継ぐ、願う
廊下へ出たところで、後ろから声がかかった。
「閣下」
柱に当たっても響かない、低くて整った声だった。振り向くと宰相が柱の脇に立っていた。
「少しだけ、閣下をお借りしてもよろしいですかな」
宰相の目は俺に向いていた。娘のほうへは向かなかった。
ガレスが俺の顔を見た。俺がうなずくとガレスは娘の半歩前に立って階段のほうへ歩き出した。娘は袖から指を放して一度だけ振り向き、それからガレスについていった。
宰相は回廊をゆっくり歩いた。俺も並んだ。
「延期の案は、通りませんでした」
「……そうだな」
「令嬢の案のほうが、良い案でした。私の案は時を稼ぐだけの案です。令嬢の案は、稼いだ時に何をするかまで決めてある。陛下がお笑いになるのも無理はない」
自分の案が通らなかった会議のあとで、勝った案を誰より先に褒めに来る部長が前の会社にいた。褒め方がうまいので部長が負けたことを誰も覚えていなかった。宰相の声はその部長に似ていた。似ているのにどこが違うのかは分からなかった。
庭に面した窓の前で宰相は足を止めた。秋の光が石の床に長く落ちていた。
「閣下は、言えない理由で反対しておられた」
俺は黙っていた。
「聞きはしません」
宰相は窓の外を見たまま言った。声の調子は少しも変わらなかった。
「――秘密には、守る価値があるものですから」
宰相は俺のほうへ向き直って浅く頭を下げた。責めているのでも、探っているのでもない顔だった。年長の者が、年下の者の荷物を見て見ぬふりをする時の顔に見えた。
俺はそう受け取った。受け取ったのに、胸のどこかが静かにならなかった。
「……恐れ入る」
宰相は回廊の端で待っていた秘書官と並んで、宰相府の扉の向こうへ入っていった。
四年前の夏、同じ回廊で、この人は妻の考えを口にした。ご令嬢を王家には近づけたくない、と生前に伺ったことがございます、と。
あの時の俺は渡りに船だと思っただけだった。セバスは、奥様がそのようなことを話したのは伺っていない、と言った。
今は知っている。妻は娘が二つにならない冬に、前の持ち主にそれを頼んだ。その場にいたと聞いているのは、先生だけだ。俺が今日言えないと言った理由は、それだ。
妻が宰相にも同じことを話していたのなら、それだけのことだ。ただ、妻がいつ、何のために宰相にそれを話したのかを、俺は知らない。同じ願いのほかに何を話したのかも。
*
馬車に乗る前に、ガレスが上着の胸から封書を出した。
「坊主からだ。会議が終わったら渡してくれと、朝のうちに頼まれた。どう決まっていてもだとよ」
封には名の頭の一字の小さな印があった。宛名の下に、会議のあとで、と小さく書いてあった。
俺は封を裏返して印だけ見た。馬車に乗ってから、向かいの席の娘に渡した。
娘は封を切って読み、もう一度読んだ。それから便箋を膝の上で畳んだ。
「白い鳥の首は、ゆうべ、半分まで見えたそうです」
「そうか」
「わたくしは見られませんでした。早く寝なさいと言われたので」
言ったのは俺だ。娘は窓の外を見て少しだけ口をとがらせた。手紙のほかのところに何が書いてあったのかは言わなかった。俺も聞かなかった。
*
三日後、宰相府の書記が写した内約の文書が二通、屋敷に届いた。
二通とも当主が署名して印を捺し、一通を王宮へ返して、一通を家に置く。陛下の裁可の一行はもう二通とも入っていた。
書斎の机に二通を並べ、先生に読み合わせを頼んだ。先生は杖を椅子の脇に立てかけ、写字の時に使う丸い読み石を紙の上に置いた。会議で娘が読み、陛下に出した最後の案と、書記の写しを一行ずつ見比べていく。セバスが燭台を一つ近くに寄せた。
「一字も違いません」
先生は最後の行まで見てから言った。
「書記どのは、よい手をしておられる。父の分、と書き添えた一行まで写してございます」
俺は二通に署名した。セバスが蝋を垂らし、俺は右手の指輪を押し当てた。
印面を持ち上げると蝋の縁が少し指輪の側面に残った。指輪を指の節のほうへずらして布で拭った。
「旦那様」
先生が読み石から顔を上げていた。
「お手を、少しそのままに」
先生は読み石を持ったまま身を乗り出した。俺の指と、節までずれた指輪のあいだを覗いていた。
「指輪の内側に、何か彫ってございますな」
「内側に」
「縁のところに、字が二つ見えます」
俺は指輪を抜こうとした。節で止まった。目を覚ましてから五年近く、一度も外したことがない。押し上げても回してもそれ以上は進まなかった。
「無理になさいますな。見える分だけで結構でございます」
先生は読み石を指輪の縁に寄せて、しばらく黙っていた。燭台の灯が読み石の中で丸く揺れた。
「古い字です。大聖堂の文庫の、古い記録の棚で見る字でございます」
先生は読み石を下ろした。
「一つ目は、継ぐ。二つ目は、願う。二つ続けて読むなら、継願。けれど、そういう言葉を、わしは見たことがございません。続きもあるようですが、指の陰になっておりますし、すり減ってもおります」
継ぐ。願う。
口の中で繰り返してみた。一つずつなら分かる。二つ並べて何を指すのかが分からなかった。
「お家に伝わる指輪でございますか」
「代々のご当主様が、はめておられたものでございます」
セバスが答えた。
「前の私は、これを外したことがあったか」
「……私の見ております前では、一度も」
答えはいつもの声だった。答えるまでにいつもより少しだけ間があった。
「写しをお取りになるなら、外していただくことになります。石鹸と、少しの辛抱が要りましょう」
先生は言った。俺は指輪を見下ろした。
外せば、先生は残りの字を読む。読めば、たぶん尋ねる。代々のご当主様には、この字が何と伝わっておりますか、と。この家の当主なら知っていていいことを、俺は何も知らない。熱で記憶が抜けたと言ってきた五年近くを、指輪の内側の字にまで広げるのは無理があった。
「今日は、いい」
俺は指輪を指の付け根まで戻した。
「見えた二字を写しておいてくれ。家の書庫は、私とセバスで当たる。指輪のことを書いた古い帳面があるかもしれない」
「承知いたしました」
先生は自分の手控えに二つの字を写し、読み石を布に包んだ。それから写しの一通を俺のほうへ押し戻した。
「わしは文庫の古い字の棚で、同じ形を探してみましょう。字の形が分かれば、どの頃の言葉かは見当がつきます」
*
夜、書斎で手帳を開いた。
最初の頁には問いの印が並んでいる。フェルゼン。銀の環。名を汚す手と、命を取る手。同じ誰かか。
その下に一行書いた。
宰相は、妻の望みを知っていた。妻はいつ、何のために話したのか。ほかに何を話したのか。
問いの印を一つ付けた。横に、セバスに妻の生前の来客の控えを出させる、と書き足した。その下にもう一行書いた。
継願。家の書庫。文庫の古い字の棚(先生)。
横に問いの印をもう一つ付けた。
燭台を引き寄せて右手を灯りにかざした。指輪は付け根に戻っていて内側はもう見えない。
秘密には守る価値がある、と宰相は言った。俺にも言えない理由がある。言えない理由のさらに奥に、誰にも言っていないことがある。この指輪も、何かを内側に抱えたまま、俺の指にはまっている。
誰が、何を継いだのか。誰が、何を願ったのか。
答えはどこからも来なかった。
手帳を閉じる前にもう一度最初の頁を見た。問いの印の数は春より二つ増えていた。
俺は灯りを消した。指輪の重さはいつもと同じだった。
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