お父様は、殿下の何を
橋の袂に青い布が見えた。
桶の番の男が二人いて一人が小さな男の子を抱えていた。片方の靴がなかった。柱の下に転んでいた子だった。
その横に子供が二人立っていた。一人は頭巾を外した少年で金の髪が煤で灰色になっていた。もう一人は青い晴れ着の少女だった。髪がほどけて肩に落ちていてリボンはなかった。
俺は名前を呼んだ。喉が焼けていて、出たのはかすれた息に近い声だった。
少女がこちらを向いた。
膝が先に石畳についた。それから腕が娘を抱えた。娘の身体は小さくて熱くて、煙の匂いがした。
生きていた。
俺は娘の肩をつかんで少し離した。顔と手を見て指を一本ずつ見た。どこも切れていなかった。どこも焼けていなかった。
「怪我は」
「ありません」
「どこも」
「どこもです」
娘の手が、俺の上着の背中を一度だけ握った。
それから俺は顔を上げた。
少年が立っていた。袖の端が焦げていた。背筋を伸ばして俺を見ていた。
安堵がどこかへ消えた。代わりに腹の底から熱いものが上がってきた。
この少年が柱の下へもぐらなければ、娘は俺の指を放さなかった。ガレスの手から抜けたのはこの少年だ。娘はそれを追った。
頭の中で階段の上に立つ十八の顔が重なった。罪状を読み上げる声が重なった。
「殿下は、また娘を」
声が出た。かすれた低い声だった。
「娘を、危ない目に巻き込むのか」
少年は動かなかった。目を逸らさず、言い返さなかった。
「……また?」
少年は小さく言った。それから唇を引き結んだ。
「申し訳ありません」
それだけ言った。
娘が俺の腕の中から抜け出した。
抜け出して俺と少年のあいだに立った。両手を下ろしたまま、肩が上下していた。
「お父様」
娘は俺をまっすぐ見上げた。
「お父様は、殿下の何を知っているのですか」
俺は口を開いたが、何も出てこなかった。
何を知っている。八年後の顔を知っている。階段の上から娘を見下ろす顔と、噴水の縁で十歳の夏の話をする十七の顔を知っている。どれも画面の中の顔だった。
今夜のことなら、見たものもあった。燃える布の下に子供が転んでいて、この少年はそこへもぐり込んでいった。その子が今、桶の番の腕の中にいる。
俺はそれを見ていたのに、あの子がどうなったかを一度も考えなかった。考えたのは娘が指を放したことと、八年後の顔のことだけだった。
「坊主!」
ガレスの声が橋の向こうから聞こえた。人を押し分けて走ってきて少年の両肩をつかんだ。上から下まで見た。俺が娘にしたのと同じ見方だった。
「怪我は」
「ありません。ガレス殿、申し訳ありません。手から抜けて」
「謝るのも叱るのも後だ。ちゃんと聞くからな」
ガレスは俺の顔を見た。何か言いかけて言わなかった。
「桟敷へ戻す。走り使いがもう王妃殿下に知らせてる」
少年は頭巾を持ち直した。それから娘に短く礼をした。王宮でする礼ではなく、町の子供がするような短い礼だった。
俺のほうを向いて、一度だけ俺の顔を見た。何も言わずにガレスに背中を押されて歩いていった。
*
屋敷に戻ったのは夜の鐘が二つ鳴ったあとだった。
娘は湯を使って煤を落とし、寝間着に着替えた。ミーナが髪を梳いていた。
俺は娘の部屋の入口に立っていた。入っていいのか分からなかった。
「お父様」
娘が言った。
「殿下が柱の向こうで何をしたのか、お父様は知りません」
「……知らない」
「話します」
ミーナが櫛を置いて椅子を一つ扉のそばへ押した。俺はそこに座った。
娘は順に話した。
殿下は燃えている布の下から男の子を引っぱり出した。袖が焦げたのはその時だった。
人に押されて二人で川への細道の口まで来た。上の辻は人で詰まっていた。殿下は坂を上がってきた男に下の様子を聞き、煙が上へ来ていると聞いてから下りると決めた。だめなら石段で壁に背をつけて待つ、と言った。
石段の上でパン屋の娘がはぐれた家族を待っていた。殿下は男の子の母親を探しに、煙のほうへ一歩出た。
「わたくしが止めました。煙の中へ探しに行かないで、知らせの集まるところで待つのだと言いました。お父様が言ったことです」
殿下は一歩戻った。パン屋の娘に、ここより橋のほうがお母上も聞きに来ると言い、案内してください、お願いしますと頼んだ。
橋まで男の子を一度も下ろさなかった。泣き出した男の子のために、歌も一緒に歌った。
娘はそこで言葉を止めた。
「殿下は、そのことを一つもお父様に言いませんでした。申し訳ありませんしか、言いませんでした」
俺は膝の上で両手を組んでいた。左手の指が震えていた。右手で押さえても止まらなかった。
「パン屋の娘の、名前は」
「知りません。言わない約束をしました。わたくしも、殿下の名前も言いませんでした」
娘は寝台の上で胸の前に何かを握っていた。指のあいだから木を削った小さな羽が見えた。
「お父様。殿下に、また、と言いました」
「……言った」
「殿下は、前にもわたくしを危ない目に遭わせましたか」
茶会の日、少年は見たことを順に話した。謝罪に来た日、自分の言いすぎを自分で詫びた。どちらの日も、娘を危ない目には遭わせていない。
「ない」
「では、また、ではありません」
娘はそう言ってから握った手を見下ろした。
「わたくしも、お父様の指を自分で放しました」
声が小さくなった。
「放してから、こわかったです。お父様がどこにいるのか、分かりませんでした」
「その話は、明日しよう。殿下とガレスがしているのと同じ話だ」
娘はうなずいた。それから少しだけ顔を上げた。
「焼き林檎は、おいしかったです。的当ても」
「そうか」
「お父様の三本目は、桶でした」
娘は掛け布を引き上げた。
ミーナが蝋燭を一本だけ残して俺の顔を見ずに部屋を出ていった。
*
翌朝ガレスと役所の長から知らせが届いた。
火が出たのは川沿いの倉の一つで、夜番の灯の不始末だった。倉が七つ焼けた。川沿いの長屋は端の一棟が半分焼けたところで止まった。死んだ者が二人いた。倉の夜番の老人と、一度逃げてから何かを取りに戻った長屋の女だった。
怪我人は数えきれないと書いてあった。
役所の長の字でもう一行あった。
――川沿いの辻の桶が、詰所の組より先に長屋に水を掛けました。鳶口の者が日よけと軒を引き倒し、それで火は橋の手前で止まりました。迷子は辻と橋で四十一人を預かり、夜明けまでに四十人が家の者に渡りました。
ゲームの王子は大火と言った。それがどれほどのものだったのかを俺は知らないから、昨夜の火と比べることはできない。
だが、桶が長屋に水を掛け、鳶口が軒を倒したことは長の字で書いてある。迷子の四十人が家へ帰ったことも書いてある。それでも、夜番の老人と長屋の女は帰らなかった。
一覧表の一行には、ようやく全部の欄に字が入った。どれも、起きてから分かったことだった。
ゲームの王子は十歳の夏、桟敷の上から燃える町を見ていることしかできなかったと言った。
昨夜の少年は桟敷の上にいなかった。柱の下へもぐって子供を引き出し、背中に負ぶって石段を下りた。それを変えたのは俺ではなかった。
護衛の手から抜けたのも同じ少年だった。娘はそれを追って俺の指を放した。どちらも、あの子たちとちゃんと話さなければならない。だがそれは、俺が「また」と言ったこととは別の話だった。
手帳を開いた。茶会の日に書いた一行がまだあった。
殿下は、自分から見たことを話した。その横に付けた問いの印を、俺はずっと消せずにいた。
その下に、殿下の何を知っている、と書いた。答えは書かずに手帳を閉じた。
ガレスに宛てて手紙を書いた。殿下にお目にかかりたい。王宮へ伺う。
前の会社で謝りに行く前の夜は何度も文面を書き直した。今度は一度で書いた。言い訳に使えることが、一つもなかったからだ。
*
昼過ぎに娘が書斎の扉を三回叩いた。
入ってきて机の前に立った。手に紙を一枚持っていた。四つに畳んだ跡のある、祭りの紙だった。
「一から四は、できました」
「……そうか」
「五は、分かりません。春の市で何ができたのか、まだ分からないので」
娘は紙を机の上に置いた。それから机の端の封をした手紙に目をとめた。宛名はガレスだった。
「王宮へ、行くのですか」
「行く。殿下に、また、のことを言いに」
娘は少しのあいだ封を見ていた。それから、うなずいた。
「わたくしの指のことは」
「それは、お前と私の話だ。今から話す」
娘は紙の横に立ったまま、背中をまっすぐにした。
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