。わたしは手帳に書いた。


 案内の途中でヴァレンシュタイン様が自分の部屋に寄った。肩掛けを取りに。扉が開いていてわたしは廊下から中を見た。

 机の端に木の小鳥がいた。


 羽を畳んでいて、目のところに小さな穴が二つ。尾の先が少しだけ上を向いている。

 お父さんの鳥だった。


 尾の上げ方で分かる。お父さんは、パンをつつきに来る鳥は尾を上げて跳ねる、と言って、いつも尾の先だけ削り残す。


 息が止まりそうになった。

 でもお父さんはあの鳥をたくさん彫った。店に来る子にあげていた。お祭りの日にも屋台で配っていた。あの鳥を持っている子は下町にいっぱいいる。貴族のお屋敷に誰かのおみやげで行ったのかもしれない。


 胸がどきどきして、パンの生地を叩く時みたいに手のひらが熱くなった。

 もし違ったら。違ったら、わたしはきっと今夜眠れない。


 ヴァレンシュタイン様は肩掛けを持って出てきて、扉を閉めた。わたしは何も聞かなかった。聞けなかった。


*


 ――今日、道を間違えそうになったところを、同じ組の人が助けてくれました。


 お母さんへの手紙にそう書いた。名前を書くかどうか、少し迷った。


 机の引き出しの奥から小さな布の袋を出した。

 中に青いリボンが入っている。輪になったまま。八つの子の手首の大きさで結び目が一つ。輪が二つと、結び目の下にくぐらせた端。あの夜から一度もほどいていない。手首が太くなってきつくなる前に、結んだまま手から抜いて、この袋に入れた。

 ほどいたらもう同じには結べない気がした。


 七年前の夏祭りだった。

 煙の夜で、わたしは石段のいちばん上で、はぐれたお母さんたちを待っていた。そこへ女の子と頭巾をかぶった男の子が来た。男の子はもっと小さい男の子を背中に負ぶっていた。

 女の子は名前を言わなかった。言えない名前なのです、ごめんなさい、と言った。だからわたしも言わなかった。おあいこ。

 女の子は自分の髪のリボンをほどいて、わたしの手首に結んだ。暗いので、うしろからこの手を見て歩きます、と言った。


 あの子の背中は、まっすぐだった。待つ時は立って待ったほうが見つけてもらえます、と言って、自分がお手本みたいに立っていた。わたしは真似して反りすぎた。


 ――お母さん。あの夜の女の子に、いつか会えたらいいなと、今も思っています。


 最後にそう書いた。書いてから恥ずかしくなったけれど、消さなかった。

 灯りを消してもなかなか眠れなかった。


*


 次の朝、部屋を出る前に、布の袋を部屋着の隠しに入れた。今日もし話せたら見せたい。話しかける勇気があるかは分からなかった。

 洗面所はまだ誰もいなかった。


 北の端の部屋の子は洗面所にいちばん近い。それだけは得だ。わたしは鏡の前で髪を編みながら、いつもの歌を口の中で歌っていた。


「ふくらめ、ふくらめ、朝までに」


 毎朝生地をこねながら歌う歌だ。手が覚えているので髪を編む時にも出てくる。

 うしろで扉が開く音がした。足音が一つ、入ってきた。


「かまどの火が、起きるまで」


 小さな声だった。

 鏡の中でヴァレンシュタイン様が手ぬぐいを持って立っていた。自分が続きを歌ったことに自分で驚いた顔をしていた。南の洗面所は朝いちばんに混むから北を使うといい、とヘルミーネ様がきのう教えてくれたのだった。


 編みかけの髪が手からほどけた。あの夜と同じところで、同じ節で、続きが来た。もう、違ったらなんて考えていられなかった。


「あの」


 振り向いた。手がふるえていた。わたしは隠しの袋を出して、口を開けて青いリボンの輪を手のひらに載せた。


 ヴァレンシュタイン様は何も言わなかった。

 リボンを見ていた。結び目を見ていた。長いあいだ見ていた。それから、手が上がって、首のうしろの緑のリボンの結び目に触れた。


「……まだ、ほどけていないのですね」


 講堂のいちばんうしろまで届いた声とは、全然違う声だった。


「ほどいたら、同じに結べない気がして」

「わたくしなら、結べます」

「知ってます。きのう、石段で見てました」


 ヴァレンシュタイン様の目が少し大きくなった。それから伏せられた。


「わたくしも、きのうの朝、もしかしたらと思いました。でも、名前を聞かない約束でしたから」

「名前、知っちゃいましたね。お互いに」

「……おあいこです」


 ヴァレンシュタイン様の口の端が、ほんの少しだけ上がった。

 わたしは笑ってしまった。笑いながら目の奥が熱くなった。


「小鳥は、毎日机の上にいます。羽は一度も欠けていません」

「お父さんに言ったら、喜びます。尾っぽ、上がってたでしょう。あれ、お父さんの癖なんです」

「パンをつつきに来る鳥、ですね」

「覚えてるんですか」

「全部覚えています。九十二歩も」


 わたしは声を出して笑った。洗面所に響いて慌てて口を押さえた。


「わたし、あの時、知らない人に名前を言っちゃいけないって思ってたんです。でも、言えない名前だって言われて、じゃあいいやって」

「あの時、わたくしの名前は、あそこでは重すぎました」

「今は」

「今は、同じ組です」


 ヴァレンシュタイン様は手ぬぐいを両手で握った。


「……あの時の、男の子は」


 わたしが聞くとヴァレンシュタイン様は少し考えてから首を振った。


「あの方のお名前は、あの方のものです。わたくしからは言えません」

「おあいこ、ですね」

「はい」


 それでいいと思った。あの子は小さい子を背負って煙のほうへ探しに行こうとした子だ。どこかで元気にしているならそれでいい。


*


 一の授業へ行く廊下を、わたしたちは並んで歩いた。

 ヴァレンシュタイン様はわたしより少しだけ背が高かった。七年前と同じくらいの差だった。


「あの歌の節を、確かめていただけますか。二番と三番は侍女に教わったのですが、節が合っているか分かりません」

「三番まで知ってるんですか。うちのお客さんでも、三番を知ってる人はめったにいないのに」

「……人に、書いて送ったことがあるのです」


 ヴァレンシュタイン様は前を向いたまま、耳を少し赤くしていた。誰に送ったのかは言わなかった。

 わたしは聞かなかった。聞かなくても、今朝はもう、聞きたいことの半分以上が分かっていた。


 教室の扉の前でヴァレンシュタイン様が言った。


「アーヴェルさん。お昼は、どこで召し上がりますか」

「食堂です。あ、でも、わたし、パンの日を待ってて」

「では、わたくしもパンの日を待ちます」


 何を言われたのか分かるまで一歩かかった。

 分かってから、胸の中で何かが、窯の中の生地みたいにふくらんだ。

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