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【1万PV突破】悪役令嬢の父親に憑依した俺、娘を見捨てる未来だけは絶対に認めない  作者: 白川 透


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星の名を教えた人

 雪が解けて十日目に王都を出た。


 北街道を五日行った。宿場ごとに馬を替え、六日目の朝に最後の宿場を出ると道は街道から分かれた。

 分かれた先は山の斜面に貼りつくような細い道だった。右手は岩の壁で、左手には何もない。日の当たらない折れ目にはまだ雪が残っていて、その外側は灰色の斜面がそのまま谷へ落ちていた。

 馬が一頭ずつしか通れなかった。ガレスが先に立ち、俺が続き、騎士が二人後ろについた。


「お一人でって書いてあったのは、中のことだろ」


 出る前にガレスはそう言った。


「道まで一人で行かせるか。門の外までは俺が行く」


 三つ目の折れ目を曲がったところで、ガレスが馬の上で顎をしゃくった。

 道のずっと上に灰色の塔が見えた。山の肩に石の建物が貼りついていて、その上に四角い鐘楼が一本立っている。


 俺は手綱を引いていた。


 見たことがある。岩の壁と崖の間を登っていく細い道と、その先に小さく描かれた灰色の鐘楼。

 妹のゲームの一枚絵だった。

 断罪のあとに文字だけの画面が何枚か続き、その次に一枚だけ絵が出る。雪の崖道を黒い馬車が一台登っていく。窓は閉まっていて中は見えない。次の画面はまた文字だけだった。国境へ向かう馬車は、崖から落ちた。

 俺はあの絵を背景の一枚としか見ていなかった。鐘楼が何なのかも、馬車がどこへ向かっていたのかも考えたことがなかった。


 十六の娘を乗せた馬車がこの道を登って、どこかの折れ目で落ちる。

 そして同じ道の先に、前の持ち主は奥方の学師を逃がしていた。


 左の縁から目が離せなかった。ガレスが馬を返してきて、俺の顔を見た。何も聞かずに水筒を差し出した。


「飲め。馬もそろそろだ」


 飲んだ。冷たい水が喉を落ちていった。

 俺は縁から目を外して、鐘楼のほうを見た。


*


 門の脇の小部屋で院長が待っていた。


 痩せた白い眉の男で、灰色の僧衣の袖口が擦り切れていた。ガレスと騎士たちは門の外に残った。院長は俺が一人で入ってきたのを見てから扉を閉めた。


「お手紙の主は、文庫におります。お会いになる前に、一つだけお尋ねするよう頼まれました」


 院長は袖から小さな紙を出して読んだ。


「お嬢様が二つの春に、奥様と二人でなさったことは何か」


 書斎の隠し棚に布の包みと一緒に入っていた紙を思い出した。


「手形を押した。墨で。紙の端に奥方の字で、二つの春、エレノア、と」


 院長は紙を畳んで袖に戻した。


「あの紙は奥様が旦那様にお渡しになったもので、お屋敷でも旦那様のほかには知る者がないはずだと、あの方は申しておりました」

「もし、私が大勢を連れてきていたら」

「そのような学僧はおりませんと申し上げて、お帰りいただくところでした」


 院長はそれだけ言って立ち上がった。俺は頭を下げた。院長は少し目を見開いて、それから会釈を返した。


*


 文庫は石の階段を下りた先にあった。


 天井の低い長い部屋で、壁という壁が棚だった。窓は一つだけで、その下の机に開いたままの大きな本と写しかけの紙があった。火の気はなかった。

 机の向こうに老人が一人立っていた。


 白い髭が胸の上まで伸びていた。古い毛織りの肩掛けを羽織っていて、右手の指は爪の際までインクで黒かった。


「……旦那様」


 低い声だった。娘が覚えていたとおりの声だった。

 老人は長いあいだ俺を見ていた。顔ではなく、立ち方と手の置き方を見ていた。


「わしの知る旦那様は、ご自分でここまで来る方ではなかった。旦那様に頭を下げられたと、院長様が驚いて知らせてよこしました。そういう方でもなかった」

「熱を出した。三年前に」


 セバスやミーナに言ってきたことを、俺は同じように言った。


「起きたら抜けていることが多かった。あなたのことも、前の私が書いた物を読むまで知らなかった」


 老人は黙っていた。それ以上は聞かなかった。


 俺は外套の内側から娘の二通目を出した。封は奥方の星の印だった。

 老人は封を見て、それから俺を見た。俺は首を横に振った。


「読んでいない。読まないでくれと言われた」


 老人は窓のほうを向いて封を切った。しばらく動かなかった背中が、一度だけ大きく震えた。インクで黒い指が紙の端を握っていた。


 俺は扉の内側に立ったまま待った。


 長い時間がたって、老人は手紙を畳んで胸の内側にしまった。振り向いた目が赤かった。


「オズワルドと申します。奥様のお里から、奥様に付いてまいりました」


 オズワルドは机の脇の椅子を俺に勧めた。


「お嬢様をお抱きしたのは、露台でございました。奥様の青い肩掛けにくるんで。三つにもならないお子に星の名を教えてくれと、奥様が。ご自分のお加減が悪くなってからは、わしが代わりに」

「娘は、髭のことを覚えていた。顔は覚えていないと」

「顔など」


 オズワルドは髭を一度撫でた。


「星の名を覚えていてくださるなら」


 俺は聞かなければならないことを順に聞いた。


「前の私があなたをここへ逃がした。それは書いてあった。なぜ戻らなかった」

「戻るなと言われたからです」


 オズワルドはすぐに答えた。


「奥様が亡くなってひと月ほどで、旦那様に呼ばれました。お前は奥様の調べを手伝っていた。あちらはそれを知っている。屋敷にいれば口をふさがれる。解雇の形で出す。便りは春に一度、名を書かずに。私が呼ぶまで、戻るな」

「呼ばなかったのか」

「一度も。……わしは毎年、祈りの文を出しました。返事はないのが約束でした。去年の冬に名のない手紙が来た時、旦那様のお字ではなかった。子供の字でした」


 オズワルドは机の上の写しかけの紙に目を落とした。


「罠かもしれんと思いました。封は奥様の星の印で、添えてあった一行はセバス殿の字でした。院長様を通る道なら、誰の手を通ったかも院長様に分かる。それだけ確かめても、罠でないとは言いきれません」


 オズワルドは紙の端を指でそろえた。


「それでも、奥様のことを知りたいと書いてあった。書かずにはおれなかった」

「戻れなかったのは、それだけか」


 オズワルドはしばらく黙った。


「お屋敷の中に、あちらの目がある。旦那様はそう申されました。誰の目かは、わしには分かりません。分からんうちは、わしが戻ればお嬢様のそばに火種を一つ増やすだけです」


 それから、もっと低い声で言った。


「それに、わしは奥様をお守りできなかった男です。一人だけ逃げて、五年ここで本を写しておった。そういう者が、今さらお嬢様の前に顔を出せるものではない」


 前の持ち主の記録にも同じことが書いてあった。この家の内に、あちらの目がある。

 俺はまだその目を見つけていない。


「奥方は、何を調べていた」


 オズワルドの手が髭の上で止まった。


「奥様のお里はフェルゼンと申します。古い家で、今は名だけが残っております」


 オズワルドの声が講義をする声になった。


「この国の王は戴冠の日に、大聖堂の地下で建国の誓いを継がれる。王冠の内側に銀の環がありましてな。王がそれに手を置いて誓い、その場に立ち会う者が環に触れる。立ち会うのは、昔からフェルゼンの血を引く者の役目でした。誓いを守る家、誓守と申します」

「それで、銀の環か」

「家の印です。奥様の首飾りも」


 隠し棚の布の中の環を思い出した。前の持ち主はあれを外へ出さない、棺にも入れないと書いていた。


「奥様はお父上を看取られた時に、あることをお聞きになった。それから大聖堂の文庫に何度も通われて、わしもお手伝いをしました。何をお聞きになったのかは」


 オズワルドは髭から手を下ろした。


「申し上げられません。知る者は少ないほどいい。お嬢様のためです」

「私が知らないほうが、娘は安全か」

「今は、そうです」


 この老人も、記録の中の前の持ち主と同じことを言っている。

 だが、知らないまま守れと言われても守り方が分からない。毒の菓子の時も、俺は分かっていない所から突かれた。


「全部は聞かない。だが、守るために要ることは教えてくれ。娘にさせてはいけないことは何だ。誰に話すと危ない」


 オズワルドはしばらく考えていた。


「フェルゼンの名と誓守という言葉を、お屋敷の外でお嬢様に口にさせないでくだされ。王宮でも、大聖堂でもです。首飾りはお屋敷から出さない。奥様のお里のことを尋ねる者がおったら、その者の名を覚えておいてくだされ」

「理由は」

「奥様のお里の血を引く方は、今はお嬢様お一人です。それがお嬢様の身にどう関わるのかは、まだ申せません。わしにも確かめきれておらんことがある」


 名を出さない。首飾りを外へ出さない。尋ねる者を覚える。

 十分ではなかった。それでも、何も知らずに守るよりはましだった。


「一つだけなら」


 オズワルドは机の上の大きな本を指で叩いた。


「この院の年代記です。わしは今これを写しております。建国から百年余りのころ、疫病で王の血が絶えかけた年に、一度だけ誓いが結び直されたと書いてある。どうやって結び直したのかは書いてない。奥様はこういう行を探しておいででした。わしは、続きを探しております」


 何のための続きなのかを聞くと、オズワルドは首を横に振った。今日はそこまでだと思った。


 帰り際に、王都へ来てくれないかと言った。


「屋敷なら守れる。娘も会いたがっている」

「存じております」


 オズワルドは首を横に振った。


「巡礼の者が、ここまで噂を運んでまいります。去年の春、王宮の茶会で毒の菓子が出たと。その菓子は、お屋敷の厨房から出たと」


 俺は口を閉じた。守れると言ったのは俺だった。守れなかった箱のことを、この老人は雪の向こうで聞いていた。


「旦那様が、お屋敷の中の目をお確かめになったら。その時に、もう一度お声をかけてくだされ」


 断られたのではなかった。条件を出されたのだと思った。


 ここが危うくなった時の知らせ方を決めた。院長がいつもの寄進の礼状の終わりに、写本の仕上がりが遅れますと一行書き添える。寄進は十七か所とも同じ額のまま続ける。一か所だけ増えれば、分かる者には分かるからだ。


 最後に、オズワルドは首飾りのことをもう一度口にした。


「お屋敷から出さないと申しましたが、仕舞い込んだままにするものでもございません。お嬢様のものです」


 オズワルドは少し間を置いた。


「いつか、お嬢様がご自分で選んで着けるものです」


 娘への返事はその場で書かれた。インクで黒い指が迷わずに動き、書き終えると乾くのを待って畳んだ。

 封をした。


「お嬢様が、読ませるなとお書きでしたので。わしの返事も同じにいたします」


 俺は封をした返事を外套の胸の内側に入れた。娘の手紙が入っていた場所だった。


*


 崖道を下りはじめると、谷は右手になった。


 俺は谷のほうを見なかった。前を行くガレスの背中を見ていた。

 フェルゼンは誓いを守る家で、銀の環はその印だった。奥方は何かを聞いて、それを調べていた。何を聞いたのかは分からない。


 知らないのはいや、と娘は言う。知る者は少ないほどいい、と老人は言う。

 どちらも娘のための言葉で、俺はまだどちらも選べなかった。


 ただ、一つだけは決めた。

 あの環は娘の母の物だ。仕舞ったままにしておく理由はあっても、娘に見せない理由は俺には一つもなかった。

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