反対の理由を十個
「旦那様。もう私に聞かずにお決めになって結構です」
秋の初めの朝だった。セバスは書斎の机の決裁の束を揃えながら、いつもと同じ声で言った。
北の領地の水車小屋を建て直すか、修理で済ませるか。東の村の麦の納めを一月待つか。南の橋の普請に、どこの石屋を使うか。俺は三つとも帳簿と村の報告を見比べて決めた。決めてから念のためにセバスの顔を見ると、セバスは三つとも黙ってうなずいた。
それでさっきの一言が来た。
「……いいのか」
「この半年、旦那様のお決めになったことに私が口を挟んだのは二度だけでございます。二度とも、私の見込みのほうが外れました」
入社三年目に、課長から、もう俺の判子はいらないと言われた日がある。嬉しかったのは一日だけだった。次の日から、判子のない書類の重さが分かった。
「その代わり」
セバスは決裁の束を脇に置いて別の紙を机の真ん中に置いた。ゆうべ俺が書いた紙だった。
「こちらは、まだお決めになれておりません」
紙のいちばん上にはこう書いてある。
御前会議で述べる、正式な婚約に反対する理由。
十個あった。夜中までかかって書いた。
「一つ目。九つでは、本人が中身を分からないまま決まる」
セバスが読み上げた。
「二つ目。正式な婚約は、一方からは解けない。解くには、相手の罪が要る。三つ目。娘はこの家のただ一人の跡取りだ。王太子妃になれば、家の継ぎ方を別に手当てしなければならない。四つ目。お嬢様の毎日が、王宮の予定で決まるようになる」
セバスはそこで一度、目を上げた。
「ここまでは、陛下の前で申し上げられます。二つ目は、特に」
二つ目を書いた時、俺の頭にあったのは、七年後の大広間だった。正式な婚約を解くために誰かが娘の罪を探す。見つからなければ作る。それは今の十一の少年の罪ではない。正式な婚約という形が、解きたい者にそうさせる。だから紙に書いたのは法のことだけだ。法のことなら誰の前でも言える。
「五つ目。春に、娘の先生が斬られた。王家のそばに置けば、守る手は増えるが、見る目も増える」
「これも、申し上げられます。先生のお名を出さなければ」
「六つ目」
セバスの声が少しだけ平らになった。
「殿下のお手紙が届く日は、お嬢様が朝から玄関の見える窓辺におられる」
俺は窓のほうを見た。
「それは、旦那様が窓辺にお呼ばれにならないというお話でございます。七つ目。殿下は、お嬢様より星の名を一つ多くご存じである」
「……一つではない。三つだ。娘が数えていた」
「お嬢様がお聞きになれば、明日には四つ多くお覚えになります」
「消す」
ペンを取って六つ目と七つ目に線を引いた。書いた時には理由のつもりだった。読み上げられると、どちらも殿下の何かではなく、俺の何かだった。
「八つ目。王妃殿下が、娘を量っている」
「量るのが、王妃殿下のお務めでございます」
それにも線を引いた。
「九つ目」
セバスはそこで読むのをやめた。九つ目には一行だけ書いてあった。妻が、近づけないでと頼んだ。
「これは、会議の席では申し上げられません」
「分かっている。言えない理由として、言えないと言う。王妃殿下との取り決めだ」
セバスはうなずいて十個目に目を落とした。
十個目には、屋敷が静かになる、と書いてあった。
セバスは何も言わなかった。読み上げもしなかった。紙を俺のほうへそっと押し戻した。
「……これは、理由じゃないな」
「理由ではございません。旦那様のお気持ちでございます」
セバスは言った。
「お気持ちは、本物でございましょう。ですが、会議の席でも、お嬢様の前でも、お出しにならないほうがよろしいかと」
「娘の前でも、か」
「お嬢様はお優しい方です。お父様が寂しいと聞けば、ご自分の望みのほうを引っ込めておしまいになります」
俺は十個目に線を引いた。
引きながら、思った。娘が十八になれば、どのみちこの屋敷は静かになる。王家へ行っても、行かなくても。寂しいのは俺の都合で、娘が背負う荷物ではない。
残ったのは五つと、言えない一つだった。
*
午後、娘を書斎に呼んだ。
娘は調査帳を抱えて入ってきた。座れと言うと、椅子に座って、足を横木に揃えて載せた。
線を引いた紙は裏返してあった。残った理由だけを、新しい紙に書き直してあった。
「反対だ」
先に言った。約束していたことだ。
「秋の会議で、正式な婚約が諮られる。私は、今、正式な婚約を結ぶことに反対する。理由を言う」
娘は背筋を伸ばした。
一つずつ言った。九つでは中身を分からないまま決まること。一方からは解けず、解くには罪が要ること。家の跡のこと。王宮の予定のこと。先生のこと。
娘は一つ聞くたびに調査帳に何か書いた。二つ目のところでペンが止まった。
「罪が要るのですか」
「正式な婚約を、片方の家が解きたいと思ったら、相手の家か本人の罪を言い立てるしかない。それが法だ」
「わたくしが何もしていなくても、ですか」
「何もしていなければ、解けない。解きたい者は、何かを探す」
娘は少し考えてから調査帳に一行足した。何を書いたのかは見なかった。
「それから、言えない理由が一つある」
娘が顔を上げた。
「会議では、言えないと言う。だが、お前には言える。先生の話の中にあった。お母上の頼みだ」
娘はしばらく俺を見ていた。
「お父様は、お母様のお願いを守るために、反対するのですか」
「それだけじゃない。それだけなら、紙には一行しか書いていない」
俺は残りの五つを指で叩いた。
「お母上の頼みがなくても、この五つで反対する。お母上の頼みは、私がこの五つを軽く見ないための重しだ」
娘は少し黙ってから、うなずいた。
「今度は、お前の番だ。夏に、庭で聞いた。もっと学んでから決めたいと。ほかにもあるなら、全部言え」
娘は調査帳の頁をめくった。夏から書きためていたらしい頁だった。
「殿下へのお手紙は、続けたいです」
「続けていい。私は読まない」
「勉強会も、続けたいです。コルネリア様とヘルミーネ様のことを、もっと知りたいです」
「それも、いい」
「先生の授業も」
「それは、先生が決める」
娘は少し笑った。それからまた真面目な顔に戻った。
「それから。会議に、わたくしも出たいです」
書斎が静かになった。
だめだ、と口の中まで出かかった。九つの子の座る場所ではない。ブラントも来る。王も、大司教も、諸侯もいる。
出かかった言葉を、俺は口の中で止めた。
春の夜、寝室で娘と決めたことがある。してはいけないことは、理由と一緒に言う。だめだと言うなら、何がだめなのかを先に言わなければならない。
「出たい理由は」
「わたくしのことが話されるからです。四つの時は、決まってから知りました。今度は、決まる時にそこにいたいです」
娘は調査帳を閉じた。
「わたくしが出るのが危ないなら、何が危ないのかを教えてください。それで、だめなら、だめでいいです」
「ブラント伯爵が来る。茶会のことを、お前の前で言うかもしれない。大人ばかりの席で、子供の言うことは笑われることもある。言い返せば、言い返したことが話の種になる」
娘は膝の上で手を重ねた。
「それでも、出たいです。笑われても、わたくしが言ったことは、わたくしが言ったことのままです」
俺は紙を一枚出して真ん中に縦の線を一本引いた。
左に、譲れない、と書いた。右に、話せる、と書いた。
「譲れないことから言う」
左に書いた。
今、正式な婚約を結ぶこと。これには反対する。
外へ出る時の護衛。お母上の家の名を、外で言わないこと。
「これは、お前が何と言っても変えない。理由はさっき言った」
右に書いた。
殿下への手紙。勉強会。先生の授業。
会議に出ること。
「会議に出ることは、話せる。私が決めることではない。王妃殿下に願い出る。願い出る手紙は、今ここで書く。お前の前で」
娘の目が少し大きくなった。
「ただし、条件がある。会議では、私が先に私の反対を言う。それは私の口で言う。お前は、お前の言葉で言う。私が代わりに言うことはしない。お前の言葉も、私は書かない」
「はい」
「それから」
俺は右の欄の下を指で叩いた。何も書いていない所だった。
「反対するのは、今、正式に結ぶことだ。殿下と縁を切れとは言っていない。正式な婚約でなければ何がいいのか、私にはまだ案がない。ここが空いている」
娘は空いている所を、長いあいだ見ていた。
「お父様。そこは、わたくしが考えてもいいですか」
「考えていい。考えたら、持ってこい。皆で見る」
娘は紙を自分のほうへ少し引き寄せた。それから調査帳を開いて、空いている欄の形を写した。
「会議までに、わたくしの議題を持ってきます」
王妃殿下への手紙はその場で書いた。娘は書き終わるまで、椅子の上で背筋を伸ばして待っていた。封をする前に娘に読ませた。娘は最後まで読んで、一か所だけ指さした。
「わたくしの名前の前の、娘が、のところ。エレノアが、にしてください」
俺は書き直した。
夜になって、線を引いた紙をもう一度表に返した。十個目の線の下に、まだ字が透けて見えた。
屋敷が静かになる。
俺はその紙を畳んで、引き出しのいちばん奥にしまった。
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。
Xでも更新情報などを発信しています。
よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!
https://x.com/st_shosetsu




