菓子職人の帳面
道具箱は調査官の前で開けられた。
騎士団の詰所の奥の部屋だった。机の上に古い木の箱が一つ。角が擦り切れて蓋の留め金が片方なくなっていた。質屋の札が紐で結んであった。調査官と書記、ガレス、それに俺がいた。下宿のおかみは戸口で前掛けを握っていた。
「家賃の分だけのつもりで質に入れたんです。中は見ておりません。黙っていたのは、咎められると思って」
「分かっている。質の分は、こちらで払う」
調査官が蓋を開けた。
中には刷毛が三本、木の型がいくつか、口金の揃い、薄い鉄のへら。いちばん下に布で包んだ帳面が一冊入っていた。
仕入れ帳だった。砂糖の目方、粉の値、薔薇の砂糖漬けの瓶の数。字は小さくてまっすぐだった。前の店にいた頃から付けていたらしく、頁の半分は川向こうの菓子屋の仕入れだった。
調査官は後ろから頁を繰った。終わりの十頁ほどで指が止まった。
書き方が違った。品の名も目方もない。日付と額と、同じ一行が並んでいた。
――川向こうの香料商にて、為替を銀に替える。
最初の行はおととしの冬の初めだった。支度金、銀三枚。その次の月から毎月一行ずつ、小銀二枚。最後の行は茶会のひと月前だった。
「ここに付けたのは、なぜだ」
調査官がおかみに聞いた。
「あの人、休みの日ごとに来て、溜めた家賃を少しずつ返していったんです。そのたびにうちの台所で箱を開けて、何か書いておりました。箱を取り戻す日を数えてるんだと思っておりましたけど」
書記がペンを走らせた。
俺は帳面の字を見ていた。毎月ここへ来て溜めた家賃を少しずつ返していた男の字だった。屋敷の給金のほかに毎月決まった金があった。それを屋敷の誰も知らなかった。何の金なのかはまだ分からなかった。
*
香料商の帳場は川向こうの市場通りにあった。
公爵家の名で控えを見せろと言っても、商人は見せないだろう。調査官の書付を持たせてガレスの部下と調査官の書記が行った。セバスがついていった。
三日後セバスが写しを書斎の机に並べた。
「茶会の前にベンノが替えた為替は、帳面のとおり六枚ございました。額も日付も帳面と合います」
セバスは写しの一枚を指で押さえた。
「振り出した者の欄は、六枚とも同じ署名でございます。ブラント伯爵家、家令」
細い、几帳面な字だった。六枚とも同じ傾きで同じところで線が切れていた。
前の会社で経費の精算を一度でも通した人間なら知っている。金は必ずどこかに跡が残る。手渡しなら跡は薄いが、手間がかかる。手間を惜しんで為替を使う者は、自分の名がどこかの帳場に残ることを忘れている。
「もう一つございます」
セバスはもう一枚の写しを出した。
「茶会のあとにも、同じ家令の振り出しで四枚。三月おきに、手の先の赤い男が替えに来たと帳場の者が覚えておりました。最後の一枚は、夏の初めでございます」
俺は顔を上げた。
「夏の初め」
「はい。いつも月の初めの祈りの日の翌朝に来ていたそうです。三月おきなら、次は今月でございます」
ガレスが壁際で腕をほどいた。
「月の初めの祈りの日は、九日後だ。来るならその翌朝だな」
*
十日後の朝、俺は屋敷にいた。
行けば目立つ。公爵が川向こうの市場に立っていれば、それだけで話が広がる。待つのは調査官の者とガレスの部下に任せた。
昼前にガレスが来た。
「来たぞ」
ガレスは書斎の扉を閉めてから言った。
「為替を出して、帳場の者が奥へ引っ込んだところで、うちの部下が両側に立った。逃げなかった。自分の手を見て、それから膝をついた。調査官が連れていった」
俺は椅子から立てなかった。
「どこにいた。一年あまりも」
「川向こうの粉屋の裏で、窯の番をしてたらしい。名前を変えてな。菓子は焼いてなかった」
*
調べは騎士団の詰所で調査官が行った。俺は衝立の向こうで聞くことを許された。
ベンノは痩せていた。厨房で見た時より一回り小さくなっていて、指の先の赤みだけが前と同じだった。
調査官は帳面を机に出さなかった。帳面は封をして書記の後ろの棚にあった。調査官は日付と額だけを読み上げ、ベンノはそれが自分の付けたものだと言った。
話したことは順に並べればこうだった。
前の店にいた夏に骰子で借りを作った。秋口に知らない男が来て全部払った。東の外れの口入れ屋の、愛想のいい主人だった。公爵家の厨房に入れる口がある、紹介状はこちらで取りに行く、と言われた。
入ってからは毎月、主人の使いが為替を一枚渡しに来た。その代わりに屋敷で見たことを話した。誰が訪ねてきたか。旦那様がいつ、どこへ出かけたか。厨房の決まりが変わったこと。
「茶会の前の月に、主人から小瓶をもらいました。艶に混ぜろと。少しだけ、騒ぎになる程度だと言われました」
「誰の口に入るかは、聞いたか」
調査官が聞いた。
「……聞きませんでした。聞いたら、できないと思いました」
ベンノの声は小さかった。
「荷が来て、皆が外へ出て、厨房に一人になりました。箱の紐をほどいて、菓子を紙ごと出して、十二個とも艶の上から塗り直しました。乾くのを待てなくて、紙をはさんで詰め直しました。紐は、元のように結べませんでした」
「小瓶は」
「粉屋の窯にくべました」
「茶会のあとの為替は」
「黙って隠れていろ、という金でした。粉屋の口も、主人の使いが見つけてきました」
調査官が、為替の振り出しの欄を見たことがあるかと聞いた。ベンノは、見たと言った。細かい字で名は読めずどこの家の者の字かも知らなかった。口入れ屋の主人の上に誰がいるのかも知らなかった。
衝立の向こうで俺は膝の上の手を握っていた。
ベンノが最後に言ったのは調べが終わって立たされた時だった。
「お嬢様は、わたしの菓子を、花びらが一枚ずつ違うと言ってくださいました。わたしはその菓子に塗りました」
ベンノは調査官ではなく、床に向かってそう言った。
*
調査官の結びは三つだった。
ベンノは公爵家の菓子箱を開け、毒を艶に混ぜて塗り直した。王宮に預けてある敷き紙には、どの紙にも表にも裏にも艶の跡があり、花びらの縁の跡が二重になっている。十二個とも塗って紙ごと詰め直したという話と合う。荷の間に一人で残ったこと、紐を元のように結べなかったことも、屋敷の聞き取りと受領の女官の話に合う。それはベンノの責めとして確かめられた。
ベンノに金を渡したのは東の外れの口入れ屋で、その金はブラント伯爵家の家令が振り出した為替だった。それも控えで確かめられた。
家令に誰が命じたのかは何も出ていない。
調査官は結びの終わりに一行だけ添えた。公爵令嬢が箱に手を加えたという筋は、これをもって調べから外す。
茶会から一年あまり、調書の上で娘の名の横に付いていた一行がそこで消えた。関わりがないと申せるのは、まだ先。
家令は呼べなかった。調査官の使いが行った時にはもう屋敷にいなかった。伯爵家の者によれば、先月の終わりに暇を出され、郷里へ帰ったという。ベンノが今月替えに来た為替は、その家令が暇を出される前に振り出したものだった。郷里がどこなのかを正しく知る者はいなかった。
俺は屋敷に戻って使用人の名簿を開いた。
ベンノの名は茶会の日から「行方知れず」と書いたまま、まだ名簿に残っていた。出入りも給金もあの日のうちに止めてある。今日はその横に、日付と、暇を出したことを書いた。止めていたものを、もう戻さないと決めた印だった。
紹介状の原物は調査官が預かる。組合にはこの紹介状で入った者が罪を認めたことを知らせた。箱と帳面も調査官の棚に封をして置く。ベンノが二度と自分の箱にも帳面にも触れないように。
*
名簿を閉じた夜、娘にも話した。
調べの上で、娘の名が外れたこと。ベンノが見つかったこと。自分で塗ったと言ったこと。金の出どころの先にブラント家の家令がいたこと。伯爵本人のことは何も分からないこと。家令がどこにいるか分からないこと。
ベンノが最後に言ったことは迷ってから話した。
娘は書斎の椅子で黙って聞いていた。聞き終えて膝の上で両手を重ねた。
「ベンノの菓子の花びらは、ほんとうに一枚ずつ違いました」
娘はそれだけ言った。
それから少ししてもう一つ言った。
「ヘルミーネ様に、お知らせしますか」
「王妃殿下から、分かったことだけ伝えていただく。茶会の時と同じだ」
「はい」
娘は部屋へ戻る前に扉のところで振り向いた。
「お父様。料理長が、薔薇の菓子をまた焼いてもいいかと、ミーナに聞いていました」
茶会のあと菓子場の台は誰も使っていなかった。焼けと言う者もいなかったし、料理長も今日まで、焼いていいかとは誰にも聞かなかった。
「お前は、食べたいか」
娘は少し考えた。
「薔薇でなくていいです。林檎を煮たのが、いいです」
次の朝、厨房から林檎と砂糖の煮える匂いがした。
*
その週のうちにブラント伯爵は宮廷で憤ってみせたらしい。
「さて。伯爵様は宰相府の控えの間で、ずいぶんお声を張られたそうで」
ヘルマンが書斎で丸眼鏡を押し上げた。
「暇を出した者の不始末まで当家のせいにされるのか、見つけ次第突き出す、と。お顔を赤くなさって。控えの間の者たちは、皆、黙って聞いていたそうでございます」
伯爵は家令を突き出さなかった。突き出そうにも行方が誰にも分からなかった。
調査官の報告は王妃と宰相府へ上がった。半月後に王宮から触れが出た。ブラント伯爵、王家の行事の席次と段取りを差配する役を解く。理由、家令の監督不行き届き。
セバスが触れの写しを畳みながら、陛下のお名ですが文面は王妃府の書き方でございます、と言った。
伯爵本人には届かなかった。家令の線は伯爵の机の前で切れている。それでも王家の茶会の席を決める手はもうあの家にはない。
俺は手帳の茶会の日の頁を開いた。ブラントの名の横に前に打った点がある。その隣に点を一つ足した。
*
夜、セバスとミーナを書斎に呼んだ。
「屋敷の中の目のことだ」
北の院で、学師はそう言った。お屋敷の中の目をお確かめになったら、王都へ参ります。
机の上に紙を三枚並べた。
一枚目はベンノ。屋敷で見たことを毎月外へ話していたと、自分で言った。為替の控えもある。今は調査官の手の中にいる。
二枚目はドーラ。宝石の件で娘の部屋に入ったことは、あの時に確かめた。ほかに何かを外へ話していたかどうかは、分からない。
三枚目はハンス。前の持ち主が倒れた春に消えた。何をしたのかを、まだ誰も確かめていない。
三枚を同じ箱に入れることはできなかった。外へ話していたと分かっているのは、一人だけだ。
「それに、学師が屋敷を出たのは、妻が亡くなった冬だ。三人とも、そのあとで入った」
「はい」
セバスが言った。
「学師様がお気になさっていた目は、三人の誰でもございません」
俺はうなずいた。
「妻が亡くなってから入った者を、全部洗ってくれ。今いる者も、もういない者も」
セバスとミーナは十日かけた。
奥方が亡くなった冬から今までに屋敷に入った者は十九人だった。ベンノとドーラとハンスの三人がいない。ほかに四人が、決まりどおりに暇を取って出ていた。今いるのは十二人で、前の勤め先と身元を請け合う者と教区の記録の三つが、十二人ともそろった。教区の返事が遅れた二人はミーナが自分で教区まで行った。
「十二人とも、合いました」
ミーナはそう言ってから少し唇を曲げた。
「ベンノの紹介状も、合っていましたけど」
セバスは何も言わなかった。奥方が亡くなる前から屋敷にいる者は、セバス自身を含めて三十人を超える。その者たちを紙で調べる方法はなかった。
*
十日目の夜、北へ手紙を書いた。
院長への寄進の包みに礼状とは別に一枚を入れる。名は書かない。
確かめたことを書いた。屋敷で見たことを外へ話していた者が一人見つかり、その者はもう屋敷に触れられないこと。厨房と荷と雇い入れの決まりを変えたこと。今いる者のうち、奥方の亡くなったあとに入った十二人は照会がそろったこと。
確かめきれなかったことも書いた。ほかの二人が何をしていたかは分からないこと。先生が屋敷を出た冬に気にしていた目は、まだ誰だか分からないこと。金の出どころは家令までしか届いていないこと。
それから最後の一行を書いた。
――それでも、王都へ来ていただけないだろうか。娘が、先生の授業を待っている。
書いてから最後の一文を消そうかと迷った。娘はまだ、先生が来るかもしれないことを知らない。待っているのは俺のほうだった。
消さずにその下に一行足した。
――娘はまだ知りません。来ていただけると決まったら、話します。
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