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悪役令嬢の父親に憑依した俺、娘を見捨てる未来だけは絶対に認めない  作者: 白川 透


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夏祭りの灯

 はじめの二晩は、鐘の鳴るような火は出なかった。


 一晩目は川沿いの屋台で鍋が焦げた。二晩目は大通りで灯籠が一つ落ちて、近くにいた子供が踏み消した。どちらも鐘は鳴らなかった。走り使いが屋敷までその二つを知らせに来て、俺はどちらの夜もほとんど眠らなかった。

 三晩目が王家の夜だった。


*


 王家の桟敷は大通りの真ん中にあった。


 通りの両側の建物から建物へ紐が何十本も渡してあって、その全部に紙の灯籠が下がっている。まだ灯は入っていない。下を人が流れていき、焼いた肉と蜂蜜の匂いが桟敷の上まで上がってきた。

 エレノアは手すりに両手を置いて、爪先立ちで通りを見下ろしていた。青い晴れ着に青いリボンだった。


「母上。下を少しだけ歩いてもいいでしょうか」


 王太子が王妃の前に立っていた。頭巾のついた灰色の外套を腕に掛けている。今年で十になった。


「ガレス殿についてもらいます。去年も一昨年も、ここから見ているだけでした」

「鐘一つ分よ。それ以上はだめ。口にするのは、膳部の者が昼に回って札を掛けた屋台の物だけ。あなたの分は、ガレスが先に一口」

「はい、母上」


 エレノアが手すりから振り向いた。


「わたくしも行きたいです」


 だめだ、と言いかけて、俺は口を閉じた。娘の前掛けの隠しには、四つに畳んだ紙が入っている。


「お父様は、行こうと言いました」

「言った」

「春の市の分もです」


 桟敷の奥で侍女の誰かが小さく笑った。王妃は扇の陰で俺を見ていた。


「公爵もご一緒に」


 俺はもう一度、通りの先を見た。川のほうの空はまだ明るかった。

 裏の階段が二つあることは図で確かめてある。歩くのは桟敷の見えるところだけで、ガレスと部下が二人、それに俺がつく。辻ごとに青い布がある。鐘が鳴ったら壁に寄り、流れが切れたら桟敷の裏の階段へ戻る。

 それだけそろっていても、何も起きないとは言えなかった。そろっているから、下を歩くと決めた。


「行く。その前に、決めておくことがある」


 桟敷の裏で、二人の子供の前にしゃがんだ。


「人が多い。はぐれることがある。はぐれたら、人の中で私たちを探すな」

「探さないのですか」


 娘が聞いた。


「探すと、お互いに動いて会えなくなる。いちばん近くの、青い布を巻いた桶のところへ行け。桶の番に、桟敷の子です、と言う。名前は言わない。そこで待つ」

「桟敷の子です」


 王太子が言った。娘も同じことを言った。


「私たちは、桶の番から走り使いの知らせを受けて迎えに行く。ミーナはここに残って、知らせを待つ」


 ミーナは石板と白墨を持っていた。走り使いが来るたびに、どこの辻の桶か、誰が来たかを書く。それを見れば、誰がどこにいるのかが桟敷で分かる。


「もう一つ。火の鐘が鳴ったら、通りを走るな。壁に背をつけて、流れが切れるのを待て」


 二人は同時にうなずいた。それから顔を見合わせた。どちらが先だったかを確かめるような顔だった。


 俺は黒い帽子と茶色の上着に着替えた。表へ回ると、頭巾を目深にかぶった王太子が一度まばたきをした。


「公爵閣下ですね。背が、ほかの方より頭一つ高いので」

「お父様。それは生垣の帽子です」

「知っている」


 ガレスが横を向いて肩を揺らしていた。


*


 通りに下りると、人の流れに肩ごと持っていかれそうになった。


 エレノアは俺の手を握らなかった。人差し指を一本だけ握った。そのほうが歩きやすいらしい。ガレスが王太子の斜め後ろにつき、町の者の格好をした部下が二人、少し離れてついてきた。


 人形芝居の小屋の前で、二人は木の竜の首の数について言い合った。首が二つあるのは間違いだと王太子が言い、お芝居の竜は首がいくつあってもいいのですと娘が言った。

 焼き林檎の屋台の前で、娘が足を止めた。柱に膳部の小さな木の札が下がっていた。


「二、です」


 娘は前掛けの隠しから小さな財布を出して、銅貨を一枚ずつ数えて屋台の女に渡した。糖蜜をかけた林檎が紙に包まれて出てきた。

 娘は林檎を三つに分けてくれと頼んだ。一つを王太子に差し出すと、ガレスが横から取って端を一口かじった。しばらく待ってから王太子に渡した。娘は残りの一つを俺に差し出した。


「煮た林檎のほうが好きなのではなかったか」

「焼いたのも、煮たのと同じくらいやわらかいです」


 王太子は林檎をかじって、熱さに目を白黒させていた。


 的当ての屋台では王太子が三本目を真ん中に当て、娘は五本のうち三本を続けて的に当てた。ガレスが娘の肘の高さを一度だけ直した。

 ガレスにつつかれて俺も弓を取った。一本目は屋台の日よけに刺さった。三本目は親父の足元の桶に飛び込んで、水を跳ね上げた。

 娘が声を上げて笑った。王太子は口元を押さえて肩を揺らしていた。俺は帽子のつばを直した。直しながら、自分も少し笑っているのに気づいた。


 日が落ちて、灯籠に灯が入った。


 通りの端から順に紙の中で火がともっていった。灯の列が人の頭の上を走って、橙色の天井ができた。歓声が上がった。娘が俺の指を握る手に力を入れた。


「一、です」


 娘は灯籠を見上げていた。それから俺の顔を見上げた。


「お父様は、さっきから空ばかり見ています」

「……灯籠を見ている」


 娘は何も言わずに、灯籠のほうへ顔を戻した。


 鐘が鳴った。


 祭りの鐘ではなかった。低く速く、続けて打つ鐘だった。別の櫓の鐘がそれに重なり、三つ目が重なった。打ち方が西を指していた。

 川沿いの空が、低いところから赤くなっていた。赤の上に黒い煙が立っていた。


 通りのざわめきが止まった。それから人が動いた。

 西から来る人の群れが灯籠の下を東へ押し寄せてきて、何が起きたのかを見ようと立ち止まった人の群れとぶつかった。


「壁へ」


 ガレスが王太子の肩をつかんで言った。俺は娘を引き寄せて、建物の壁に背をつけさせた。

 すぐ前の屋台の日よけに灯籠が落ちた。紐が切れたのだ。布が燃え上がり、日よけの柱が傾いて隣の荷車の上に倒れかかった。柱と荷車のあいだに、子供の背丈ほどの隙間が残った。その奥で小さな男の子が転んでいた。燃えている布が男の子の上へ垂れ下がりかけていた。


 最初に気づいたのは王太子だった。子供の目の高さで見ていたからだろう。俺に見えたのは、頭巾がそちらへ向いたところだった。

 後ろから押された男が一人、ガレスの背中に倒れ込んだ。ガレスがその男を受け止め、肩をつかんでいた手が緩んだ。


 灰色の頭巾が、その手の下から抜けた。


 王太子は柱の下の隙間へもぐり込んでいった。大人の肩の通らない隙間だった。ガレスが男を押しのけて腕を伸ばした時には、頭巾はもう柱の向こうにあった。


「殿下が、一人です」


 娘の声がした。

 人差し指から、娘の手が消えた。


「エレノア!」


 青い晴れ着の裾が柱の下に吸い込まれていった。俺は膝をついて腕を差し入れた。肩が柱につかえた。指の先に布が触れて、離れた。

 人の背中が両側から押し寄せて、隙間の前をふさいだ。荷車を回り込んだ時には、柱の向こうに燃えた布がくすぶっているだけだった。灰色の頭巾も青いリボンも、転んでいた男の子も見えなかった。


 俺は人の中へ肩を入れた。

 腕を後ろからつかまれた。ガレスだった。


「決めたとおりにやれ」

「娘が」

「俺の坊主もだ。中で探すなと言ったのはお前だ」


 ガレスの顔は真っ白だった。指笛を二度鳴らした。人の向こうで部下が一人、手を上げた。


「一人は桟敷へ。もう一人は大通りを川へ下る。辻の桶を順に聞いていく」


 部下が人の流れに沿って動いていった。


 俺はいちばん近い辻の桶へ行った。青い布を腕に巻いた男が、迷子を二人預かっていた。どちらも娘ではなかった。


「銀と金のあいだの髪の娘と、灰色の頭巾の少年だ。桟敷の子だと言って来たら、桟敷へ知らせてくれ」

「へい。次の辻にも回します」


 男は隣の男に言い、その男が次の辻へ走った。話が辻から辻へ渡っていくのが見えた。


 桟敷から走り使いが来た。ミーナの石板の写しだった。

 北の辻、迷子三人。どれも違う。東の辻、迷子一人。違う。


 俺は次の辻へ行った。また違った。その次の辻も違った。

 煙が通りの上に流れてきていた。灯籠の明かりが煙に滲んで、ぼやけた。目が痛んだ。


 決めたとおりにやっている。辻の桶は迷子を預かり、知らせは桟敷へ届いている。

 だが、娘はどの辻にも来ていなかった。


 四つ目の辻で、桶の番が言った。


「頭巾の坊主なら見ました。ちっこいのを背中に負ぶって。青い服の嬢ちゃんが一緒で、あっちの細い道へ下りていった。こっちの辻は人で詰まってて、来られなかったんでしょう」


 男が指したのは、建物と建物のあいだの細い下り道だった。

 地図にはあった。桶屋の老人と決めた路地の中には入っていなかった。その先には桶もなかった。


 あの道がどこへ下りていくのかは知っていた。川の、火元より東の石段だ。

 川沿いの空が、さっきより赤かった。


 俺はその下り道へ入った。ガレスの部下に声を掛ける余裕はなかった。それでも一度だけ振り返って、桶の番に言った。


「桟敷に知らせてくれ。川への細道だと」


 坂の下から人が上がってきた。荷を背負った者、子供を抱えた者。俺はその流れに逆らって下りた。

 煙の匂いが濃くなっていった。

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