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悪役令嬢の父親に憑依した俺、娘を見捨てる未来だけは絶対に認めない  作者: 白川 透


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母の首飾り

(エレノア)


 お父様が北から帰ってきたのは雨の日でした。


 外套は泥で茶色くなっていて顎に髭が少し伸びていました。お父様は玄関の広間で外套を脱ぐより先に、胸の内側から畳んだ紙を出しました。封がしてありました。


「先生からだ。お前に」

「お父様は」

「読んでいない。先生が封をした。お前のと同じにすると言っていた」


 わたくしは両手で受け取りました。封の上にわたくしの知らない形の印が押してありました。


「先生は、お元気でしたか」

「元気だった。指がインクで黒かった」


 お父様はそう言って髭を手でこすりました。似合っていないと言おうと思いましたが、言いませんでした。お父様の目の下が、外套と同じくらい疲れた色をしていたからです。


*


 お手紙は自分のお部屋で一人で読みました。


 二通目のお手紙でわたくしは三つ聞きました。

 お母様はどんな声でしたか。

 お母様は灯守りの星のほかに何が好きでしたか。

 お母様はどうして死んだのですか。


 三つ目を書いたからお父様には読まないでくださいと言ったのです。お父様にお母様のことを聞くとお父様は悲しい顔をします。悲しい顔をさせたくないのと、本当のことを知りたいのが、両方ありました。


 先生のお返事は一枚でした。細い字が少し右へ傾いていました。


 ――お母様のお声は、少し低うございました。笑う前に息を一つお吸いになる方でした。

 ――灯守りの星のほかには、雨の日の露台と、薄荷の匂いと、お嬢様のお昼寝の寝息がお好きでした。

 ――三つ目のお尋ねには、わしにも確かなお答えがございません。確かでないことを紙に書くわけにはまいりません。いつかお目にかかれた時にお父上とご一緒にお話しいたします。


 わたくしは三つ目の行を、指で二回なぞりました。


 確かなお答えがない、ということは、病気だと決まってはいないということです。病気なら、病気でしたと書けばいいのです。そう思ったら、おなかの奥が少し冷たくなりました。

 でも先生は、分からないことを分かったようには書きませんでした。

 このことはまだ誰にも言わないでおこうと決めました。お父様に言えば、お父様はきっと悲しい顔をします。先生はお父様と一緒にと書いてくれたので、その時まで持っておきます。


 お手紙を畳んで引き出しのいちばん奥にしまいました。

 それから、薄荷の鉢のところへ行って、葉を一枚ちぎって匂いをかぎました。お母様が好きだった匂いでした。


*


 八つの誕生日の午後、お父様がお母様のお部屋へ来るようにと言いました。


 お母様のお部屋には五つの時から何度か入っています。家具にはまだ白い布がかかっていて、窓を開けると乾いた草の匂いがします。肖像は窓の向かいの壁にあって、お母様は椅子に座って、笑い出す少し前の口をしています。

 ミーナが窓を開けました。お父様は小さな布の包みを持っていました。


「座りなさい」


 お父様は肘掛け椅子の布をめくって、わたくしを座らせました。お母様がご本を読んでいた椅子です。わたくしの足はまだ床に届きませんでした。

 お父様はわたくしの前に膝をついて、包みを開きました。


 細い銀の鎖でした。

 鎖の先に銀の環が一つ下がっていました。指輪より少し大きくて、石も彫りもない、ただの丸でした。


 わたくしは肖像を見ました。

 お母様の首に、同じ鎖と、同じ環がかかっていました。


「……お母様の」

「そうだ」


 ミーナが窓のそばで小さく息を吸いました。


 五つの時に初めてこのお部屋に入った時、宝石箱にこの環はありませんでした。お父様が聞くとセバスは存じませんと答えました。

 なくなったのだと思っていました。


「どこにあったのですか」

「前の私が仕舞っていた。今は、私が鍵のかかる所に置いている」


 お父様は鍵の場所は言いませんでした。わたくしも聞きませんでした。


「触ってもいいですか」

「いい」


 環を手のひらに載せました。

 冷たかったです。持っているうちに少しずつわたくしの手と同じ温かさになりました。思っていたよりずっしりしていました。


 わたくしは鎖を両手で持って首にかけてみました。

 環は、おなかのところまで下がりました。


 肖像のお母様の環は鎖骨の少し下にあります。わたくしのは、前掛けの紐のあたりで揺れていました。

 椅子から下りて二歩歩いてみると、環がおなかに当たってこつんと鳴りました。三歩目で肘掛けにぶつかってまた鳴りました。わたくしは環を手で押さえました。押さえたまま歩くと片手がふさがりました。これでは畝の草も抜けません。


 ほしいと思いました。

 とても、ほしいと思いました。お母様がいつも着けていた物です。


「奥様は、お休みの時もお外しになりませんでした」


 ミーナが窓のそばで言いました。わたくしを見ないで肖像を見ていました。


 わたくしは環を押さえたまま、しばらく立っていました。外したくありませんでした。でも、着けたままどこへ行けばいいのかも分かりませんでした。


「お父様。先生のお返事に、書けないことがありました」


 お父様の顔が、ほんの少し動きました。


「私も、全部は聞いていない」


 白い薔薇の挿し木の前で、分からないのはいやですと言った時、お父様は、私もだ、と言いました。今のお父様は、その時と同じ顔をしていました。答えを持っていない人の顔でした。

 だからわたくしもそれ以上は聞きませんでした。


 わたくしは鎖を首から外しました。両手でお父様のほうへ差し出しました。


「まだ、お父様が持っていてください」


 お父様は受け取りませんでした。わたくしの手の上の環を見ていました。


「お前の物だ。いつ渡してもいい」

「はい。でも、今はまだ、おなかのところです」


 自分で言って少しおかしくなりました。お父様の口のはしも少し動きました。


「お母様のところまで届くようになったら、ください。わたくしが、自分で決めます」


 お父様は長いあいだわたくしを見ていました。

 それから環を受け取って布で包み直しました。


「分かった。それまで、私が預かる。家の外へは出さない」


 お部屋を出る前にもう一度肖像の前に立ちました。


「お母様。わたくし、八つになりました」


 お母様は笑い出す少し前の口のままでした。笑う前に息を一つ吸う方だったと、先生は書いていました。わたくしも息を一つ吸ってみました。

 何も起きませんでした。それでいいと思いました。


 扉のところでお父様が言いました。


「エレノア。夏に、王都で祭りがある」


 わたくしは振り向きました。


「灯籠を何百も通りに吊るして、三晩続く。屋台も出る。……行くか」


 お父様は考えておくとは言いませんでした。

 春の市の時は考えておくと言いました。考えているうちに春の市は終わってしまいました。


「行きます」


 すぐに言いました。お父様が考え直す前に言わなければいけないと思いました。

 お父様はうなずきました。


「では、行こう」


 ミーナが窓を閉めながら横を向いて笑っていました。

 わたくしはその日の夜、寝台の上で指を折って数えました。夏まで、あと何十日あるのか、数えきれませんでした。

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