あと三年
娘が十二になった春だった。
朝、ガレスの部下が玄関で封書を一通差し出した。封には名の頭の一字の小さな印がある。俺は封を裏返して印を見た。見るだけだ。初めての私信の時から、することは変わっていない。
「旦那様。お顔が」
セバスが後ろで言った。
「睨んでいない。印を見ている」
「印は、睨まれても困ると存じます」
階段の上から足音が下りてきた。娘だった。
背が伸びて、足も速くなった。急いでいる朝でも手すりから手を離さない。それでも最後の二段だけは、少しだけ跳ぶ。今朝も跳んだ。
俺は封書を渡した。娘は封の印を見て両手で受け取った。
「ありがとうございます、お父様」
それだけ言って娘は階段を上がっていった。上りは跳ばなかった。
娘の部屋の机の脇には文箱がある。殿下の手紙はそこに入っている。去年の秋に一つ目がいっぱいになって、今は二つ目だとミーナから聞いた。中身を俺は知らない。何通になったのかも知らない。
知りたくないと言えば嘘になる。
「お数えしておりますが」
セバスが言った。
「お聞きになりますか」
「聞かない」
「左様でございますか」
聞けば、その晩は眠れなくなる。多くても少なくても眠れない。
*
昼前、娘が書斎の扉を叩いた。
三回、同じ強さで。手には封をしていない手紙の束と、小さな印を持っていた。
「お父様。ここに、お名前をいただけますか」
娘は束を机に置いていちばん上の紙の終わりを指した。
川沿いの教区の司祭あての手紙だった。教区の子供たちが字を習う石板を二十枚、公爵家から贈る。費えは娘の小遣いの貯えから出す。家の名で出す手紙なので当主の署名が要る。
「二十枚か」
「司祭様に伺ったら、今は三人で一枚を回しているそうです」
「お前の貯えで足りるのか」
「半分は今の貯えで足ります。残りの半分は、夏までに貯めます。春の市でリボンを買うのと、新しいペンをやめにしました。司祭様には、石板は二度に分けて届くと書きました」
「帳面を見せろ」
娘は自分の小遣いの帳面を開いた。今の貯えと、石板の半分の値と、夏までの月ごとの入りが並んでいた。足し算は合っていた。
俺は束の手紙を一通ずつ読んでから、全部に署名した。娘は自分の印を手に取った。十二の誕生日に作らせた、名の頭の一字を彫った小さな印だ。殿下への手紙には今も母の星の印を使い、家の名で出す手紙にはこの名の印を使う。殿下の印と大きさが同じくらいなのは偶然だと娘は言っている。
娘は蝋を垂らして印を押し、きれいに外した。残りの手紙にも同じように押していった。どれも教区や詰所へ物を贈る手紙だった。
「昼は、どうする」
聞いたのは、署名が終わってしまったからだ。
「ヘルミーネ様のお家へ参ります。騎士の頬が、今年はもう咲いたそうです」
「薔薇か」
「はい。七つの時の、近くで見るお約束です。今年はいらっしゃいとお手紙をいただきました。帰りにコルネリア様のお家の前を通るので、ミーナと、竪琴の下の小さい星が見える窓を外から探してみます」
「見えるのか」
「昼は見えません。窓だけです」
娘は手紙の束を揃えて胸に抱えた。
「それから、夕方は殿下へのお返事です。夜は先生の課題です」
俺の入る隙間はどこにもなかった。
前の会社で引き継ぎの終わった部署に顔を出したことがある。新しい課長は丁寧に挨拶をして俺に椅子を勧めなかった。悪い意味ではなかった。勧める必要がなかったのだ。
「気をつけてな」
「はい」
娘は膝を折って出ていった。扉は、きちんと閉まった。
*
夕方、娘はヘルミーネの家から薔薇を一本もらって帰ってきて、玄関で俺に見せた。赤い花びらの縁だけが少し濃い。騎士が恥ずかしいときの色だと、七つの時の茶会でヘルミーネが言った花だ。
夕食のあと娘の部屋の前を通った。扉は少し開いていてミーナが縫い物をしていた。机の水差しに昼の薔薇が挿してあって、娘はその前で手紙を書いていた。机の端には羽を畳んだ木の小鳥が置いてある。祭りの夜にもらったものだ。くれた子の名は、娘も知らない。
声はかけずに通り過ぎた。
*
夜、書斎で手帳を開いた。
内約が決まってから、大きなことは起きていない。
起きていないのは、閉じた入口があるからだ。屋敷に知らない顔は入っていない。セバスの照会で断った志願者のうち二人は、保証人の住まいに誰も住んでいなかった。その二人の書付は調査官が預かっている。院の水門には鎖がかかったままで、ミーナは毎晩、搬入口の帳面を見る。ベンノから口入れ屋、口入れ屋から家令までの金の道は、調書になって王妃の手元にある。
その先は、まだ分からない。
ブラント家の家令は見つかっていない。花の籠の男も、手の甲に灰色の染みのある男たちも捕まっていない。伯爵は今も宮廷にいる。
妻の生前の来客の控えには、宰相府からの客が二度あった。用向きは書いていない。
家の書庫の古い目録には、当主の指輪の内に古い字あり、読みは伝わらず、と一行だけあった。先生は文庫の棚で、継ぐと願うの古い形をいくつか見つけた。二つが並んだ形は、まだどこにもない。残りの字を読むには指輪の内側をすべて見るか、先生よりさらに古い字に通じた者が要る、と先生は言う。
手帳の最初の頁の問いの印は、まだ一つも消えていない。その横に書き足した字が増えただけだ。
頁をめくった。
娘が九つの秋に内約を決めた。十八になったあとの会議の席で、娘と殿下がそれぞれ自分の口で言う。画面の中の娘は十で正式な婚約をして、それを解くために罪を探された。
今の娘は十二で、教区の石板の数を数えて、薔薇を見に出かけて、俺の入る隙間のない一日を自分で組んでいる。
あと三年で、娘は王立学院へ入る。
俺の覚えている物語は、そこから始まる。入学式、光の乙女と呼ばれる少女、上級生の取り巻き、階段、学年末の舞踏会。どの場面も覚えている。覚えている場面のどれにも石板も騎士の頬も出てこなかった。
俺の知っている物語が、どこまで当てになるのかは分からない。分からないから、三年のうちに分かることを集める。
手帳を閉じて、灯りを持って廊下へ出た。
娘の部屋の扉の下からまだ細く灯りが漏れていた。ミーナはもう下がったらしい。
叩こうとして、手を止めた。扉の向こうで紙をめくる音がした。
「お父様ですか」
中から声がした。
「足音で分かります。どうぞ」
扉を開けると娘は机に新しい帳面を広げていた。表紙にはまだ何も書いていない。中の頁には縦に線が引いてあって、欄の頭に娘の字が並んでいた。
月。予定。学院の費え。本。手紙の紙と蝋。石板のための貯え。
「学院の寮では、予定も費えも自分でつけるそうです。三年あるので、今から練習しています」
「入学の三年前から練習するのか」
「今日からです。お父様の帳簿の書き方を、見て覚えました。合っていますか」
俺は帳面を覗いた。欄の取り方は俺がセバスと作った屋敷の帳簿の形と同じだった。一つだけ違っていちばん右の欄が空いていた。欄の頭にだけ字がある。
お父様へのお手紙。
「それは」
「寮から書きます。何を書くかは、まだ決めていません」
娘は帳面を閉じた。
「月に一度か二度です。殿下のほうが多いと思います」
「……そうか」
それ以上は言えなかった。言うと声が変わりそうだった。
娘は帳面を机の端に置いて、木の小鳥の隣に並べた。それからペンを取って書きかけの手紙の続きに戻った。
「おやすみなさい、お父様」
「ああ。おやすみ」
扉を閉めた。
廊下の窓の東の低いところに竪琴の星が戻ってきていた。娘に教わった星だ。俺はしばらくそれを見てから書斎へ戻った。
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