雪の手紙
殿下が帰った夜、書斎でセバスに聞いた。
「エレノアが星の名を教わったと言っていた。髭の白い、声の低い老人に。夜に、高いところで抱いて」
セバスは燭台を机に置こうとして手を止めた。
「……オズワルド様でございましょう」
二年前の冬に記録を読んでからその名は手帳の最初の頁にあった。奥方の家から付いてきた学師で、奥方と一緒に家の古い記録を調べていた。奥方が亡くなったあと前の持ち主が解雇の形で約束の場所へ逃がした。
「奥様のご存命の頃、東の棟の露台で、よくお嬢様に星を見せておいででした。お嬢様はまだ二つか三つで、奥様の青い肩掛けにくるまれて。房の白い、あの肩掛けでございます」
セバスはそこで言葉を切った。
「お嬢様が覚えておいでとは、存じませんでした」
顔は覚えていないと娘は言った。髭が白かったことと、声が低かったことと、自分の手を星のほうへ向けてくれたことだけだ。それだけを四年あまり覚えていた。
この二年、俺は祈りの文が届くのを数えるだけでそれ以上は探さなかった。春に一通届けば生きている。探せば探した跡が残る。前の持ち主が守った道を、俺が踏み荒らすのが怖かった。
だが娘はあの人を覚えていた。顔は覚えていなくても手の向きを覚えていた。あの人のほうもきっと娘を覚えている。
「セバス。約束の場所を探したい。会えなくてもいい。言葉を一度だけでも行き来させたい」
セバスは燭台を机に置いた。炎が一度揺れてまっすぐに戻った。
「……かしこまりました」
*
手がかりは祈りの文だった。
記録には、便りは春の初めに一度だけ、名を書かない祈りの文を聖環教会の巡礼の便に託す、とあった。二年前の冬、記録を読んだ翌朝に俺はセバスに聞いた。屋敷に届く文は全部セバスの手を通る。その春にも名のない祈りの文が一通来ていた。去年の春にも今年の春にも来た。
三通とも机の上に並べてみた。
どれも一枚きりで文面はよく聞く家内安全の祈りだった。この家の小さき者に灯の加護を。差出人の名はない。字は細くて右へ少し傾いている。
セバスが書庫から奥方の昔の手習いの帳面を持ってきた。余白に誰かが朱で直しを入れてある。同じ傾きの字だった。
「オズワルド様の朱でございます」
字は合う。生きていることは三年続けて分かっている。
分からないのは場所だった。祈りの文は王都の大聖堂から巡礼の便の束で届く。束の包みには北の管区の司教の印しかない。管区の中のどの修道院から出たものかは、司教のところでまとめられた時に消えていた。
秋のはじめにガレスが騎士団の地図を持ってきた。北街道の三つ目の宿場から国境の手前まで、北の管区の修道院は十七あった。
「十七全部に、オズワルドはいるかと聞けばいいだろう」
「手紙は司教のところと大聖堂の書記を通る。名を書けば、通るところ全部に名が残る」
便りの道はたどられる道だ。前の持ち主は記録にそう書いていた。アンナに便りを禁じたのも、オズワルドに名を書かせなかったのも同じ理由だ。俺が名を書いた手紙を十七通出せば、四年守られてきたものを俺の手で壊す。
だからセバスが別の手紙を書いた。学問の書を寄進したい。写本の得意な学僧に古い書の写しを頼みたい。人を探しているとはどこにも書かなかった。寄進は修道院に直に届けてよく、必ず院長の名で礼状が返る。
秋の終わりまでに十七通の礼状がそろった。どれも院長の印があり、どれも丁寧で、どれも寄進への礼と写しを引き受けるという返事だけだった。三通に「当院の学僧が」とあったが、名はなかった。
十七の院長の印を帳面に写してそこで手が止まった。
届いた文面は分かる。書いた者の字も分かる。分からないのは十七のうちのどこかということで、それを聞く言葉をこちらは一つも持っていなかった。
*
初雪の前の晩、エレノアが書斎の扉を三回叩いた。
入ってきた娘は星図を抱えていた。夏からずっと寝台の脇に置いているものだ。机の前まで来て灯守りの星の頁を開いた。殿下の字で小さく名が書き込んである。
「お父様。あの髭のおじいさんは、誰ですか」
いつか聞かれると思っていた。思っていたのに答えを用意していなかった。
「……オズワルドという人だ。お前のお母様の先生だった。お母様と一緒にこの家に来て、お前が小さい頃はよく露台で星を見せていた。セバスが覚えていた」
「お母様の、先生」
娘はその言葉を口の中でくり返した。
「今は、どこにいるのですか」
「遠くの、安全なところだ。お母様が亡くなったあとに、危ないことがあるかもしれないから、そこへ行ってもらった」
「どこですか」
「分からない。北のどこかだということまでは分かった。そこから先が分からない」
嘘ではなかった。俺が決めたことではないということを、言わなかっただけだ。
「お手紙は、出せないのですか」
「名前を書いた手紙は出せない。手紙は途中で何人もの手を通る。誰が読むか分からない」
エレノアは星図の頁を見ていた。指が灯守りの星の上に置かれていた。
「名前を書かなかったら、いいですか」
「名前を」
「オズワルド先生とも、わたくしの名前とも書きません。先生にだけ分かることを書きます。露台と、灯守りの星のこと。それから、お母様のことを聞きたいです」
娘は顔を上げた。
「わたくし、お母様のことを、知っている人に聞いたことがありません。お父様とセバスとミーナのほかに」
すぐには返事ができなかった。
七つの子の手紙を北の十七か所に出す。名がなくても、ヴァレンシュタインの寄進に子供の手紙が添えてあれば、どこかで誰かが目を留めるかもしれない。
それでも娘の言うことには筋が通っていた。名を書かずに相手にだけ分かることを書く。手紙を読んだ者が露台と灯守りの星を知らなければ、ただの子供の手紙だ。
「書く前に、私が読んでいいか」
「はい。読んでください」
「名前と、家と、場所のことは一つも入れない。入っていたら書き直す」
「はい」
「それから、一つ聞いてほしいことがある。お前が小さい頃、露台で何にくるまっていたか。その色を返事に書いてもらう」
「わたくしは、覚えていません」
「覚えていなくていい。セバスが覚えている。返事にその色が書いてあれば、書いたのが先生だと分かる」
娘は少し考えてから頷いた。答えを知らない問いを人に出すのは初めてだったのかもしれない。
*
本文が決まるまでに三晩かかった。
一晩目は下書きで、俺が読んで二か所消させた。「北の」と「お屋敷の」だった。二晩目に清書を一通書き、三晩目に娘が最後の一行を足して本文が決まった。
それから十七通を写した。娘は書斎の机の端に自分の紙を置いて一晩に三通ずつ写し、六晩かかった。俺は向かいで帳簿を見ているふりをした。外ではその冬の最初の雪が降っていた。
――星の名を教えてくださった先生へ。
――ひがしの高いところで、あれが灯守りの星と教えていただいた子です。顔はおぼえていません。手を星のほうへむけてくださったことは、おぼえています。
――母のことを教えてください。母は、どの星がすきでしたか。
――それから、わたくしがそのとき何にくるまっていたか、色を教えてください。父が、そうすれば先生だと分かると言いました。
――おへんじは、父が読んでもいいです。父といっしょに読みます。
最後の一行は下書きにはなかった。娘が自分で足して俺に見せた。
七通目あたりから字がそろいはじめた。十二通目で「灯」の字を一度間違えて、紙ごと書き直した。十七通目を書き終えると、娘はペンを置いて指を一本ずつ開いたり閉じたりした。
封はセバスが小さな真鍮の印を貸した。星の形をしていた。
「奥様がお手紙の封にお使いだったものでございます。家の紋は入っておりません」
奥方の印ならあの人には分かる。この家の誰かが、奥方の物を預かったまま書いているということも。
娘は十七通に一つずつ星を押した。その下にセバスが自分の手で一行だけ足した。露台の灯は、今も同じ者が守っております。名は書かなかった。オズワルドがこの家にいた頃、毎晩露台の灯を見回っていたのはセバスだった。屋敷の書き付けも何年もセバスの字で回っていた。セバスの字ならあの人は知っている。
十七通は二度目の寄進の包みに一通ずつ入れた。
包みの外に見えるのは、ヴァレンシュタイン公爵家が北の十七の院に同じ額の寄進をしたことだけだ。寄進の控えは月ごとに大聖堂へ上がるから、それは隠せないし隠すつもりもなかった。十七か所に同じ額を出していれば、どこか一つが目立つことはない。
包みを開けるのは十七人の院長だ。セバスは院長宛ての手紙に、同封の子供の手紙は星の名にくわしい老いた学僧がおいでならお見せください、おいでにならなければ焼いてください、と書いた。返事があるなら礼状の下に別紙で添え、礼状と一緒に封をしてほしい、とも。
十七人の院長の目に子供の手紙が触れる。そこから先は院長を信じるしかない。安全だとは言えなかった。新しい道を作らずに済む、というだけだった。
*
礼状は冬の半ばから一通ずつ戻ってきた。
十六通目までは秋と同じ文面だった。娘の手紙を受け取ったと書いてある院もあったが、それだけだった。
娘は礼状が届くたびに書斎へ来て、俺が首を横に振るのを見て、「はい」と言って戻っていった。
十七通目はいちばん遅く、雪がいちばん深い頃に届いた。
国境のすぐ手前の、いちばん北の修道院だった。院長の礼状の下に灰色の粗い紙が一枚、二つに折って入れてあった。名はない。字は細くて右へ少し傾いていた。
――星の名を覚えていてくださった小さなお方へ。
――あの夜、お嬢様は奥様の青い肩掛けにくるまっておいででした。房は白でございました。
――奥様のいちばんお好きな星は、灯守りでございました。北の釘という名は、あとから付いた名です。
――前のお約束では、便りは春に一度、こちらからだけでございました。それを破ってこれを書きますのは、奥様のことを知りたいとお書きになった方がいらしたからでございます。
――ほかのことは、紙には書けません。雪が解けましたら、お父上お一人で、院長様をお訪ねください。院長様がお会いになってから、お目にかかるかどうかを決めさせていただきます。
俺はすぐには娘を呼ばなかった。
セバスを呼び、三つのことを確かめた。
院長の印を、秋に写した十七の印と比べた。いちばん北の院の印と同じだった。
字を奥方の手習いの帳面の朱と三通の祈りの文と並べた。右への傾きも「灯」の払いも同じだった。
肩掛けの色はセバスが言った。
「青で、房は白でございます。わたくしは、お嬢様にもミーナにも申しておりません」
三つとも合ったが、それで全部が分かったわけではない。誰かがあの老人の隣に立って書かせたのなら、字も色も合う。それは消せなかった。
向こうも同じことを考えている。院長が先に会うと書いてきたのは、こちらが本当にこの家の者かをあの人のほうでも確かめるためだろう。
「お一人で、とございますな」
セバスが言った。
「行くのは春だ。雪が解けてから。ガレスに道を聞く」
*
娘を書斎に呼んで灰色の紙を見せた。
エレノアは紙を両手で持って一行ずつ指でなぞって読んだ。読めない字のところで止まり、俺が読んだ。青い肩掛け、のところで娘の指が止まった。
灯守りの星、のところでも止まった。そこではしばらく動かなかった。
前のお約束を破って、の行も俺が読んだ。奥様のことを知りたいとお書きになった方。娘はそれが自分のことだと分かるまで少しかかり、分かると紙から顔を上げなかった。
「お母様も、灯守りが好きだったのですね」
「そう書いてある」
「わたくしと、同じです」
娘はそう言って紙を机の上に置いた。両手で角をそろえた。
それから顔を上げた。
「お父様は、春に行くのですか」
「行く。お一人で、と書いてある」
「わたくしも」
言いかけて娘は口を閉じた。灰色の紙の最後の行を、もう一度見た。
「……では、わたくしはもう一通書きます。お父様が持っていくお手紙です」
「いいのか」
「前のお手紙には、お父様が読んでもいいと書きました。でも、今度のは、お父様は読まないでください」
さっきと反対のことを言っている。娘もそれに気づいているらしく、少しだけ口の端を上げた。
「分かった。読まない」
娘は自分の紙を机の端に置いてペンを取った。俺は向かいで帳簿を開いた。
今度は本当に帳簿を見た。窓の外では雪がまだ降っていた。
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