王都へ来る学師
北の院長の礼状は秋の終わりに届いた。
寄進への礼が三行。写本の仕上がりについては何も書いていなかった。いつもの礼状だった。その下に灰色の粗い紙が一枚重ねてあった。
――参ります。雪の前に崖を下ります。
それが一行目だった。その下に来るための条件が並んでいた。
――旅の修道士は、同じ会派の院に寄宿せねばなりません。王都の川べりの院に入ります。お屋敷には夜は泊まりません。
――お嬢様への授業はお屋敷でいたします。日のあるうちに。
――大聖堂の文庫の奥の棚を見せていただきたい。奥様が通われた棚です。公爵家のお名で、文庫の書記にお口添えを願います。
――フェルゼンの名は、どの紙にもお書きにならないでください。
四つ目の条件の下に少し間を空けて一行あった。
――確かめきれないものは、確かめきれないまま参ります。それはわしも同じですので。
*
書斎にガレスとセバスを呼んで手紙を机に置いた。
「来るのか、あの爺さん」
ガレスは窓辺で腕を組んだ。
「来るなら、どうやって来させるかだ」
セバスが教会の決まりの写しを広げた。
「巡礼の名目でしたら、教会の許しだけで王都に入れます。名を伏せたまま来ることもできます。院長様と私どもが身元を存じておれば、何かあっても探すことはできましょう」
「だが、文庫の奥の棚は」
「……閲覧の帳面に、名と、口添えをした者の名を書かねば開きません。奥様もそうなさっていました」
セバスはそう言ってから自分で写しを閉じた。
名を伏せれば、学師の調べは文庫の入口で止まる。名を出せば、奥方の学師が王都へ戻ったことが、それを知りたい者には分かる。フェルゼンの名を紙から外しても、オズワルドという名を覚えている者がいれば同じことだった。
「名を出すとして、何が変わる」
ガレスが言った。
「公爵家の客だからって、手を出さねえ連中じゃねえぞ。お嬢に二度、手を出してる」
「出さないとは思っていない」
俺は言った。
「宰相府の許しがあれば、院に公爵家の者を置く理由になる。何かあった時に、騎士団が院の中まで入る理由にもなる。名を伏せた巡礼のためには、どちらも使えない」
「守る理由が紙に残るってだけだな」
「そうだ。だから両方書いて、学師に選んでもらう」
その夜のうちに北へ書き送った。
名を伏せて巡礼として来る道と、名を出して公爵家の招いた写字の学僧として来る道。それぞれで開くものと、それぞれの危うさを並べた。名を出す道を選ぶなら、出すのはオズワルドの名と公爵家の招きだけで、宿の部屋も、授業の日も、着く日も、どの紙にも書かない。
警備は、どちらの道でも同じにした。三つ目の宿場の院まで、ガレスの部下が二人、町の者の格好で迎えに出る。そこから王都まで一緒に歩く。川べりの院では、ガレスの部下を一人、下働きとして客坊に置かせてもらう。院とお屋敷のあいだは公爵家の馬車で、歩かせない。大聖堂の文庫へ行く日も部下が一人つく。
返事は十日あまりで来た。三つ目の宿場で書いたものだった。
――名を出して参ります。奥様の棚は、名のない者には開きません。名を出せば、わしが戻ったと知る者がいることも承知しております。それを知って参るのは、わしの決めたことです。警備はご手配のとおりに。
*
川べりの院へは、ガレスと二人で先に行った。
大通りから坂を下りきった川沿いに、灰色の石の塀が続いていた。表門は細い小路に面している。塀の内側に礼拝堂と僧坊と、旅の修道士や巡礼を泊める客坊の棟があった。
院長は丸い顔の穏やかな人で宰相府の許しの写しを丁寧に読んだ。
「お客人としてお迎えいたします。ご家中の方が下働きに入られることも、承りました」
客坊の棟は小路の側から川の側まで細長く延びていた。裏は川に面していて、塀の切れたところに荷舟を入れる水門がある。粉や薪を積んだ舟が、川からそのまま院の中へ入れるようになっていた。
「水門は夜は」
「閂を下ろします。舟は夜明けに入りますので、門番が開けます」
ガレスが閂を手で揺すった。太い樫の閂だった。
「もう一本、足していいか。こっちの金で」
「どうぞ。冬は川風で、古い閂が鳴りますので」
学師の部屋は小路に面した二階の端に決めた。表門がいちばんよく見える部屋だった。
*
オズワルドが着いたのは初雪の三日後だった。
驢馬に乗って、灰色の外套の修道士と、町の者の格好をしたガレスの部下二人に付き添われていた。白い髭は胸まであったが、北の院で見た時より少し短くなっていた。
表門の前で、オズワルドは驢馬から下りて頭を下げた。俺も頭を下げた。
「来てくれて、ありがとう」
「来ないと申したのはわしです。来ると決めたのも、わしです」
オズワルドは顔を上げて俺を見た。北の院の文庫で見た時と同じ、量るような目だった。
「お嬢様は」
「来ると決まった日に話した。待っている」
*
娘は五日前から窓辺の椅子を玄関の見える窓へ動かしていた。
馬車が門を入ってくると、娘は椅子から下りて背中をまっすぐにした。ミーナが娘のリボンの端を一度だけ直した。俺は玄関の石段の上で待った。
オズワルドは馬車を下りて石段の下で足を止めた。娘を見上げて、しばらく何も言わなかった。
「……大きくなられた」
声が少しかすれていた。
「東の棟の露台で、星をお見せしたことがございます。お嬢様はまだ三つにならず、奥様の膝の上で、わしの指す星を見ておられた。あの星は何かとお聞きすると、灯守りの星、と言われた。まだ、ほしと上手に言えなくて、ほち、と」
娘はそれを覚えていなかった。顔に、覚えていないと書いてあった。
それでも娘は石段を一段下りた。
「オズワルド先生。お手紙を、ありがとうございました」
膝を折って礼をした。
オズワルドは髭の中で笑った。口がどこにあるのか分かりにくい笑い方だった。
「三つ目のお問いには、わしもまだ確かなお答えを持っておりません。確かめられたところまでは、夏までに、お父上とご一緒の時にお話しいたします」
「はい。待てます」
娘はそう言ってから少しだけ付け足した。
「でも、星のことは、今日から教えてください」
*
授業は週に二度、書庫の窓辺の机でした。
扉は開けておく。ミーナが扉のそばに椅子を置いて縫い物をする。それがオズワルドの決めたことだった。俺も、ときどき廊下を通った。通るたびに書庫の中から二つの声が聞こえた。
最初の日は星だった。
オズワルドは娘の星図を見て殿下の字の書き込みに目をとめた。何も言わずに娘に冬の頁を開かせた。
「お嬢様。羊飼いの杖は、今夜、東の空に昇ります。杖の曲がった頭は、まっすぐの柄のどちら側にございますかな」
娘は冬の頁の端を指で押さえた。
「右です。星図では、頭が右に曲がっています」
「空でも、右に曲がっておりますかな」
「はい。星図のとおりです」
娘は迷わずに答えた。
オズワルドは拡大鏡を拭きながら、少し首をかしげた。
「星図は、どちらから見た空を描いたものだと思われますか」
「……空です。空を描いたものです」
「下から見た空か、上から見た空か」
娘の指が星図の上で止まった。眉のあいだに皺が寄った。
「上から空を見る人は、いません」
「おりませんな」
「では、下からです。星図のとおりです」
オズワルドは急かさなかった。拡大鏡を光にかざして曇りを確かめていた。
「今夜、お確かめなさい。お嬢様がご自分で。次の授業で、お聞かせください」
*
その夜、東の棟の露台へ上がった。
オズワルドは夕方に院へ帰っていた。露台にいたのは娘とミーナと俺だった。毛布を二枚と角灯を一つ持って上がった。
空は冷たく澄んでいた。北の高いところに灯守りの星があった。東の低いところに、羊飼いの杖が昇りかけていた。
娘は星図を開いて空と見比べた。それから星図を頭の上に掲げて、また見比べた。
しばらく何も言わなかった。
「……逆です」
娘の声が小さかった。
「杖の頭が、左に曲がっています。星図では右なのに」
俺も見上げた。三つ並んだ星の端で杖の頭は確かに星図と逆に曲がっていた。
「星図が、間違っているのですか」
娘は星図を見下ろした。殿下の字が書き込んである星図だった。娘の唇がきつく結ばれた。間違っていると言いたくないのが、顔に出ていた。
前の会社の新人研修で、手順書を読み上げるだけの新人に、講師が手順書を取り上げて現場に立たせたことがある。読んでいるうちは分からないことが、立つと一度で分かる。分かるまでが、たいてい悔しい。
娘は角灯を引き寄せた。星図の頁を灯にかざして、何かを確かめるように裏から覗いた。
それから、急に顔を上げた。
「お父様。裏から見ると、同じです」
娘は星図を灯と空のあいだに持ち上げた。紙を透かして、裏から見える杖の頭が、空と同じほうへ曲がっていた。
「この星図は、上から見た空です。だから下から見ると逆になるのです。裏から透かせば、下から見たのと同じになります」
夏からずっと、娘はこの星図で星の名と高さを確かめてきた。明るい星がどのあたりにあるかを見るだけなら、左右が逆でも困らなかった。曲がった形が右か左かを、空と並べて比べたのは初めてだった。
娘は毛布の上で座り直した。
「先生の言ったとおりです」
悔しそうな声だった。それから娘はもう一度星図を透かして、空を見た。
「でも、裏から透かすのは、わたくしが見つけました」
「そうだな」
「先生は、お確かめなさいとしか言いませんでした。見つけたのは、わたくしです」
ミーナが毛布の端で口を押さえていた。
*
次の授業で娘は胸を張って書庫に入っていった。
廊下を通ると娘の声が聞こえた。星図は裏から透かすと空と同じになります、と言っていた。オズワルドが、王宮の書庫の古い星図は天の外から見下ろした形に描く習いで、表紙の裏にそう書いてある、と答えていた。娘は少し黙った。表紙の裏は見ていなかったらしい。
オズワルドは次の問いを出したらしかった。しばらくして娘の声がした。
「……もう一度、言ってください」
オズワルドの低い笑い声がした。それから娘も笑った。悔しそうな、楽しそうな笑い方だった。
授業のあと、オズワルドはガレスの部下と大聖堂の文庫へ回ることになっていた。
玄関で迎えの馬車を待つあいだに、俺は聞いた。
「文庫では、何を探している」
「奥様の続きです」
オズワルドは門のほうを見ていた。
「奥様は、誓いが一度結び直された時のことを探しておられた。それは北で申しました。奥様が通われた棚の記録を、端から順に読んでおります。奥様が何を見つけられたのかは、わしも知りません。お父君から何をお聞きになったのかは、知っておりますが申せません」
「娘には」
「棚で確かめられたことから、お話しできるものが出てまいりましたら。お父上とご一緒に」
「教えるのは、そのついでか」
「いいえ」
オズワルドは俺のほうを向いた。
「奥様の続きを探すのは、わしの務めです。お嬢様に星を教えるのは、わしの楽しみです。務めのついでに楽しみをいたすほど、わしは器用ではございません」
馬車が来た。オズワルドは乗り込む前にもう一度だけ屋敷を振り返った。
書庫の窓に娘が星図を抱えて立っていた。
*
夜、娘が書斎の扉を三回叩いた。
「殿下への手紙に、書いてもいいですか。星図は、裏から透かすと空と同じになりますと」
「お前の手紙だ」
「先生のことは書きません。先生に習ったとも書きません。わたくしが見つけたことだけを書きます」
娘は少し考えてから、言い直した。
「わたくしが、間違えてから見つけたことを書きます」
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