初めての私信
(レオンハルト)
礼状は侍従が書いた。
下書きを見せてもらった。祭りの夜に私の身を案じてくださったことへの礼、令嬢のご無事を喜ぶ言葉、公爵家が町に置いた火の備えへの感謝。どの行も正しかった。季節の挨拶から始まって王家の封蝋で終わる。
最後に私の名を書く欄だけが空いていた。そこに名を書いて、侍従に返す前にもう一度読んだ。
手紙の中のどこにも、あの夜がなかった。
焼き林檎のことも九十二歩のことも書いていない。書かないのが正しい。王太子の礼状は王太子が礼を述べたという記録で、公爵家の文箱に納められていつか誰かが読み返すかもしれない。そこに歩数を書く者はいない。
それでも礼状だけを送るのは何かが釣り合わない気がした。皿の片方に正しい言葉を山ほど載せて、もう片方には何も載せていないような。
*
十の誕生日に父上から小さな銀の印をいただいた。
王家の紋ではない。私の名の頭の一字だけを彫った親指の爪ほどの印だ。私信にはこれを使いなさい、と父上はおっしゃった。王太子の封で出した手紙は王太子の手紙になる。この印で出した手紙は、お前の手紙になる。
今まで一度も使っていなかった。私信を書く相手がいなかった。
夜、机に紙を出した。
一枚目は時候の挨拶から始まった。夏の盛りも過ぎ、と三行書いたところで侍従の下書きと同じだと気づいた。破った。
二枚目は、あの夜のことを順に書いた。桟敷を下りて、屋台を回って、柱が倒れて。書いているうちに調書のようになった。母上の書見の間で調査官に話した時と同じ書き方だった。破った。
三枚目はエレノア嬢の勇気を讃える言葉で半分が埋まった。読み返すと私が彼女を量っているように読めた。彼女は量られるために私の後を追ったのではない。破った。
四枚目の途中で手が止まった。
公爵閣下がこの手紙を読むかもしれない。閣下は読まないとおっしゃったが、それでも言葉が硬くなった。硬くなった言葉を柔らかくしようとして書き足すと、余計に硬くなった。
机の端に書庫から借りたままの地図があった。
私は四枚目を横へ置いて地図を広げた。指で桟敷から歩いた。屋台の前で止まった。
焼き林檎は三つに分けた。ガレス殿が私の分の端をかじってから渡したので、三つのうち私の分がいちばん小さかった。熱くて、口の中で転がした。
あの屋台の前で、私たち四人だけが知っている小さいことだった。
五枚目にはそういうことだけを書いた。
――エレノア・ヴァレンシュタイン嬢
――この手紙は侍従を通していません。私の字で、私の封です。読みにくいところがあれば、お許しください。
――礼状は別に届くと思います。あちらは王太子の礼状です。こちらは、あの夜を一緒に歩いた者の手紙です。
――焼き林檎は、ガレス殿が一口かじったので私の分がいちばん小さかったです。それでも熱くて、どこを噛めばいいのか分かりませんでした。
――竜の首について。書庫で古い話の本を調べました。あの竜は首が一つでした。けれど、お芝居の竜は首がいくつあってもいいのだと思います。私の負けです。
――九十二歩も、私の負けです。あれから地図で測り直しました。地図の上では九十歩ほどでした。数えていた人がいちばん正しいです。
――パンの歌は、まだ覚えています。ふくらめ、ふくらめ、のところだけですが。
――耳をふさいだ時、私は手を強く押しすぎて、しばらく耳の中で海の音がしました。
――閣下が王宮においでになりました。何のお話だったかは、閣下からお聞きください。地図を一緒に見ていただきました。
――レオンハルト
読み返した。まだ少し硬かった。それでも破らなかった。これ以上直そうとすれば、また書かなくていい言葉を足すことになる。
封をして銀の印を初めて押した。蝋の上に小さな一字が残った。
*
翌日の稽古のあとでガレス殿に手紙を渡した。
「坊主。これは騎士団の仕事じゃねえぞ」
「分かっています。お願いします」
ガレス殿は手紙を裏返して封の一字を見た。それから黙って上着の胸に入れた。
二日後、稽古場でガレス殿が言った。
「渡したぞ」
「閣下に、ですか」
「お嬢に渡すのは閣下の役目だろう。閣下は封を裏返して、印を見て、そのままお嬢に渡した。開けなかった」
ガレス殿は木剣を立てかけて少し笑った。
「開けなかったが、お嬢が部屋へ持って上がるのを、階段の下でずいぶん長く見てたな」
*
返事は五日後に来た。
ガレス殿は稽古の終わりに何も言わずにそれを私の手に載せた。封には星の形の小さな印が押してあった。家の紋ではなかった。
部屋に戻ってから開けた。
エレノア嬢の字は整っていた。一画ずつが同じ太さで行がまっすぐに並んでいる。誰かに長く習った字だった。そして一画の終わりごとに、筆が紙を押さえてから離れた小さな溜まりがあった。どの字にも同じところに。
――レオンハルト殿下
――お手紙をありがとうございました。殿下のお字は、思っていたより右上がりでした。
――焼き林檎は、わたくしの分も小さかったです。いちばん大きかったのは父の分です。父は的当ての三本目で桶に当てたので、ちょうどいいと思います。
――竜の首は、首が一つの本もあるのですね。でも、わたくしが見た竜は二つでした。見たことを書きます。
――九十二歩は、わたくしも父の地図で測ってみました。父の地図では九十五歩くらいでした。地図によって歩数がちがうので、やはり数えた人がいちばん正しいです。でも、殿下とわたくしでは、わたくしのほうが近かったことは変わりません。
――パンの歌をミーナに歌ったら、ミーナは知っていました。続きもありました。続きは、次のお手紙に書きます。
――耳の中の海の音は、わたくしもしました。
――殿下がお書きになったので、父に聞きました。父は、殿下に謝りに行ったと言いました。
――エレノア・ヴァレンシュタイン
二度読んだ。
わたくしのほうが近かったことは変わりません、のところで二度とも少し悔しくなった。地図で測り直してまでそこは譲らないのだ。
見たことを書きます、のところで私は手のひらを見た。右に見たこと、左に思ったこと。父上に教わった天秤を、彼女は竜の首で使っていた。
便箋を畳もうとしてもう一度開いた。
続きは、次のお手紙に書きます。
次の手紙がある、と彼女は書いていた。私が頼んだのではない。彼女が先に書いた。
笑いが出た。一人の部屋で声を出して笑ったのは初めてだった。扉の外で侍従が咳ばらいをした。それでもしばらく止まらなかった。
机の引き出しの奥に小さな木の箱がある。母上からいただいた空の箱で何を入れるか決めずにいた。
私は手紙をそこに入れて蓋を閉めた。
次の手紙には、何を書こうか。
星のことは書ける。秋の頁の白い鳥がそろそろ西の空に早く沈む。地図のことも書ける。眠れない夜に頭の中で歩く道のことも。
書けることを数えているうちに、それが王太子として量るべきことなのかどうかを考えるのを私はすっかり忘れていた。
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