十五歳のわたくしが知っていること
(エレノア)
寮の部屋は蝋の匂いがした。
床板が飴色に光っていて靴で歩くと少し滑る。冬休みの最初の日と春の学期の前の日の年に二度、寮じゅうの床に蝋を引くのだと寮監の先生が言った。
部屋は家の格の順に南から並んでいる。わたくしの部屋は南の棟の二階の三つ目で、窓が東を向いていた。東向きだと分かっているのに、ミーナは窓を開けて外を見て閉めて、もう一度開けた。ミーナは心配な時、同じことを三回する。
荷を数えると、衣装の箱が四つ、本の箱が三つ、文箱が二つ、帳面の束と、布に包んだ木の小鳥が一つずつで、屋敷を出る時と同じだった。
小鳥は箱から出して机の端に置いた。羽を畳んだまま、目の穴が二つこちらを見ている。七年前の夏から一度も欠けていない。
ミーナは夕方の鐘の前に屋敷へ戻る。侍女を連れてこないと決めたのは、わたくしだ。
ミーナは衣装を棚に掛け終えると、寝台の掛け布の角を三回引っぱった。それから扉のところで振り返った。
「お嬢様。旦那様は、今朝も三回、玄関まで出ていらっしゃいました」
「知っています。二回目は靴を履き替えていました」
「三回目は、何もなさらずにお戻りになりました」
ミーナはそれだけ言って膝を折って出ていった。廊下の板が鳴る音が遠ざかった。
机に寮の届けの紙を広げた。
名前、部屋、持ち込んだ物の数、屋敷からの連絡の宛先。最後の欄に本人の印を押す。わたくしは筆入れの底から小さな印を出した。十二の誕生日に作ってもらった、名の頭の一字の印だ。
蝋を垂らして印を当て、三つ数えてからまっすぐ上へ持ち上げた。印面の左の角が米粒ほど欠けているので、急いで外すと欠けたところに蝋が残って字の縁が崩れる。
十三の冬、詰所へ炭を贈る手紙に押したあと、手を滑らせて書斎の暖炉の縁石に落とした。お父様は作り直そうと言ったけれど、わたくしは断った。司祭様も詰所の方々もこの印の形を知っているし、それに落としたのはわたくしの手だった。押すたびに三つ待つのはそれからの癖だ。
一人になった部屋は屋敷のわたくしの部屋の半分くらいだった。
寝台に腰を下ろして首元に手をやった。服の下で銀の環が肌と同じ温かさになっていた。お部屋の鍵はかけてある。
わたくしはお父様のことをたくさん知っている。知らないことのほうがずっと多いことも、知っている。
お父様は五つの春に変わった。三日熱を出して寝込んで起き上がった朝からだ。
前のお父様のこともわたくしはちゃんと覚えている。前のお父様は、食事の時にわたくしの皿を見なかった。廊下ですれ違うとわたくしは壁のほうへ寄った。声は低くて短くて、ありがとう、とは一度も言わなかった。その頃のわたくしはそれをおかしいと思っていなかった。それがお父様だったからだ。
起き上がった朝から、お父様はわたくしの名前を呼ぶ前に一度だけ息を吸うようになった。ありがとうと言うようになった。考えごとをする時に鼻の付け根で、ない眼鏡を押し上げるようになった。ミーナも知っている。
熱のあとで抜けたことが多い、とお父様は言う。皆それで納得した。わたくしも納得したことにした。
五つの時は、聞けば今のお父様がいなくなってしまう気がした。理屈ではなかった。
十五の今は、そこまでは思わない。お父様にはわたくしに話さない事情がある。それが何なのかを、わたくしは知らない。分かっているのはそこまでだ。
十四の夏の夜に一度だけ、熱のあとで起きてきたのは本当にお父様だったのだろうか、と考えたことがある。考えたまま眠れなくなって、答えは出ないまま朝になった。朝食の席でお父様はりんごを皮ごと齧っていた。それきり、その問いは一度も開けていない。
聞いてはいない。聞こうとすると喉のところで止まる。これはわたくしの弱さだと思う。弱さだと分かったうえでまだ手放していない。
代わりに知っていることを数える。お父様は九つの秋の会議で、言えない理由が一つある、と言った。言えない時は言えないと言う、と約束して、それを守っている。この前は指を四本目で止めた。
扉が叩かれた。強く三回。屋敷では誰もこんな叩き方をしない。
「エレノア! 着いたって聞いたわ!」
鍵を開けるとヘルミーネ様が立っていた。わたくしより頭一つ背が高い。赤みがかった金の髪がくるくると肩で跳ねている。巻いたのではなく、生まれつきの巻き毛だ。
ヘルミーネ様は二年でこの寮の三階にいる。
「お部屋、東向きなのね。いいわ、朝日が入る。わたしの部屋は西だから、夕方しか明るくないの」
「お邪魔ではありませんか」
「邪魔しに来たのはわたしよ」
ヘルミーネ様は机の小鳥と文箱を見て、それからわたくしの頭を見た。
「巻いてないのね」
「一度巻きました。重くて、横が見えにくかったので、やめました。父は、殿下がいらした日の顔をしていましたけれど」
「それは見たかったわ。……わたし、手紙に書いたかしら。上級生はみんな巻くって」
「書いていらっしゃいました」
「ごめんなさい。あれは、わたしの組の三人だけの話よ」
ヘルミーネ様は声を立てて笑った。廊下のどこかで扉が開いてまた閉まった。
七つの茶会のあと、ヘルミーネ様はわたくしの顔を見ると口の中があの味になる、と言った。会えるようになるまでずっと待った。今はヘルミーネ様のほうが先に扉を叩く。
「明日の式が済んだら、寮の案内をしてあげる。湯殿の空いている時刻と、食堂でいちばんおいしいパンの出る日と、寮監の先生が見回りに来ない階段」
「最後のは、要りません」
「要るようになるわよ」
ヘルミーネ様はそれだけ言って廊下を走っていった。走らないでください、と寮監の先生の声がした。
*
夜、机に帳面を開いた。
十二の春に作った費えの帳面だ。三年ぶん練習して欄の取り方は手が覚えている。月、予定、学院の費え、本、手紙の紙と蝋。いちばん右の欄はお父様へのお手紙。
予定の欄に明日の分を書いた。入学式。属性の儀。午後、寮の案内(ヘルミーネ様)。
それから、まだ日付のない予定を帳面のいちばん後ろの頁に書いた。
――友達を作る。一人でもいい。
――殿下へのお手紙。学院の中でも、手紙で書く。
――お父様へのお手紙。月に一度か二度。
――学院の記録の棚。自分の名で申し込む。
四つ目を書いてから少しペンを止めた。
お母様が何を探していたのか。九つの夏からわたくしは自分で知りたいと思っている。学院の生徒は自分の名で閲覧を願い出られる。先生の口利きで借りるのではなく、わたくしの名と印で。
お父様は止めないと思う。止めないでどこかで待っている。だから願い出る時はお父様に手紙で知らせる。それは、二つ目の欄のことではないから。
灯りを消す前に首飾りを外して箱に入れた。鍵をかけて鍵の紐を首に掛けた。
窓の外は暗かった。屋敷の方角は分からない。分からないけれど、たぶん今夜もお父様の書斎の灯りは遅くまで点いている。
明日、知らない人たちに会う。
怖いより、楽しみのほうが少しだけ大きかった。
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