入学式の前夜
娘が髪を巻いてきた。
朝食の席に入ってきたエレノアの淡い銀金の髪が、両耳の脇で三本ずつ縦に固く巻かれて揺れていた。巻きの太さも肩に落ちる角度も、俺はよく知っていた。妹のゲームの立ち絵だ。王太子の隣で扇を広げ、光の乙女を見下ろしていた令嬢の髪だった。
茶碗が受け皿の上で鳴った。
「ミーナに巻いてもらいました。学院の上級生の方々は、こうなさる方が多いそうです」
娘は席に着いて膝に布を広げた。巻いた髪の一本が皿の縁に触れそうになり、ミーナが後ろへ払った。
「……そうか」
「似合いませんか」
「似合わないとは言っていない」
「お顔が、殿下がお見えになった日と同じです」
十五になっても、娘は俺の顔の読み方だけは少しも忘れていない。
巻くなと言う理由は、この家の誰にも言えなかった。画面の中の娘がその髪のまま断罪された、とは言えない。
「お前が好きなら、それでいい」
声が思ったより低く出た。娘はしばらく俺を見て、巻いた髪を一本指でつまんだ。
「わたくしも、あまり好きではありません。重いですし、横が見えにくいです」
「なら、なぜ巻いた」
「一度、試してみたかったのです。試したので、もういいです」
朝食のあと、娘はいつもの緑のリボンで髪を後ろに一つに結んで降りてきた。結び目は相変わらず少し右に傾いていた。
俺は冷めた紅茶を一息に飲んだ。決算の前日に数字が合った時と同じくらい、力が抜けた。
*
入学式まで七日あった。
王立学院は寮に入る。入学式の前の日に荷を運び込む決まりで、娘の部屋の前の廊下には朝から荷が積み上がっていた。
衣装の箱、本の箱、帳面の束。文箱が二つ。一つ目は蓋の紐が擦り切れかけていて、二つ目はまだ新しい。殿下の手紙の箱だ。中身を俺は知らない。重さも量ったことがない。
「お嬢様、文箱は二つともお持ちになりますか」
「二つともです。置いていくと、読み返せませんから」
娘の声は廊下の端から来た。腕に布の包みを抱えていた。包みの端から木の小鳥の尾が少しだけ見えている。
「殿下も学院にいらっしゃる。会えば話せるだろう」
「お手紙とお話は、別のものです」
娘は包みを荷の上に置いた。それから俺に向き直り、足を揃えて両手を前で重ねた。九つの時、会議の間で椅子から下りて立った時と同じ立ち方だった。
「お父様。学院のことで、決めておきたいことがあります」
この子がこう切り出す時は、たいてい先に紙ができている。案の定、娘は袖から畳んだ紙を出した。
「わたくしの学院の暮らしです。お父様にお知らせすることと、お知らせしないことを、分けておきたいのです」
紙には線が二本引いてあり、欄が三つあった。娘の字で欄の頭が書いてある。
お知らせすること。お知らせしないこと。まだ決めていないこと。
「お知らせすることは、危ないことと、体のことです。怪我や病気、物がなくなった時、知らない人に何かを聞かれた時。お知らせしないことは、お手紙と、お友達との話と、誰とお昼を食べたかです」
「誰と食べたかもか」
「はい。それは、わたくしの暮らしですから」
俺は紙を受け取った。
前の会社で、新しく来た部下が最初の面談に職務分掌の表を自分で作ってきたことがある。俺の欄は空いていた。あの時と同じで、空いているほうが正しかった。
「一つ、先に言っておくことがある」
娘の眉が少し上がった。
「冬の初めにガレスに頼んだ。学院で、お前の行き帰りに人をつける」
階段の下でヘルマンの声がした。
「さて、副団長殿がお見えでございます。さて、お連れの方も」
さて、が二回あった。
ガレスは階段を上がってくると、荷の山を見て、俺を見て、笑った。髭に少し白いものが増えたが肩の厚みは変わらない。後ろに、ガレスより頭半分背の高い若者が立っていた。黒い髪を短く刈り、肩幅が扉の枠に届きそうだった。顔立ちは叔父に似ているのに、表情が一つも載っていない。
「よう、お嬢。荷造りか。こいつは甥のカイルだ。学院の二年で、近衛の候補生をやってる」
「カイル・ローウェンであります」
若者は踵を揃えて一礼した。
「公爵閣下のご依頼により、本年度、ヴァレンシュタイン嬢の学院での護衛を務めます。寮と講堂のあいだ、教室を移る時、門の出入りに付きます。授業の中は学院の警備の持ち場で、自分は入りません。女子寮にも入りません。日々の報告は、叔父を通して閣下へ上げます」
報告書を読み上げるような声だった。
娘はカイルを見て、俺を見て、紙を見た。
「報告には、何を書かれるのですか」
「自分が見た、異常の有無であります」
「わたくしが誰とお昼を食べたかは」
「……書けと言われておりません」
娘が俺を見た。俺は紙の一つ目の欄を指で叩いた。
「報告に書くのは、この欄のことだけにする。危ないことと、体のこと。それ以外は書かなくていい」
「承知しました」
カイルは懐から帳面を出して、その場で一行書いた。娘が覗き込んだ。カイルは帳面を娘のほうへ傾けた。隠すつもりはないらしい。
「報告の写しを、わたくしも読めますか」
「閣下のお許しがあれば」
「読んでいい」
俺が言うと、娘は少しだけ笑った。それから紙の三つ目の欄に一行書き足した。カイル様の報告の写し、わたくしも読む。
「それなら、いいです。三歩後ろですか」
「三歩であります」
「では、廊下で角を曲がる時は、先に言ってください。後ろで足音が止まると、振り返ってしまいますから」
「承知しました」
カイルは真顔で頷いた。冗談のつもりは双方になかった。ガレスが俺の横に来て、低い声で言った。
「お嬢に紙を作らせたのか」
「作ってきたんだ」
「お前より手回しがいいな」
*
四日後の夜、娘を書斎に呼んだ。
机の左の書棚の最下段の奥から、布の包みを出した。十五の誕生日に娘の首に掛けた首飾りだ。それからは屋敷の中で毎日着けている。夜はこの棚へ戻すのが決まりだった。
娘は包みを見て、椅子に座り直した。
「寮へ持っていくかどうかを、決めたい。決めるのはお前だ。その前に、分かっていることを全部言う」
俺は指を一本ずつ折った。
「この環は、お母さんの家の印だ。意味の分かる者が見れば、お前があの家の血を引いていると分かる。誰が分かるのかは、分からない。それがいちばん困る」
二本目。
「前の私の記録に、銀の環は外へ出さない、と書いてあった。先生の話では、お母さんも屋敷の外では一度も着けなかった。理由を、お母さんは先生にも言わなかったそうだ」
三本目。
「先生が院で斬られた。狙われたのは先生だった。誰が頼んだのか、先生の何を恐れたのかは、まだ分からない。この環と関わりがあるのかどうかもだ」
四本目を折りかけて、やめた。
「お母さんの里のことを外で尋ねた者は、今のところセバスの帳面に一人もいない。分かっているのは、ここまでだ」
娘は膝の上で手を重ねて聞いていた。
「服の下に入れておけば、見えないのではありませんか」
「見えない時が多い、というだけだ。かがめば鎖が襟から出る。寮の湯殿は皆と一緒だろう。着替えもある。外して置けば、置いた場所を誰かに知られる」
言いながら、どの手も守り切れないと自分で分かった。分かっているから、全部言うしかなかった。
「家に置いていけば、誰にも見られない。それも一つの答えだ」
「お母様は、屋敷の中でだけ着けていらしたのですね」
「そう聞いている」
娘は包みに手を伸ばして、布の上から環の形をなぞった。
「わたくしは、持っていきます」
声は小さくなかった。
理由を聞く前に、娘のほうが言った。
「学院の最初の夜は、知らない部屋で眠ります。その夜に、お母様の肖像と同じものを着けていたいのです。お屋敷に置いておいても、お母様を大事にしていることは変わらないと思います。でも、わたくしは持っていきたいのです」
理屈ではなかった。理屈でないことを、娘は理屈の前に言った。
「だから、気をつけ方を一緒に決めてください。着けるのは、お部屋の鍵をかけている時と、服の下に入れて歩く時だけにします。湯殿と着替えの時は外して、鍵のかかる箱へ入れます」
「箱の鍵は」
「湯殿のあいだは、着替えの籠の底に入れて、籠から目を離しません」
「見られたら、どうする」
「母の形見です、とだけ言います。尋ねた方の名前を覚えて、お父様にお手紙を書きます」
「形見のことを一度聞かれただけなら、手紙でいい。しつこく聞かれた時や、箱がいじられていた時は、その日のうちに寮監とカイルに言え。手紙を待つな」
「はい。その日のうちに」
娘は紙の一つ目の欄に、小さく書き足した。その日のうちに、寮監とカイル様。
「分かった」
俺は包みを娘のほうへ押した。
「怖くなったら、カイルに渡して家へ返せ。それも、お前が決めていい」
「はい」
娘は包みを両手で持って立ち上がった。扉の前で一度振り返った。
「お父様。四本目の指は、何だったのですか」
「……言えないことだ」
「言えない時は、言えないと言う、のお約束ですね」
「そうだ」
娘は頷いて出ていった。扉はきちんと閉まった。
*
寮へ移る前の夜、手帳を開いた。
最初の頁の問いの印は、まだ一つも消えていない。フェルゼン。銀の環。名を汚す手と、命を取る手。宰相は妻の望みを、いつ、何のために聞いたのか。継願。
消えてはいないが、横の書き込みは増えた。継願の二字の並んだ形を、先生は三年かけて大聖堂の文庫の古い字の棚を二巡りして探し、文庫にはないと分かった。残るのは王宮の図書館の奥の棚と、学院の記録の棚だ。王宮のほうは先生の名で願い出て、まだ返事がない。学院の棚には、学院の者の名でなければ入れない。
学院の棚に自分の名で入れるのは、この家では娘だけだ。娘は継願の二字を知らない。教えるかどうかは、まだ決めていない。
新しい頁を開いた。日本語で書く。この屋敷で読めるのは俺だけだ。
――ゲーム本編 学院一年目
覚えていることを順に書いた。入学式の朝、薔薇園で光の乙女と王太子が出会う。教科書が消える。春、二週目か。新入生の茶会に招待状が届かない。制服が汚される。悪い噂。階段。秋の実習で術具が暴れる。
季節は覚えている。何週目かは怪しい。妹が「この辺で教科書隠されるんだよ」と言った時の画面の色は覚えているのに、それが春の何日目だったのかは出てこない。引き継ぎ資料なら差し戻している出来だった。
四本目の指は、この頁のことだった。言えば、なぜ知っているのかを言わなければならない。
最後の行を書いた。
――断罪 学年末の舞踏会
画面の中の娘は十で正式な婚約をしていた。今の娘は九つで内約を選び、十八になったあとで自分の口で決める。その一行は陛下の裁可を受けて家の箱に入っている。
物語の予定表と、陛下の裁可した紙と、どちらが当てになるのか。分からないから、俺はどちらも手元に置いておく。
廊下に出ると、娘の部屋の扉の下からまだ細く灯りが漏れていた。
紙をめくる音がした。叩かずに書斎へ戻った。
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