役ではなく
封をした手紙を机の端に寄せた。娘は祭りの紙の横に立ったまま、先に口を開いた。
「殿下が一人だったので、追いかけました」
「見えていた」
「お父様の指を放したのは、わたくしです。放す前に、お父様に言えばよかったです」
「言ったら、私はどうしたと思う」
娘は少し考えた。
「お父様の肩は、柱の下を通りませんでした」
「通らなかった。だから、言われても私は行けなかった。それでも、言ってから行くのと黙って行くのとでは違う。私は、どっちへ探しに行けばいいかが分かる」
娘はうなずいた。それから祭りの紙に目を落とした。
「次は、言ってから行きます」
「次は、行く前に大人を呼べ。肩の通る大人だ。ガレスの部下は、私より細い」
「ガレス様の部下の人の名前を、知りません」
「教える。帰ったら、一人ずつ」
話はそこで終わりにした。娘が一つ、俺が一つ。決めたことは手帳の祭りの頁に書いた。
俺の分も書いた。決めた路地の中に、あの細道が入っていなかった。地図には描いてあったのに、俺は歩いていなかった。
*
三日後に王宮へ上がった。
門の内でガレスが待っていた。厩舎の脇の、人の来ない通路を並んで歩いた。
「坊主とは、もう話した」
ガレスは前を見たまま言った。
「俺の手から抜けたことは、あいつが自分で言った。子供が見えたから行った、それは分かる。だが護衛の手から抜けたら、護衛は守れねえ。次に同じものが見えたら、俺の袖を引いて指をさせ。そう決めた。そっちは俺と坊主の話だ」
「分かった」
「お前の用は、別だろう」
ガレスは足を止めた。
「一つだけ聞かせろ。お前、坊主を見る時、坊主じゃない誰かを見てるな」
答えられなかった。
前の会社に、異動してきた部下を前任者の評価表だけで決めつける上司がいた。あいつは数字に弱い、あいつは客先で揉める。本人と話す前から、表の欄で人を見ていた。俺はその上司を軽蔑していた。今の俺は、その上司より悪い。俺が読んでいる表は、まだ起きてもいないことの表だった。
「言えねえなら、いい」
ガレスは歩き出した。
「坊主は東の回廊の先の小部屋にいる。地図を広げてな。あいつは、お前が来ると聞いてから一度も地図を片づけてねえ」
*
小部屋の窓は東の庭に向いていた。
王太子は机の前に立っていた。机の上には王都の地図が広げてある。大きな地図で、端が机から垂れていた。袖の焦げた外套はもう着ていなかった。
俺が入ると、王太子は背筋を伸ばした。
「公爵閣下」
俺は扉の前で立ち止まった。言うことは決めてきた。決めてきた順に言うことにした。
「殿下。橋の袂で、私は、また、と言った」
王太子の顔が少し固くなった。
「殿下が前に娘を危ない目に遭わせたことは、一度もない。茶会の日、殿下は見たことを順に話された。謝りに来られた日は、ご自分の言いすぎをご自分で詫びられた。どちらの日も、娘を危ない目には遭わせていない」
王太子は黙って聞いていた。
「あの夜も、私は見ていた。燃える布の下に子供が転んでいて、殿下がそこへもぐったところまでは見ていた。その子がどうなったかを、私は考えなかった。考えずに、殿下を責めた。見ていないことで責めた」
頭を下げた。
「申し訳なかった」
しばらく何も聞こえなかった。窓の外で庭師が鋏を使う音がした。
顔を上げると、王太子は地図の端を指で押さえていた。
「……閣下。なぜ、また、だったのですか」
答えはあった。八年後の階段の上の顔だ。それを言えば、言い訳になる。まだ起きていないことで十の子を責めた理由を、まだ起きていないことで説明することになる。
「それは、私の中の話だ。殿下の中には、ない」
王太子は少しのあいだ俺を見ていた。それから、ゆっくりうなずいた。
「では、詫びはお受けします」
王太子はそう言ってから、言い足した。
「私も、ガレス殿の手から抜けました。そのことはガレス殿と話しました。エレノア嬢が後を追ったのは、私が抜けたからです。それは、閣下にもお詫びしなければいけないと思っていました」
「娘が私の指を放したのは、娘と私の話だ。もう話した。殿下の分ではない」
王太子は口を開きかけて、閉じた。それから、もう一度うなずいた。少し間を置いて、小さく息を吐いた。
「地図を、見ていただけますか」
王太子が言った。
「書庫から借りました。あの夜、どこを通ったのかを確かめたくて」
俺は机の向かいに立った。王太子は細い指で大通りの真ん中を押さえた。
「ここが桟敷です。ここで焼き林檎を買いました」
指が大通りを少し西へ動いた。
「ここが、柱の倒れた屋台です。あの子を引っぱり出して、押されて、ここまで来ました」
指が建物のあいだの細い線の口で止まった。俺の決めた路地の一覧には入っていなかった線だ。
指が細い線を下りて、川の石段で止まった。そこから川べりを東へ、ゆっくり動いた。
「石段のいちばん下から、橋の袂まで。九十二歩です。私は八十歩だと言いました」
「……娘は」
「百歩です。百から九十二は八で、九十二から八十は十二だそうです」
王太子の指が石の橋の上で止まった。
俺は地図を見下ろした。娘から聞いた話の一つずつに、場所がついた。上の辻はここで、細道の口はここ。辻から細道の口までは、地図の上では指の幅ほどしかなかった。
「この細道には、桶を置いていなかった」
俺は言った。
「地図には描いてあった。私は描いてあるのを見て、歩かなかった。殿下がここを下りると決めた時、ここには誰もいなかった」
「でも、橋にはいました」
王太子は橋の袂を指で叩いた。
「青い布の桶がありました。あの子も、青い布のことを知っていました。父と司祭様から聞いたと言っていました。閣下が決めたことが、川べりの子供まで届いていました」
俺は答えなかった。何と答えればいいのか分からなかった。
「殿下は、地図が好きなのか」
代わりに出たのは、それだった。
王太子は少し驚いた顔をした。
「はい。星のほかに、いちばん好きです。夜、眠れない時は、頭の中で王都を歩きます。王宮の門から、大通りを通って」
「どこまで歩く」
「眠るまでです。たいてい大聖堂のあたりで眠ります」
王太子はそれから、ためらうように俺の顔を見上げた。
「閣下。その顔は、だめという顔でしょうか」
「……元から、こういう顔だ」
王太子の口の端がわずかに動いた。笑いかけて、こらえたようだった。
部屋を出る前に、王太子が呼び止めた。
「閣下。お願いがあります」
王太子は地図の端を丸めながら言った。
「エレノア嬢に手紙を書いてもよろしいでしょうか。礼状は、母上の侍従が書いてくれます。それとは別に、私の字で」
「娘に宛てた手紙なら、娘に聞いてくれ」
「……閣下は、読まれますか」
「娘が読めと言わなければ、読まない」
王太子は丸めた地図を胸に抱えて、深く礼をした。
*
屋敷に戻って手帳を開いた。
祭りの翌朝に書いた一行がある。殿下の何を知っている。答えは書いていなかった。
その下に、今日知ったことを書いた。地図が好き。眠れない夜は頭の中で王都を歩く。たいてい大聖堂のあたりで眠る。
書いてから、頁の上のほうを見た。茶会の日に付けた問いの印がまだあった。殿下は、自分から見たことを話した。その横の印だ。
一年あまり、この印を消せなかった。消さずにいたのは、印の理由が手帳のどこにも書いていないからだった。理由は俺の頭の中の、まだ起きていない階段の上にしかなかった。
印に線を引いた。
十八の顔を忘れたわけではない。忘れられるものでもない。それでも、今日、地図の上で川べりを数えるように動いていたのは、十の子の指だった。
娘が書斎の扉を三回叩いた。
「お父様。ガレス様の部下の人の名前を、教えてください」
俺は手帳を閉じて、白い紙を一枚出した。
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。
Xでも更新情報などを発信しています。
よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!
https://x.com/st_shosetsu




