大火を覚えている
夏の初めに娘が紙を一枚持ってきた。
――おまつりでしたいこと
――一、灯籠に灯が入るところを見る
――二、屋台で、自分のお金で一つ買う
――三、人形芝居
――四、的当て
――五、春の市でできなかったこと(ぜんぶ)
「五は、一から四と同じではないのか」
「同じのもあります。でも、春の市で何ができたのかは行っていないので分かりません。分からないので、ぜんぶです」
理屈は通っていた。俺は紙を返した。娘は四つに畳んで前掛けの隠しにしまった。
その日の夕方、王妃から書状が届いた。祭りの最後の夜に王家の桟敷へ、公爵と令嬢をお招きしたい。王太子殿下もお待ちしている。
ガレスの手紙が同じ便で来ていた。
――殿下は今年こそ下を歩きたいと王妃殿下に頼んでいる。去年も一昨年も桟敷から見ていただけだそうだ。
*
その夜、書斎で娘の紙の写しを手帳に挟もうとして、手が止まった。
祭り。夏。王家の桟敷。
妹の部屋の画面を思い出した。学院の夜の庭で噴水の縁に金の髪の青年が腰掛けている。十七のレオンハルトだ。下の枠に台詞が一行ずつ流れていた。
――十歳の夏だった。祭りの夜に、大火があった。
――私は王子なのに、何もできなかった。燃えていく町を、桟敷の上から見ていることしか。
そのあとで一枚の絵が出た。夜の空が赤い。手前に王宮の塔の影が黒く切り抜かれていて、その右手の空が朱を流したように染まっていた。
妹は「ここで好きになる人多いんだよ」と言った。俺は「重いな」と言った。それだけだった。
殿下は去年の春の茶会で九つだった。今年の夏で十になる。
今年が、その夏だ。
手帳に日本語で書いた。
十歳の夏。祭りの夜。大火。王子は桟敷の上。
その下に分からないことを書いた。
三晩のうちのどの夜か。
町のどこか。
どれほど燃えて、何人死ぬのか。
なぜ火が出るのか。
絵の空は塔の右手が赤かった。だが、その絵がどこから見た絵なのかが分からない。桟敷からなのか、王宮の窓からなのか。妹の肩越しに見ていた俺はそんなことを考えたこともなかった。
前の会社で危ないことの一覧表を作らされたことがある。起きる時期、場所、見込み、起きた時の痛手を一行ずつ埋める。俺の手帳の一行は痛手の欄にしか字が入っていなかった。
娘を連れていくのはやめようと思った。
ゲームの王子は桟敷の上から見ていた、と浮かんだ。だから桟敷なら大丈夫だ、と続けそうになって止めた。分かるのは、あの王子が十七まで生きていたことだけだ。桟敷のほかの誰が無事だったのかを、ゲームは言わない。十五までは無事だと誰が決めた、と前にも自分に言ったはずだった。
行くかどうかは、今ここにある物で決めることにした。桟敷がどこに組まれるのか。どの階段から下りて、どの路地へ抜けられるのか。火が出た時に誰が娘の横にいるのか。それを確かめてから決める。
春の市は、考えておくと言ったまま終わらせた。今度は行こうと言った。言った約束を守るために、確かめることを先に済ませる。
町のほうは別の話だった。娘を家に置いても、町は燃えるかもしれない。燃える町の中には、娘と同じ年の子が何百人もいる。
手帳を閉じた。左手の指が少し震えていた。
*
王都の火消しを差配する役所は大聖堂の裏の通りにあった。
役所の長は五十がらみの男で頬に古い火傷の跡があった。壁の王都の地図には火の見櫓のところに赤い印が打ってある。
祭りの夜の火の番を増やせないかと聞くと、長は丁寧に答えた。
「祭りの三晩は毎年、櫓に二人ずつ。火消し組は鐘一つで出られるよう詰所に待たせております。何か、お聞き及びのことがございますか」
「ない」
本当の理由は言えなかった。妹の部屋で十七の王子から聞いたとは言えない。
だから、言える理由を先に集めてきた。
「今年はひと月雨が降っていない。セバスに井戸を見させたら、どの町でも綱が去年より二尋長く要るそうだ。それから、灯籠の組合に聞いた。王家の夜の灯籠の注文が、去年の倍だ。紐の本数も倍になる。川沿いの倉には秋の船を待つ油と麻が入っている」
長は黙って聞いていた。それから机の上の古い帳面を引き寄せて、何枚かめくった。
「去年の祭りは屋台の日よけが二つ燃えました。一昨年は灯籠が三つ落ちております。どれも鐘を鳴らすほどではございませんでしたが」
長は帳面を閉じた。
「櫓の番を三晩とも三人にいたします。それは役所の裁量でできます。ですが、人を雇う金は王都からは出ません」
「人と桶は、私の金で置く。それは構わないか」
「構いません。ただ、雇い主が誰でも、火が出れば役所の鐘に従っていただきます。公爵家の雇いでも、鐘が西を指せば西へ走る。それでよろしければ」
「それでいい」
長は帳面に一行書き足した。乾き、灯籠、倉、と書いたのが逆さまに読めた。
理由の欄は埋まった。埋めた理由はどれも本当だった。いちばん大きい理由だけが、欄のどこにもなかった。
*
川沿いの町の組頭は桶屋の老人だった。
ガレスに連れられて会いに行くと、老人は仕事場の土間で樽の箍を締めながら話を聞いた。大通りの商人の組頭も呼んであった。
俺は地図を広げた。
「どこで出るかは分からない。だから辻ごとに置きたい」
「辻ごと、ですか」
桶屋の老人は箍の槌を置いた。
「火はたいがい川っぺりから出ますよ。倉の火の不始末か、屋台の油か。大通りは灯籠が落ちても人が多いから、すぐ誰かが踏み消す。川っぺりは祭りの夜は人が少ねえ。気づくのが遅れる」
ゲームの絵より、この老人の四十年のほうが当てになる。俺は地図の川沿いに印を増やした。
決めたことは四つあった。
大通りと川沿いの辻ごとに水桶を三つ置き、鳶口を持った者を一人つける。桶と男の腕には目印に青い布を巻く。
大通りから川へ下りる路地の口には屋台を出さない。逃げ道にする。商人の組頭は渋い顔をしたが、三つの屋台を別の場所へ移すことを呑んだ。
迷子は青い布のところへ。桶の番が預かって近くの詰所へ渡す。週の祈りの日に各教区の司祭から言ってもらう。
桟敷と詰所のあいだに走り使いを置く。
「青い布のところに迷子をやるって話は、町の者にも分かりやすい」
桶屋の老人が言った。
「川っぺりの石段にはパン屋がいくつも屋台を出すんでね。あそこのがきどもにも言っときます」
*
厩舎の二階でガレスが瓶の栓を抜いた。セバスもいた。
「なんで今年なんだ」
ガレスが聞いた。
「乾いてるのも灯籠が倍なのも本当だ。役所の長に言ったのは全部本当だろう。だが、お前がそれを調べ始めたのは、娘の紙を見た次の日だ」
俺は答えなかった。
ガレスはしばらく俺の顔を見て、それから目を逸らした。
「言えねえなら、それでいい」
杯に酒を注いで俺のほうへ押してよこした。
「桶屋の爺さんは、俺の親父の代からの知り合いだ。あの爺さんが言うことは聞いとけ」
「聞いた」
「なら、いい」
セバスは帳面を開いていた。桶と人と布の数をもう一度足して、何も言わずに閉じた。
*
祭りの三日前に灯籠の試しがあった。
大通りから川沿いまで、渡した紐に灯籠を吊るして一度だけ灯を入れてみる。俺はガレスと川沿いの辻にいた。
日が落ちて、灯の列が通りの上を走っていった。
川へ下りる角で灯籠が一つ紐から外れた。
落ちた先は試しのために出してあった屋台の日よけだった。布に火が移った。日よけの縁が橙色に縮れて、煙が上がった。
俺が一歩出るより先に、青い布の男が鳶口で日よけの柱を引き倒した。燃えている布が石畳の上に落ちた。隣の男が桶の水を浴びせた。もう一人が二つ目の桶を浴びせた。
煙が白くなって、消えた。
鐘は鳴らなかった。
あとから走ってきた役所の長が、濡れた布の燃え残りを靴の先で返した。
「布の端だけで済みました。桶がここになけりゃ、詰所から来るまでに隣の屋台まで行っていた」
長はそれだけ言って俺に頭を下げた。
俺は焦げた布を見ていた。
これだったのか、と思った。思ってすぐに、分からない、と思った。ゲームの王子は大火と言った。これは大火ではない。だが、桶がなければ大火になったのかもしれない。祭りの夜にはまた別の火が出るのかもしれない。
分からなかった。
一覧表の一行はまだ痛手の欄にしか字が入っていなかった。
*
屋敷に戻ると娘が廊下で青い晴れ着を胸に当てていた。
ミーナが祭りの夜のために仕立て直したもので、夏の空のような青だった。リボンも同じ青にするのだと娘は言った。いつもの薄荷の緑ではない。
「お父様。あと三日です」
「ああ」
「お父様の帽子は、生垣から見えていた帽子ですか」
「……あれしかない」
娘は少し考えてから言った。
「では、わたくしがお父様を見失うことはありませんね」
娘は晴れ着を抱えて部屋へ戻っていった。
桟敷の図は、ガレスを通して王宮の普請役から見せてもらってあった。大通りの真ん中に組まれ、裏に階段が二つある。どちらも大通りの裏の路地へ下りられて、その路地の口には屋台を出させない。桟敷では娘の横に俺とミーナがいて、近くにガレスがいる。
それを全部確かめてから、行くと決めた。決めたあとも、手帳の一行の空いた欄は空いたままだった。
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