先生の授業
(エレノア)
春になって、わたくしは九つになりました。
柱の印は指一本分伸びました。ミーナは去年の印との間を指ではさんで、「一本と、ほんの少し」と言いました。ほんの少しは印になりませんでした。
王宮の勉強会は冬から月の初めに二日ずつあります。
王妃様の侍女頭が先生で、手紙の書き方やお客様のお迎えの仕方を教えてくださいます。候補の令嬢は五人です。ヘルミーネ様と、コルネリア様と、子爵家の方と、辺境の伯爵家の方と、わたくしです。わたくしがいちばん年下でほかの方は皆十になっています。
ヘルミーネ様は最初の日にわたくしの隣に座りませんでした。二度目の日には一つあけて座りました。三度目の日には髪のリボンの色をほめてくださいました。わたくしはお礼を言いました。それ以上は言いませんでした。ヘルミーネ様がいいと言うまで待つと、決めているからです。
*
その日の勉強は季節の挨拶でした。
「春の初めにお出しする手紙の、最初の一行を書いてごらんなさい。決まり文句ではなく、ご自分の目で見た春を」
侍女頭が言いました。
わたくしは灯守りの星のことを書こうと思いました。灯守りの星は一年じゅう北の同じところにいるので、春の挨拶にはなりませんでした。窓の外の木の芽のことを書きました。書いてから、ほかの方も皆、木の芽か鳥のことを書くだろうと思いました。
侍女頭は一人ずつ読み上げました。子爵家の方は梅の花でした。ヘルミーネ様は窓の下に燕が戻ってきたことでした。わたくしは木の芽でした。侍女頭は、皆さまよくお書きになりました、と言いました。
コルネリア様の紙で侍女頭の声が少し止まりました。
「明け方の東の空に、竪琴の星が戻ってまいりました」
侍女頭はもう一度読みました。それから、まあ、と言いました。
「よろしゅうございますね。星で季節をお知らせするのは、古いお手紙の書き方です。コルネリア様は、どなたに習われましたの」
「……いいえ。自分で、見ました」
コルネリア様の声は卓の向こうまでやっと届くくらいでした。栗色の編んだ髪が肩から少し落ちていました。
わたくしは自分の紙を見ました。木の芽、と書いてありました。
それからコルネリア様の紙を見ました。
竪琴の星のことならわたくしは知っています。殿下の星図の、夏の頁のいちばん高いところにいる星です。冬からは先生に星を習っています。先生の授業で、星図は上から見た空だということも、裏から透かせば下から見た空と同じになることも、わたくしは自分で見つけました。
「竪琴の星は、夏の星です」
わたくしは言いました。言ってから広間がとても静かなことに気づきました。
「星図でも夏の頁にあります。春の初めには、見えないと思います」
コルネリア様の顔が赤くなりました。頬から先に赤くなってそれから耳まで赤くなりました。
「……失礼いたしました」
コルネリア様はペンを取って自分の一行に線を引きました。その下に、寒さもゆるみ、と書きました。誰でも書く一行でした。
侍女頭は少しのあいだわたくしを見ていて、それから言いました。
「どちらが正しいのか、わたくしにはこの場で分かりかねます。コルネリア様、線を引いても上の行は読めますから、そのまま残しておきなさい。エレノア様も、コルネリア様も、明日までにお確かめになって。では、次は結びの一行を」
勉強会はそのまま続きました。
わたくしは正しいことを言ったと思っていました。
でも胸の真ん中が少し落ち着きませんでした。コルネリア様はそのあと一度も顔を上げませんでした。膝の上で両手を握っていました。指の関節が白くなるくらい、強く握っていました。
*
その日の午後は先生の授業でした。
わたくしは書庫の窓辺の机で勉強会のことを話しました。木の芽のことと、竪琴の星のことです。
先生は拡大鏡を拭く手を止めました。
「お嬢様。竪琴の星は、どの空の星でしたかな」
「夏の星です。星図の夏の頁にあります」
「星図は、いつの空を描いたものでしたかな」
わたくしは星図の夏の頁を開きました。頁の下に殿下の星図の写しを作った人の小さな字がありました。夏の終わりの、宵の空。
「……宵の空です」
「星は宵にだけ出るものでは、ございませんな」
先生は窓の外を見ました。
「夏の宵に高いところにいる星は、冬の終わりになると、明け方の東の低いところに戻ってまいります。夜通し起きている者は、春が来る前に、もう竪琴を見ております」
わたくしは星図を見下ろしました。
「でも、わたくしは見ていません」
「見ておられませんな」
「見ていないので、分かりません。星図には、描いてありません」
言いながら自分の声が少し大きくなっているのが分かりました。先生は怒りませんでした。拡大鏡をまた拭き始めました。
「では、お確かめなさい。お嬢様がご自分で」
冬に聞いたのと同じ言葉でした。
わたくしは星図をぱたんと閉じました。
*
ミーナに明け方に起こしてほしいと頼みました。
ミーナは「明け方というのは、まだ夜のうちのことですよ」と言いました。それでも起こしてくれました。お父様も来ました。寝間着の上に外套をはおって髪が片方だけ跳ねていました。
東の棟の露台は、冬ほどは寒くありませんでした。空はまだ暗くて、東のいちばん低いところだけが、少しだけ薄くなっていました。
「お嬢様。あそこ」
ミーナが指さしました。
東の低いところに明るい星が一つありました。その下に小さな星が並んで竪琴の形をしていました。星図の夏の頁と同じ形でした。裏から透かさなくても、竪琴は竪琴の形でした。
わたくしはしばらく何も言えませんでした。
「……コルネリア様のほうが、正しかったです」
声に出したら急に悔しくなりました。
わたくしは先生に星を習っていて、星図も持っていて、竪琴の星のことなら勉強会のほかの誰よりも知っていると思っていました。知っていると思っていたので見に来ませんでした。コルネリア様は自分で見たと言っていました。
「見ていないことを、見たように言いました」
お父様は何も言わずにわたくしの隣で空を見ていました。外套の端を、わたくしの肩に掛けてくれました。
「お父様。コルネリア様は、どうして明け方の空を見ていたのでしょう」
「分からないな」
「わたくしは、起こしてもらわないと起きられませんでした」
コルネリア様は自分で起きていたのです。
勉強会で握っていた両手を思い出しました。わたくしも、五つの時、クラウディア先生の前でああいうふうに手を握っていました。言いたいことがあっても、言ってはいけない時でした。
コルネリア様が明け方に起きている理由は、わたくしには分かりません。分からないことは、分からないまま置いておきます。それはお父様に教わりました。
竪琴の星の下が、だんだん白くなっていきました。星は一つずつ消えていきました。
わたくしは悔しかったです。悔しかったのに、見えた時は、少しうれしかったです。先生に習ったことの続きを、自分の目で見たからです。
*
勉強会の二日目、わたくしはお父様に頼んで、いつもより早く王宮へ行きました。
控えの間にはもうコルネリア様がいました。一人で窓辺の椅子に座っていました。侍女は扉の外にいました。
わたくしは前に立って膝を折りました。
「コルネリア様。昨日、わたくしは間違えていました」
コルネリア様が顔を上げました。
「今朝、明け方に見ました。竪琴の星は、東の低いところにありました。コルネリア様が書いたとおりでした。わたくしは見ていないのに、見えないと言いました。申し訳ありませんでした」
コルネリア様はわたくしを見ていました。何か言おうとして、やめて、また言おうとしました。
「……見に、行かれたのですか」
「はい。ミーナに起こしてもらいました。父も来ました。父は髪が跳ねていました」
コルネリア様の口の端が、ほんの少しだけ動きました。
「わたくしは、明け方に、よく目が覚めるのです。それで、窓から」
コルネリア様はそこで言葉を止めました。それ以上は言いませんでした。わたくしも聞きませんでした。
「竪琴の星の下のほうの小さい星が、わたくしの家の窓からは、木の枝にかかって見えるのです」
コルネリア様は小さな声でそう言いました。今度は少しだけ、笑っていました。
「わたくしの家の露台からは、枝はありませんでした」
「……いいですね」
そのあとで侍女頭が来てほかの方々も来ました。
勉強会が始まる前にわたくしは手を挙げました。昨日、皆の前で言ったことだったからです。
「昨日の竪琴の星のことです。コルネリア様が正しかったです。わたくしが、見ないで言いました」
広間が少し静かになりました。ヘルミーネ様がわたくしを見てそれからコルネリア様を見ました。
侍女頭は、そうでございましたか、と言いました。
「では、コルネリア様。昨日の一行を、もう一度お書きになって」
コルネリア様は線を引いた行の下に、もう一度同じ一行を書きました。耳が赤くなっていました。
*
次の先生の授業でわたくしは見たことを話しました。先生は、そうでございましたか、とだけ言いました。それから夏の頁を開いて、竪琴の星のいちばん明るい星の、古い名前を教えてくれました。わたくしはそれを星図の余白に書きました。殿下の字の隣に、わたくしの字で。
授業が終わって先生は迎えの馬車へ向かいました。ガレス様の部下の背の高い人が、いつものように先生の後ろについていました。夏祭りのあとでお父様から名前を教わった人です。お父様よりずっと細い人です。
わたくしは階段の上で星図を抱えていました。
その人が玄関の脇でお父様に低い声で何か言いました。わたくしに聞こえたのは少しだけでした。
「……三日続けて、同じ男が、院の向かいの壁際に。花の籠を持っていますが、売っていません」
お父様はその人の顔を見てうなずきました。何か言いましたが、聞こえませんでした。
部屋に戻ってから帳面を開きました。
院の向かいに、同じ男の人。三日。花の籠。売っていない。
先生のお部屋は、表門がいちばんよく見える部屋だと、お父様が言っていました。表門がよく見える窓からは表門の向かいもよく見えます。
わたくしは帳面を閉じて星図を開きました。竪琴の星の古い名前を、声に出して一度読みました。もう一度読もうとしてやめました。
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