名前を言わない約束
(エレノア)
柱の下の隙間をくぐると、殿下が燃えている布の下から男の子を引っぱり出していました。
布のはしから火の粉が落ちて、殿下の袖の端が黒く焦げました。殿下は男の子を両腕で抱えて立ち上がりました。男の子は片方の靴がありませんでした。
うしろを振り向くと柱と荷車の向こうは人の背中でいっぱいでした。お父様もガレス様も見えませんでした。
お父様の指を放したのは、わたくしです。
殿下が一人だと思ったら、手が勝手に放していました。放してから、お父様がどこにいるのか分からなくなりました。
「エレノア嬢。どうして」
「殿下が、一人だったからです」
殿下は何か言いかけてやめました。人の流れがわたくしたちを横から押しました。わたくしは殿下の外套のはしをつかみました。押されて押されて、気がついたら細い下り坂の路地の入口にいました。
わたくしは壁に背中をつけました。火の鐘が鳴ったら壁に背をつけて、流れが切れるのを待て。お父様がそう言っていました。
殿下も壁に背中をつけました。男の子は殿下の首にしがみついて泣いていました。
「青い布の桶へ行かなければなりません」
「上の辻は人で詰まっています」
殿下の言うとおりでした。大通りのほうは人の頭がぎっしりで、灯籠の明かりが煙でぼやけていました。煙は坂の上へ、大通りのほうへ流れていっていました。
坂の下から桶を提げたおじさんが一人上がってきました。腕に青い布はありませんでした。
「下はどうなっていますか」
殿下が聞きました。
「火は倉のほうだ、石段より西だよ。下の川っぺりは煙が少ねえ。煙は風でみんな上へ来てる」
おじさんはそれだけ言って上へ行ってしまいました。
殿下は坂の下を見ました。それからわたくしを見ました。
「地図では、この下は川の石段です。川沿いを東へ行けば石の橋に出る。でも、今その道が通れるかは、地図には描いてありません」
「上は、通れません」
「はい。下りて、石段のところでもう一度見ます。だめなら、そこで壁に背をつけて待ちます」
わたくしはうなずきました。殿下は男の子を背中に負ぶい直しました。
*
坂を下りきったところに石段がありました。川べりへ下りる幅の広い石段で、ところどころに畳んだ屋台が置いてありました。
いちばん上の段に女の子が一人座っていました。
わたくしと同じくらいの大きさでした。栗色の髪がふわふわしていて膝を抱えて丸くなっていました。顔が煤で黒くなっていて、声を出さないように膝に口を押しつけて泣いていました。
「ここで待っているのですか」
わたくしが言うと女の子は顔を上げました。
「……はぐれたら、店のとこで待ってなさいって、お母さんが」
「お母様と、はぐれたのですか」
「わたし、迷子じゃないよ。お母さんたちが、はぐれたの」
女の子はまた膝に顔をつけました。
わたくしは女の子の隣に立ちました。
背中をまっすぐにしました。クラウディア先生に何百回も直された背中です。待つ時は背中をまっすぐにしなさい。そうすると遠くからでも見つけてもらえます。先生はそういう意味で言ったのではなかったかもしれません。でも、今はそういう意味にしました。
「待つのなら、立って待ったほうが見つけてもらえます。座っていると、人の陰になります」
女の子はわたくしを見上げてわたくしの背中を見ました。
それから立ち上がって同じように背中をまっすぐにしました。まっすぐにしすぎて、少しうしろへ反っていました。
「こう?」
「はい。そうです」
殿下が、石段の下と川の西を代わる代わる見ていました。
「この子のお母上を探さないと」
殿下は背中の男の子を揺すり上げて、西のほうへ一歩出ました。男の子が転んでいた屋台は、坂の上の、煙の来るほうにありました。
わたくしは何も言わずに殿下の外套をつかみました。
「煙の中へ探しに行ってはいけません。探すと、お母様もこの子を探して動きます。動くと会えません」
「でも、ここに置いてはいけない」
「はい。だから、知らせの集まるところへ行って、そこで待つのです。お父様がそう言いました」
殿下は西を見てそれからわたくしたちを見ました。一歩、戻りました。
「青い布のとこ、知ってる」
女の子が言いました。
「迷子は青い布のとこに行けって、お父さんが。司祭様も言ってた。橋のとこにもいるよ」
それから女の子は自分の座っていた段を見ました。
「でも、わたし、ここで待ってないと。お母さん、店のとこって言ったもん」
「お母上は、あなたがここにいないと分かったら、どこを探しますか」
殿下が聞きました。
「……青い布のとこ。司祭様が、迷子はそこだって言ってたから」
「では、橋で待てば、お母上もそこへ聞きに来ます。ここは、さっきより煙が来ています」
女の子は西の空を見ました。それから、うん、と言いました。
「この段を下りて、川っぺりを行けば、すぐ。倉の前の道は荷車で詰まってるから、段の下の舟着き場の縁を通るの。毎年、パンを運んでこの段を下りるもん。お店の屋台、ここだから」
殿下が女の子を見ました。
「案内してください。お願いします」
女の子は殿下の頭巾をちらっと見ました。それからわたくしを見ました。
「あなたたち、だれ?」
わたくしは口を開きました。
エレノア・ヴァレンシュタインです、と言いかけて、止めました。
お父様は名前は言うなと言いました。桟敷の子です、とだけ言えと。
殿下のお名前はここで言ってはいけない名前です。王子様がいると分かったらこの坂の人たちはみんなこちらを向きます。さっき殿下と呼んでいたのも、坂の上の人混みの中だったから聞こえなかっただけです。わたくしの名前も、きっと同じです。洗濯場の人たちは、わたくしの家の名前を「また」と一緒に言っていました。
名前は、ここでは重すぎるのです。
「言えません」
女の子は口をとがらせました。
「なんで」
「言えない名前なのです。ごめんなさい」
女の子はしばらくわたくしを見ていて、それから言いました。
「じゃあ、わたしも言わない。おあいこ」
「おあいこです」
わたくしは髪の青いリボンをほどきました。髪がばらばらと肩に落ちました。
女の子の右の手首にリボンを結びました。ミーナのお母様結びです。輪を二つ作って、垂れた端の片方を結び目の下にくぐらせます。こうするとほどけにくいと、ミーナが教えてくれました。
「あなたが先を歩きます。暗いので、わたくしはうしろからこの手を見て歩きます。見えなくなったら、すぐに言います」
女の子は手首を見て、「きれい」と言いました。それから手首を顔の前で振って、もう一度「きれい」と言いました。
*
石段を下りると川べりの道は暗かったです。
右手の西の空が赤く光っていて川の水がその赤を映していました。ぱちぱちと何かがはぜる音が、遠くでしました。煙は川の上を斜めに上がって、坂のほうへ流れていきました。こちらの道にはほとんど下りてきませんでした。
女の子が先に立って、わたくしがその次、殿下がいちばんうしろでした。暗い中で青いリボンの手首が前で揺れていました。
舟着き場の縁で、荷物を背負った大人の人たちがかたまって立ち止まっていました。誰かが怒鳴っていて、誰も前へ進んでいませんでした。
わたくしは息を吸いました。
お腹から、まっすぐに。大広間のいちばん後ろの方に届く声で。クラウディア先生の朝の練習の声でした。
「道をあけてください。子供が通ります」
何人かがこちらを見ました。壁のほうへ寄って細い隙間ができました。わたくしたちは一人ずつ、そこを通りました。
殿下の背中の男の子が、また泣き出しました。
女の子が歩きながら歌い始めました。
「ふくらめ、ふくらめ、朝までに。かまどの火が、起きるまで」
パンの生地がふくらむのを待つ歌だそうです。同じところを何度も繰り返す歌でした。繰り返すうちに男の子の泣き声が小さくなりました。
三回目から、殿下が小さな声で一緒に歌いました。五回目から、わたくしも歌いました。ふくらめ、ふくらめ。節は少し上がって、下がって、また同じところに戻りました。
*
橋の袂に青い布がありました。
桶が三つと腕に青い布を巻いた男の人が二人いました。うしろを振り返ると、赤い空はもう遠くて、煙はここまで来ていませんでした。橋の上にはたくさんの人がいましたが、押し合ってはいませんでした。
片方の人が、殿下の背中から男の子を受け取りました。
「迷子かい」
「この子は、迷子です」
わたくしは言いました。
「わたくしたちは、桟敷の子です」
男の人の顔が変わりました。もう一人の男の人に何か言って、その人が大通りのほうへ走っていきました。
「ここで待ってな。動くなよ」
「はい。動きません」
殿下が、ふうっと息を吐きました。わたくしも吐きました。吐いてから膝が少しふるえているのに気づきました。
女の子は背中をまっすぐにして立っていました。わたくしが言わなくても、自分でそうしていました。
「ねえ。さっきの石段から、ここまで何歩だったと思う?」
女の子が言いました。
「百歩です」
わたくしが言いました。
「八十歩です」
殿下が言いました。
「九十二歩。わたし、ずっと数えてたもん」
「わたくしのほうが近いです。百から九十二は八で、九十二から八十は十二です」
「……どうしてそういうことになるのですか」
殿下は黙って、少しだけ笑いました。女の子が「へんなの」と言って笑いました。わたくしも笑いました。笑ったら、膝のふるえが止まりました。
女の子が前掛けの隠しに手を入れて、小さな物を出しました。羽を畳んだ木の小鳥でした。目のところに小さな穴が二つ彫ってありました。
「あげる。おあいこ。お父さんが彫ったの。いっぱいあるから」
「何の鳥ですか」
「わかんない。お父さんは、パンをつつきに来る鳥って言ってた」
受け取ると木はあたたかかったです。わたくしは晴れ着の胸の隠しに入れました。
しばらくして橋の向こうから女の人の声がしました。誰かを呼んでいました。何度も呼んでいました。女の子の顔がくしゃくしゃになりました。
名前を呼んでいるのだと分かりました。
わたくしは両手で耳をふさぎました。
殿下がわたくしを見ました。
「名前を言わない約束なのです。だから、聞こえないことにします」
殿下は少しのあいだわたくしを見ていて、それから自分も両手で耳をふさぎました。
白い前掛けの女の人が走ってきて、女の子を抱きしめました。前掛けに粉がついていました。わたくしは耳から手を離しました。
女の人はわたくしと殿下を見ました。
「あんたたちが、この子を?」
「この子が、わたくしたちを連れてきてくれました」
女の子が、お母様の腕の中からわたくしを見ていました。
「ねえ。また会える?」
わたくしは答えられませんでした。名前を知らない人にどうやってまた会うのか分かりませんでした。
「……会えたら、いいです」
「じゃあ、おあいこ」
女の子はお母様の肩の上からリボンの手を振りました。わたくしは振り返しました。栗色の髪が人の中に見えなくなるまで、振っていました。
殿下が、わたくしの隣に立っていました。顔が煤で灰色になっていて袖が焦げていました。わたくしの晴れ着の青も灰色でした。
「髪が、ほどけています」
「リボンをあげたので」
「……そうですか」
わたくしは胸の隠しに手を当てました。木の小鳥が、まだあたたかかったです。
口の中で、ふくらめ、ふくらめ、と言ってみました。殿下も小さな声で、かまどの火が、と続けました。
その時、橋の袂のほうから声が聞こえました。
かすれた声でした。喉がこわれたような声で、何度も同じ言葉を呼んでいました。煙で灰色になった人の中から、その声だけがまっすぐわたくしのところまで来ました。
わたくしの名前でした。お父様の声でした。
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