守れなかった場所
公爵家の侍医が着いたのは鐘が止んで半刻ほどたった頃だった。
御者を先に屋敷へ走らせていた。先生が斬られた、私は無事だ。それだけをセバスに伝えろと言った。セバスは知らせを聞くとすぐに侍医を起こして、馬車で送り出したらしい。侍医は院の薬師と代わって先生の脇腹の布をはがし、長いあいだ黙って傷を見た。それから針と糸を出した。
「刃は腸の手前で止まっております。ただ、お歳がお歳です。流れた血も多い。今夜を越えれば、と申し上げるしかございません」
侍医は手を洗いながら俺の左手に目をやった。
「旦那様のお手も、あとで拝見いたします」
「あとでいい」
ガレスが来たのはその少しあとだった。騎士団の詰所へ走った院の者が、詰所でガレスの名を出したらしい。ガレスは部屋の入口で先生の顔を見て、それから床の紙と、ひっくり返った机と、俺の顔を見た。
「何人だ」
「六人。舟で、水門から。閂は中から上げてあった。門番の下男がいない」
ガレスは自分の部下の肩に手を置いて、何か短く言った。部下は首を横に振った。部下の腕にも布が巻いてあった。
「俺が表しか見ていなかった」
口から出てから気づいた。
ガレスがこちらを見た。俺の言い方に何か言うかと思ったが、何も言わなかった。ほんの少しだけ長く俺の顔を見ていた。
「帰れ」
ガレスはそれだけ言った。
「爺さんは俺が見る。医者もいる。廊下には騎士を立たせた。お前の家では、お嬢が知らせを聞いてる」
それから俺の左手を見た。
「それに、その手じゃ剣は持てねえ」
言い返せなかった。
*
屋敷の玄関でセバスが待っていた。お嬢様はお部屋に、ミーナが付いております、と言った。眠ったかと聞くと、いいえ、と言った。
自分の寝室で寝台の端に座った。燭台を一つだけ灯した。
最初から並べ直した。
花の籠の男は表門を見ていた。だから表を固めた。騎士を二人置き、門を日の入りで閉じさせた。
水門の番は院の者の役目だった。閂を下ろす下男は門番の下で五年働いていて、院長が身元を請け合った男だった。夜の水門に公爵家の者を立たせたいと頼んだ時、院長は首を横に振った。夜の僧坊の裏に俗人を置くことは、会派の決まりで許されていない。俺はそこで引き下がり、閂を一本足して、下ろすところを自分の目で見ることにした。
確かめたのは閂だった。閂を下ろした手が、夜にもう一度上げに来ることまでは確かめていなかった。
前の会社で金庫の鍵を二重にしたのに中身が減ったことがある。二本の鍵を両方とも持っている者がいた。鍵の数を数えて安心して、誰が持っているかを数えていなかった。
それでも、部下が扉の前で二人を止めていなければ、俺は先生の部屋で三人に囲まれていた。男たちが退いたのは、表の二人が駆け上がってきたからだ。一人は捕まえた。全部が外れたわけではない。外れた所が、いちばん大事な所だっただけだ。
もう一つあった。
連中は先生の部屋を知っていた。表門が見える窓から先生が外を見れば、向かいの壁際からも先生の顔が見える。宰相府の許しには院の名があり、文庫の帳面には先生の名と俺の口添えがある。部屋を知る道は俺が思っていたより多かった。
扉が三回鳴った。同じ強さで、三回。
「……入れ」
娘が肩掛けを巻いて入ってきた。廊下の端にミーナが燭台を持って立っていた。入ってはこなかった。
娘は寝台の前まで来て、俺の顔を見て、それから膝の上の手を見た。
「大丈夫ですか」
「大丈夫だ」
娘は首を横に振った。
「お父様の大丈夫は、大丈夫ではない時の顔です」
前の世界で、俺は大丈夫と言われて、そうかと返す側だった。返したあとで聞き直したことは一度もなかった。
聞き直される側に、今は俺がいる。
「……大丈夫じゃない」
声が自分の声に聞こえなかった。
「先生は脇腹を斬られた。血は止まった。医者は今夜を越えれば、と言った。ガレスが付いている。院には川から入られた。閂は中から外されていた。下ろす役の男が、まだ見つかっていない」
娘は肩掛けの端を握って聞いていた。
「お父様」
「何だ」
「わたくしも、花の籠の人のことを聞いていました。先生のお部屋の窓から、表門の向かいがよく見えることも、帳面に書きました。でも、誰にも言いませんでした」
娘の声が細くなった。
「言えば、よかったですか」
「言われても、私は同じ所を固めた。お前が書いたことは、私も考えていたことだ」
娘は俺の顔をしばらく見ていた。それから寝台の端に上がって俺の隣に座った。足が床に届かなかった。
娘は俺の左手に自分の両手を重ねた。震えている手を、上から押さえるように握った。
「お父様。危ないことは、どこまで教えてもらえますか」
娘は前を向いたまま言った。
「何も知らないうちに先生がいなくなるのは、いやです」
すぐには答えられなかった。答えを一つずつ探した。
「誰かが怪我をした時は、言う。今夜のように。お前の毎日の何が変わるのか、なぜ変わるのかも言う。お前がしてはいけないことは、理由と一緒に言う」
「言えないことは」
「言えない、と言う。知らないことは、知らないと言う」
娘はうなずいた。
「わたくしは、見たことと聞いたことで危ないと思ったものは、帳面に書くだけにしないで、お父様に言います。一人で確かめに行きません」
「それでいい」
娘の手が少し強くなった。
「先生は、わたくしのことで狙われたのですか」
俺は燭台の火を見た。
先生が狙われる理由で、俺が知っているものは一つしかない。奥方の家と、奥方の調べだ。その血を引いているのは、この家ではこの子だけだった。
「先生が目を覚ましたら、先生と一緒に話す。私一人で話していいことではない」
娘は少し黙っていた。それから、はい、と言った。
燭台の蝋が半分ほど減った頃、俺の左手は震えるのをやめていた。娘の手はまだ上にあった。
窓の外が灰色になり始めた頃、セバスが扉を二度叩いた。
「旦那様。ガレス様から言伝てでございます。爺さんは、腹が減ったと言っている、と」
娘の手から力が抜けた。それから、もう一度だけ、ぎゅっと握り直した。
*
門番の下男は夜明けに北門で捕まった。
ガレスの部下が王都の四つの門へ走っていた。下男は荷車の陰で門が開くのを待っていた。懐に銀貨が八枚あった。
川沿いの詰所で下男は藁の上に座って震えていた。
「閂を上げて、裏口の錠を外しておけと。それだけで十枚くれると。二枚は、先に母に送りました」
頼んだのは、ひと月ほど前から院の裏の石段に来ていた男だという。左の手の甲に灰色の染みがあった。
「人を斬りに来るとは聞いておりません。盗みだと思いました。院の倉には、大聖堂へ納める銀の燭台がございますので」
階段の下で騎士が押し倒した男は、別の部屋にいた。王妃の調査官が先に来ていた。男は酒場で雇われたと言った。前金で銀貨二十、済んだらもう二十。仕事の中身は前の晩まで聞かされなかった。川から入って、小路側の二階の端の年寄りを。
「舟の連中は手に染みがあった。自分たちのことは何も話さなかったが、動きで分かる。戦場にいた連中だ」
調査官は俺を見て小さく首を横に振った。これ以上は出てこないという意味だった。
*
詰所を出て川べりの道を歩いた。
手帳に新しい頁を作った。
茶会の毒は多くはなかったと侍医は言った。ベンノは、少しだけ騒ぎになる程度だと言われて小瓶を受け取った。娘の家の箱から毒が出れば、娘の家の名が汚れる。宝石の時も、汚されかけたのは娘の名だった。
ゆうべの連中は違う。六人。戦場の動き。川から、二階の端の年寄りを。銀貨が二十とまた二十。
名を汚す手と、命を取る手。
手帳に二行書いた。その下に、同じ誰かか、別の誰かか、と書いて問いの印を付けた。
ブラントが年老いた学師を殺して何を得るのか、俺には見えなかった。だからといって外せるわけでもない。家令の行方もまだ知れない。
一つの名で二つの手をまとめてしまえば、帳面はきれいに閉じる。閉じた帳面の外から、また何かが入ってくる。問いの印は消さずにおいた。
*
先生は三日目に屋敷の東の棟へ移した。
院長は青い顔で礼拝堂の燭台を毎朝数えていた。水門には鎖を巻かせたが、川に面した塀は塀でしかない。屋敷には石の塀があり、水門はなく、侍医がいる。
先生は寝台の上で一度だけ首を横に振った。
「お嬢様の屋根の下へは」
「先生がうちの客だということは、もう知られている。院を出ても、それは消えない。消えないなら、侍医と騎士を一か所に集めたい。院では、門も閂も院のものだった。ここなら、閂を下ろす手も私が選べる」
先生は黙っていた。
「東の棟は、娘の部屋からいちばん遠い。娘の通る廊下と、先生の部屋へ行く廊下は分ける。授業には、娘は騎士と一緒に行く。何も危なくないとは言わない。院より、守れる所が多い」
先生はしばらく天井を見ていた。
「北で、院を選んだのはわしでした」
「今度は、私に選ばせてくれ」
先生は目を閉じた。それが返事だった。
東の棟の廊下の両端に騎士を二人ずつ立てた。食事は侍医が見てから運ぶ。部屋に入る者の名はセバスが帳面に付ける。
その夜手帳の新しい頁にもう一行書いた。
娘に、母の家のことを話す。先生と一緒に。
知らないまま守られていれば安全だと、先生は北で言った。前の持ち主も同じことを書いていた。
院で閂を下ろした男は、閂を上げることも知っていた。知らない者だけが、戸の内側で眠っていた。
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