母の望みと、わたくしの望み
(エレノア)
殿下からのお手紙は先生のお話の三日後に届きました。
――厩舎でパンの歌の二番を歌っていたら、ガレス殿に聞かれました。
――ガレス殿は、三番があると言います。けれど三番の言葉は覚えていないそうです。知らないなら俺が作ってやると言うので、お断りしました。
わたくしは笑いました。笑ってから、三番があるとは知らなかったことに気づきました。
二番は秋のお手紙に書きました。ミーナに教わったとおりに書きました。ミーナは三番のことは何も言っていませんでした。
*
朝のうちに庭の畝へ行きました。
薄荷の畝は夏になると草が先に伸びます。ミーナと二人で草を抜きました。わたくしは手袋をして、ミーナは手袋をしないで抜きます。ミーナのほうが速いです。
「ミーナ。パンの歌に、三番はありますか」
ミーナの手が止まりました。
「……ございます。村でも、歌う人はあまりいませんでしたけど」
ミーナは草を抜きながら小さな声で歌いました。
――となりの子がいなけりゃ、とっておけ。
――あしたの朝に、来る子のぶん。
「どうして、前に教えてくれなかったのですか」
「二番で終わるほうが、明るいですから」
ミーナはそう言ってまた草を抜きました。
わたくしは、来る子のぶん、と口の中で言いました。焼けたパンを半分、まだ来ない誰かに取っておく歌です。暗い歌だとは思いませんでした。
草を一本抜きました。根が長くて途中で切れました。
抜きながら、この三晩のことを考えていました。先生のお話を聞いてから、わたくしは毎晩、調査帳の同じ頁を開いていました。
お母様は、わたくしを王家に近づけないでと頼みました。お母様が亡くなった次の年に、前のお父様はわたくしの名前を王家の候補にしました。
お母様のお願いのとおりにするのがいいと、一晩目は思いました。二晩目には、それでは今度はお母様が決めることになると思いました。お母様はもういないのに。三晩目は、何も書けませんでした。
顔を上げると、畝の端でお父様が草を抜いていました。
いつ来たのか分かりませんでした。上着を脱いで袖をまくっていました。セバスが見たら困った顔をすると思います。
お父様も、薄荷の葉ならもう間違えません。前に一度、紐のついた薄荷を抜いてから覚えたのです。
お父様が抜いたのは、まだ葉の開いていない薄荷の芽でした。
「お父様。それは薄荷です」
お父様は手の中の芽を見ました。それから何も言わずに土に戻しました。指で土を押さえていました。根はもう切れていたと思います。
「……芽のうちは、どこで見分ける」
「茎が四角いです。それから、こすると匂いがします」
お父様は隣の芽の茎を指でつまんで、角を確かめました。それから、うなずきました。
わたくしはお父様の隣にしゃがみました。ミーナは少し離れた畝へ移っていきました。
「お父様。先生のお話のあと、ずっと考えていました」
「ああ」
「お母様のお願いは、受け取ります。わたくしを守りたかったのだと思います」
お父様は草を抜く手を止めませんでした。止めないで聞いていました。
「でも、お母様と同じにしますとは、まだ言えません」
言ってから胸がどきどきしました。お母様のお願いを、断ったような気がしたからです。
お父様は手を止めてわたくしを見ました。
「なぜだ」
「お母様が何を知っていて、何が怖かったのか、わたくしはまだ知りません。先生も、全部は申せないと言いました。知らないまま同じにしたら、わたくしが決めたことになりません」
わたくしは手袋の土を払いました。
「それに、殿下のことも、まだ知りません。お手紙の殿下と、勉強会のことと、お祭りの夜の殿下しか知りません。王家のことも、王妃様のお部屋と、勉強会の広間しか知りません」
「それで、どうしたい」
「もっと学んでから、決めたいです」
お父様は少しのあいだ黙っていました。
「お母様のことが好きなのに、お母様のお願いのとおりにしないのは、悪いことでしょうか」
これは、三晩目に書けなかったことでした。
お父様はすぐには答えませんでした。土のついた手を膝に置いて薄荷の畝を見ていました。
「好きなことと、言われたとおりにすることは、別だ」
お父様は言いました。
「お前が先生に何を知りたいか聞かれて、知りたい順に並べたのを見ていた。お母上のお願いを、お前は覚えている。覚えたうえで、知りたいと言っている。それは、お願いを捨てることじゃない」
わたくしはお父様の手を見ました。左手の指に土が入っていました。
「お父様は、反対ですか」
「秋までに、反対の理由をまとめる。まとめてから、先に言う。約束した」
「はい」
「まとめた理由が、お前の知りたいことの答えになるとは限らない。それでも聞くか」
「聞きます。聞いてから、わたくしの考えを言います」
お父様は、ああ、と言いました。それから立ち上がって膝の土を払いました。払っても、あまり落ちませんでした。
*
午後、殿下へのお返事を書きました。
――パンの歌の三番です。ミーナに教わりました。
――となりの子がいなけりゃ、とっておけ。あしたの朝に、来る子のぶん。
――ガレス様のお作りになる四番も、少し聞いてみたいです。
――庭の薄荷の畝で、父が薄荷の芽を抜きました。葉なら父も分かるのですが、芽は分からなかったそうです。薄荷の茎は四角いです。殿下はご存じでしたか。
――春に、わたくしの先生が怪我をしました。今は元気です。笑うとお腹が痛いそうです。
先生のことをどこまで書いていいのか、お父様に聞きに行きました。お父様は便箋を見ないで、怪我をした、今は元気だ、までならいい、と言いました。先生のお名前とどこで怪我をしたのかは書きませんでした。
お母様のお家のことは書きませんでした。殿下に話したくないのではありません。お屋敷の外で言ってはいけない名前だからです。
書けないことがあると、お手紙は少しだけ軽くなります。それでも、書けることのほうがずっと多かったです。
*
夕方、お母様のお部屋に一人で入りました。
ミーナは扉の外で待っていてくれました。肖像のお母様は笑い出す少し前の口をしていました。
わたくしは肖像の前に立って息を一つ吸いました。笑う前に息を一つ吸う方だったと、先生が書いていたからです。
「お母様。お願いは、覚えておきます」
お母様は何も言いませんでした。
「でも、決めるのは、わたくしが知ってからにします。お母様が知っていたことを、わたくしも知ってから」
窓から薄荷の匂いが少しだけ入ってきました。お父様が畝から、まだ何か抜いているのかもしれません。
わたくしはお母様にお辞儀をして、扉のほうへ戻りました。扉のところでもう一度だけ振り返りました。
「お母様のことは、好きです。それは、決めなくてもいいことです」
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