狙いは誰か
その夜、背の高い部下を書斎に呼んで、初めから話させた。
「朝の鐘のあとに来て、先生の馬車が出ると帰ります。立つのは表門の向かいの壁際で、毎日同じ所です」
「花は」
「三日とも同じ花です。三日目には萎れていました。値を聞いた女がいましたが、もう売れたと言って断りました」
部下は少し考えてから付け足した。
「籠を持ち替えた時に、左手の甲が見えました。灰色の染みがありました。丸くはなくて、煤を指で擦りつけたような形です」
「声はかけたか」
「かけていません。一人で寄るな、追うな、と言われていますので」
それでいい、と言った。寄れば顔を覚えられる。追えば、先生のそばから一人減る。
部下を下がらせてから紙に書き出した。
男が見ていたのは表門だ。表門から出るのは先生の馬車で、その馬車が着くのはこの屋敷だ。先生を見ているのか、先生の行き先を見ているのか。行き先には娘がいる。
前の会社で、不審な問い合わせが続いた時は、どの部署を狙った問い合わせかを先に決めるなと教わった。決めた部署だけ鍵を掛けると、隣の部署から入られる。
だから両方に掛けることにした。
娘が外へ出る時の護衛を二人にする。院には、夜のあいだ公爵家の騎士を二人、表門の内に立たせる。院長には、表門を日の入りで閉じてもらう。馬車の出る刻は日ごとに変える。王妃との取り決めどおり、集めたことは調査官を通して王妃にも出した。
先生には屋敷へ移る話をもう一度した。返事は北の院と同じだった。
「わしを見ている者がいるなら、その者をお嬢様の屋根の下へ連れていくことになります」
そのかわり、と先生は言った。
「明日、文庫へご一緒いただけませんか。帳面を一つ、旦那様ご自身の目で見ていただきたい」
*
大聖堂の文庫は身廊の北の回廊の奥にあった。
書記は痩せた若い修道士で、閲覧の帳面を両手で机に置いた。革の表紙が擦り切れていた。中には閲覧を願った者の名と、口添えをした者の名と、借りた本の棚の印が日付順に並んでいた。
先生は八年前の頁を開いた。
「奥様のお名です」
イザベル・ヴァレンシュタイン。口添え、ヴァレンシュタイン公爵。
次の行も、その次の行も同じ名だった。棚の印は三つしかなかった。先生はそれを自分の書付と一つずつ照らしていった。棚の印と、借りた日と、返した日。帳簿の突き合わせと同じ手つきだった。
年をまたいで頁をめくるにつれて、名の字が変わった。
初めの年は細い字が速く走っていた。亡くなった年の頁に入ると一画ずつが短く切れ、途中で筆が止まった跡が残るようになった。最後の三か月は字そのものが違った。少し右へ傾いた、細い字だった。
先生の字だった。
「お手が利かなくなっておられました。それでも通うと仰せで、名だけはわしが代わりに書きました」
先生は最後の行に指を置いたまま言った。
「奥様が何を読まれたかは、ここに全部ございます。何を見つけられたかは、ございません。わしは今、この三つの棚を、奥様の順に読み直しております」
俺は自分の左手を机の下に下ろした。痺れはなかった。それでも、なぜかそうした。
帳面の新しい頁には先生の名があった。口添えは八年前と同じ名だった。
書記に聞くと帳面は閲覧を願う者なら誰でも見られると言った。
*
夕方、先生の馬車に乗って院まで行った。
屋敷を出る前に娘の部屋の扉を叩いた。院まで送って、夜課の鐘の頃に戻る。そう言うと、娘は星図から顔を上げてうなずいた。
「言ってから行くのですね」
「言ってから行く」
院の表門は日の入りに閉じられた。門の内に公爵家の騎士が二人立った。客坊の下働きに入っているガレスの部下が、廊下の燭台に火を入れていた。
水門は自分で見に行った。門番の下で働く若い下男が、樫の閂を二本、扉の内側の金具に落とした。二十を少し過ぎたくらいの男で、旦那様が見ていると手が震えますと言って笑った。俺は二本とも手で揺すった。びくともしなかった。
表は人で固めた。裏は樫で閉じた。
先生の部屋で昼の帳面の写しを広げた。先生は奥方の借りた順に本の名を読み上げ、俺はそれを紙に写した。三つの棚のうち、一つは戴冠の記録の棚だった。
夜課の鐘が鳴った。修道士たちの足音が廊下を礼拝堂へ行き、また戻ってきた。
「お嬢様の次の授業は、明後日でしたな」
「明後日だ。竪琴の星の続きをやると言っていた」
「では、その次の問いを考えておきます」
俺は外套を取って部屋を出た。帰る前に、もう一度水門を見ておくつもりだった。
*
水門へ下りるには、客坊の裏の階段がいちばん近い。裏の階段は川の側にある。表の階段より狭く、大人がやっと一人通れる幅だった。
踊り場まで下りた時、低い音がした。牛が喉を鳴らすような、長い軋みだった。
水門の蝶番の音だ。夕方、下男が閂を下ろす前に扉を閉めた時に聞いた。
踊り場の小窓から外を見た。月が川の上に低くかかっていた。水門の扉が半分開いていた。黒い小舟が一艘、院の中の船着きに鼻を寄せていた。舟から人が下りる。数えた。六人。一人が舟に残って櫂を握り、五人が石畳を走ってきた。
これまでの報告にあった男は、一人だった。
「起きろ! 川だ!」
怒鳴った。声が廊下の端まで届いたかどうかは分からなかった。
階段の下で裏口の扉が開いた。錠の下りているはずの扉だった。
剣は抜いていた。いつ抜いたのか覚えていなかった。
右足が半歩下がり、剣先がわずかに下がって、左の肩が前に出た。俺の知らない構えだった。この身体は知っていた。
一人目が階段を上がってきて、三段目で俺の剣を見て止まった。止まった腕を打った。男の剣が踏み板に落ちて男は後ろへ倒れた。二人目がそれに足を取られて二人とも下まで転がった。
階段の下で誰かが短く言った。残りの足音が一階の廊下を表の側へ走っていった。表の階段から上がる気だ。
先生の部屋は、小路に面した表の側の、二階の端だ。
下に転がった二人のうち一人が、起き上がってまた段に足を掛けた。剣先を向けると下がった。もう一度来て、また下がった。そのあいだに、表の側の足音は聞こえなくなっていた。踊り場を離れれば、この二人が上がってくる。
三度目に下がった時、二人は裏口から外へ駆け出した。
二階の廊下を走った。
礼拝堂のほうで鐘が鳴りだした。夜課の鐘とは違う、間のない叩き方だった。扉から顔を出した修道士に、引っ込めと怒鳴った。
先生の部屋の前でガレスの部下が二人を相手にしていた。扉は開いていた。中で何かが倒れる音がした。
部下の脇を抜けて飛び込んだ。
机がひっくり返り、紙が床に散っていた。先生が壁際に座りこんで脇腹を両手で押さえていた。指のあいだから黒いものが流れていた。黒い布で顔を隠した男がその前に立って、剣を二度目に振り上げていた。
間に入った。男の剣を受けた。
受けた瞬間、左手から力が抜けた。指がほどけて、剣が右手一本にぶら下がった。男の剣が肩の上を滑って壁の漆喰を削った。
右手だけで押し返した。押し返すことしかできなかった。
階段を駆け上がる靴の音がした。表門の二人だった。鐘で気づいて、表門の閂を確かめてから入ってきたのだろう。
男は舌打ちして廊下へ飛び出した。廊下で部下ともみ合っていた二人も、それに続いた。階段の下で騎士の一人が一人を押し倒した。残りは裏へ逃げた。
追わなかった。
先生の横に膝をついた。寝台の敷布を引き剥がして、先生の手の上から脇腹に押し当てた。
「押さえていろ。手を離すな」
「旦那様……」
「しゃべるな」
先生の手は冷たかった。息は浅かったが、あった。刃は脇から横に入っていた。
川のほうで櫂が水を打つ音がした。それが遠ざかっていった。
*
院の薬師が来てガレスの部下と押さえる役を代わった。
俺は水門へ下りた。
石段の上に、松明を持った修道士が立っていた。舟が水門を抜ける時に、櫂を握る手が灯の中に一度だけ浮かんだと言った。左手で、甲に煤を擦りつけたような灰色があったと。
扉の内側の金具に閂はなかった。樫の閂が二本、石段の脇の壁にきちんと立てかけてあった。外から上げたのなら、こうは置かない。
門番の下男の寝床は空だった。
二階の端の部屋は、表門がいちばんよく見える部屋だ。表門の向かいの壁際からも、あの窓はよく見える。
廊下で顔を出していた修道士が、黒い布の三人は自分の前を走り抜けて、端の部屋へまっすぐ向かったと言った。ほかの扉には手も掛けなかったと。
狙いは、先生だった。
左手はまだ小さく震えていた。握ろうとすると、握る前に力が抜けた。
俺は右手で左の手首をつかんで、先生の部屋への階段を上がった。
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