誓守の娘
(エレノア)
夏になって先生は杖をついて歩けるようになりました。
先生のお部屋は東の棟の、露台の隣です。廊下の両端に騎士が二人ずつ立っています。授業は書庫ではなく先生のお部屋でするようになりました。扉は前と同じに開けておいてミーナが扉のそばで縫い物をします。
先生は笑うとお腹が痛いので、わたくしは先生を笑わせないように気をつけています。それでも先生は自分で何か言って、自分で笑って、自分で顔をしかめます。
その日の朝お父様が言いました。
「午後、先生がお母様の部屋で話をしてくださる。私も一緒にいる」
わたくしは朝ごはんのパンを置きました。
三つ目の問いのことだとすぐに分かりました。夏までに、お父上とご一緒の時に。先生は、冬にいらした日にそう言いました。
*
お母様のお部屋の窓は開けてありました。乾いた草の匂いがしました。
先生は肖像の前の椅子に座っていました。お父様は窓のそばに立っていて手に小さな布の包みを持っていました。ミーナは扉の外にいました。
わたくしはお母様の肘掛け椅子に座りました。足は、去年より少し床に近くなっていました。まだ届きませんでした。
調査帳は膝に置いたまま、開きませんでした。
「お嬢様。今日は、三つのことをお話しします」
先生は言いました。
「お母様のお家のこと。お母様の調べておられたこと。それから、三つ目のお問いに、わしが確かめられたところまで」
お父様が包みを開いて先生の膝の上に置きました。
お母様の首飾りでした。
「お母様のお里は、フェルゼンと申します」
先生は銀の環を指先で持ち上げました。
「この国の王様は、冠をお受けになる日に、大聖堂の地下で建国の誓いを継がれます。王冠の内側に、これと同じような銀の環がありましてな。王様がそこに手を置いて誓い、その誓いに立ち会う者が環に触れる。立ち会うのは昔から、フェルゼンの血を引く者の役目でした。誓いを守る家、誓守と申します」
「せいしゅ」
「誓いを、守る」
先生は空中に指で字を書きました。わたくしは頭の中でその字をなぞりました。
「この環は、その家の印です。お母様のお父上の代で、家の跡は絶えました。お母様が最後のお一人でした」
先生はわたくしを見ました。
「今、フェルゼンの血を引いておられるのは、お嬢様お一人です」
お部屋がとても静かになりました。窓の外で庭師が鋏を使う音がしていました。
わたくし一人。
それが何を意味するのか、まだ分かりませんでした。分からないのに、背中のどこかが冷たくなりました。
「お屋敷の外で、フェルゼンという名をお口になさらないでください。誓守という言葉もです。首飾りがお屋敷の外へ出ないのも、同じわけでございます」
わたくしはお父様を見ました。
首飾りを鍵のかかる所に置いていたのは、お父様です。家の外へは出さないと言ったのも、お父様です。外で護衛が二人になったのも、先生が北へ行ったのも、先生がお屋敷に泊まらなかったのも。
全部、わたくしのまわりで決まっていました。わたくしだけが、わけを知りませんでした。
「……わたくしのことなのに」
声が思ったより小さく出ました。
「わたくしのことなのに、わたくしだけが、知りませんでした」
お父様は窓のそばから動きませんでした。
「そうだ。知らないほうが安全だと、先生も、前の私も考えた。私もそう考えて、今日まで言わなかった」
お父様はそこで少し間を置きました。
「先生が院で斬られて、考えを変えた。お前が自分で気をつけるには、何に気をつけるのかを知らなければならない」
先生は首飾りを膝の上の布に戻しました。
「お母様は、お父上を看取られた時に、あることをお聞きになりました。それから大聖堂の文庫に通われて、わしもお手伝いをいたしました。お母様が探しておられたのは、誓いが一度、結び直された時のことです。北の院の年代記に一行ございました。建国から百年余りのころ、疫病で王様の血が絶えかけた年に、一度だけ誓いが結び直された。どうやって結び直したのかは、どこにも書いてございません」
「お母様は、何をお聞きになったのですか」
「それは、わしは存じております。けれど、今は申せません」
わたくしは膝の上で調査帳の角を握りました。
「どうしてですか」
「院へ来た者たちは、わしが何を知っているかを確かめに来たのだと、わしは思うております。思うだけでございますが」
先生はわたくしの目を見ました。
「お嬢様がそれをご存じだと知られれば、次に確かめに来られるのは、お嬢様です。九つのお子は、勉強会でも、お手紙でも、思わず口になさることがある。それに、わしの知っておるのは、お母様が聞かれた言葉だけで、まだ文書で確かめておりません。確かめていない言葉で、お嬢様を動かしたくない」
お父様が窓のそばから言いました。
「私にも言えないのか」
「旦那様にも、文書が出るまでは。聞いた言葉だけで動かれれば、旦那様は確かめに行かれます。確かめに行く者は、見られます」
お父様はしばらく黙っていました。
「文書が出たら、その日のうちに私と娘に話してくれ。それから、先生が一人で確かめに行くこともしないでくれ。院の二の舞はごめんだ」
「承知いたしました」
「娘は、それまで何をしてはいけない」
先生はわたくしのほうへ向き直りました。
「お屋敷の外で、お母様のお家の名を言わないこと。大聖堂の文庫へ行かないこと。お母様のお家のことを人に尋ねないこと。お手紙にも書かないこと。誰かにお母様のお里を聞かれたら、その者の名を覚えて、お父上に言うこと」
わたくしは調査帳を開いて、一つずつ書きました。書いているうちに、少しだけ手が落ち着きました。
「お母様が何を見つけられたのかは、わしも存じません。それを今、文庫で探しております」
先生はそこで一度、息を整えました。それから声を少し低くしました。
「三つ目のお問いです。お母様は、亡くなられる前の数か月でお弱りになりました。お医者様は、病だと申しました。わしはそれを確かめる術を持ちません。確かめたのは、文庫の帳面でございます」
先生は懐から紙を一枚出しました。帳面の写しでした。お母様の名前が何行も並んでいました。
「お母様のお名は、初めはこういう字でした」
細い字が速く走っていました。わたくしの知らない、お母様の字でした。一画の終わりごとに、小さなインクの溜まりがありました。
わたくしの字にも、同じ所に溜まりがあります。
写しの終わりのほうで字は短く切れ、最後の何行かは、北から来たお手紙と同じ右へ傾いた字になっていました。
「亡くなられる前の三か月は、わしが書きました。お手が利かなくなっておられた。それでも文庫へ行くと仰せで、名だけはわしが代わりに。確かめたのは、ここまでです。お母様が最後まで文庫へ通われたこと。お手が利かなくなっても、やめられなかったこと。思うことは、ほかにもございます。けれど思うことと確かめたことは分けてお話しすると、北で申しました」
わたくしは写しを両手で持っていました。
確かなお答えではありませんでした。それでも、お手紙に書いてあった「確かなお答えがございません」より、少しだけお母様に近くなりました。
お父様を見るとお父様は右手で左の手首を握っていました。窓の外を見ていました。
「もう一つ、申し上げねばならぬことがございます」
先生はお父様のほうを一度見ました。お父様がうなずきました。
「お母様がお父上を看取られて、まもない冬でした。お嬢様はまだ二つにもならず、お母様の膝の上におられた。お母様は、旦那様にお頼みになりました。わしはその場におりました」
先生は息を一つ吸いました。
「この子を、王家へ近づけないで、と」
わたくしは膝の上の手を握って、握ったことに気づいて、ほどきました。
「……なぜですか」
「理由は、わしの前では仰せになりませんでした。わしの存じておることと関わりがあるのかもしれません。それも、申せません」
わたくしはお父様を見ました。
お父様はその場にいたのです。お父様の顔は、何かを初めて聞いた人の顔に見えました。でも、そんなはずはありませんでした。わたくしはそれ以上、お父様の顔を見ていられませんでした。
「お母様が亡くなられた翌年、旦那様はお嬢様のお名を、王太子妃の候補に挙げられました」
それは知っています。四つの時です。
「王家に入れれば王家が守る、とお考えになったのだと思います。お母様を亡くされて、守る手が自分の手だけでは足りないと思われた」
「お母様との約束を、破ったのですか」
わたくしは先生ではなく、お父様に聞きました。
「破った」
お父様は言いました。
「前の私が、破った」
しばらく、誰も話しませんでした。
先生が杖を膝の前に立て直しました。
「お嬢様。今日、わしがお話しできるのはここまでです。ここから先は、お嬢様にお聞きしたい。何を、お知りになりたいですか」
わたくしは調査帳の新しい頁を開きました。
何を知りたいのか。
たくさんありました。たくさんあって、どれから書けばいいのか分かりませんでした。わたくしは一つずつ、思いついた順ではなく、知りたい順に並べることにしました。
「一つ目。お母様が、王家に近づけないでと言ったわけ」
「わしにもすべては分かりません。分かったことがあれば、お話しします」
「二つ目。わたくしが、その環に触れたら、どうなるのか」
「それも、文書で確かめるまでは申せません。申せない、とお書きください」
わたくしは、申せない、と書きました。
「三つ目。先生が院で斬られたのは、わたくしのせいですか」
先生はすぐには答えませんでした。
「わしが狙われたのは、わしがお母様の棚を読んでいるからだと思います。思うだけで、確かめてはおりません。お嬢様のせいではございません」
わたくしは、思うだけ、と書きました。お嬢様のせいではない、とは書けませんでした。それは先生の思うことだったからです。
「先生が何を知っていたにしても、斬ったのは斬った者だ」
お父様が言いました。
「お前が何を知っていても、知らなくても、それは変わらない。これは思うことじゃない。私が決めていることだ」
わたくしはそれも書きました。書いても、おなかの奥の冷たいのは、すぐには消えませんでした。消えないまま、次の行を書きました。
「四つ目」
わたくしは顔を上げました。
「全部、今日でなくていいです。でも、知らないうちに決められるのは、いやです。わたくしのことは、わたくしにも、教えてください。教えられない時は、教えられないと言ってください」
お父様が窓のそばでゆっくりうなずきました。
「言う。教えられない時は、教えられないと言う」
お父様はそう言いました。春の夜に、寝室で聞いたのと同じ約束でした。
帰り際、先生は首飾りを布に包み直して、お父様に返しました。わたくしは手を出しませんでした。首に掛けても、環はまだおなかのところまで下がるからです。
先生は杖をついて立ち上がってから、一度だけ肖像を見上げました。
「お嬢様。最後に一つだけ」
「はい」
「お母様は、よく笑う方でした。王家のことを頼まれたあの夜も、お嬢様が膝の上で眠ってしまわれて、寝言で、ほち、と言われた。お母様は声を立てて笑っておられた」
わたくしは調査帳の、四つの問いの下に一行足しました。
お母様は、わたくしの寝言で笑った。




