王子殿下の謝罪訪問
王太子を屋敷に迎えるのに、セバスの書いた段取りは三頁あった。
「応接間でお迎えいたします。殿下がお詫びを述べられましたら、まず旦那様がお受けになり、それからお嬢様が」
「詫びを受けるのは娘だろう」
「はい。ですが、まず当主がお受けになる形でございます」
セバスは二頁目をめくった。
「そのあとお嬢様がお庭をご案内いたします。お帰りは鐘一つ分のうちに」
「私は」
「旦那様は応接間で、殿下の侍従の方のお相手を」
取引先の社長の息子が詫びに来る。応対は娘で、俺は先方の秘書と天気の話をする。そういう段取りだった。
「……分かった」
セバスは三頁をそろえて頭を下げた。分かった、の声が低かったことには何も言わなかった。
*
王太子は夏の昼過ぎに来た。
王家の紋のない地味な馬車で、前に騎士が一騎、後ろに二騎。前の一騎がガレスだった。
馬車から下りた少年は玄関の石段の下で一度立ち止まり、上着の裾を引いてまっすぐにした。春の半ばに薔薇の鉢を抱えて来た時より、また少し背が伸びていた。今日は何も抱えていなかった。後ろの侍従が布で包んだ四角い物を持っていた。
応接間で少年は勧められた椅子に座らなかった。
卓の前に立ったまま、俺とエレノアを順に見た。娘は俺の隣の椅子に座り、膝の上で手を重ねていた。
「ヴァレンシュタイン公爵閣下。エレノア嬢」
少年は右手を胸に当てて腰を折った。
「茶会のあと、調べの部屋で、私は見たことではないことを言いました。エレノア嬢はそんなことをしない、と」
声は裏返らなかった。何度も口の中で言ってきたのだろう。句切りの位置まで決めてある話し方だった。
「調査官がそれを調書から外しました。でも、私が言ったことは、部屋の外へ出ました。王宮で、私がエレノア嬢を庇ったという話になりました。『殿下のお気に入りだから調べが甘い』と言う人もいたそうです」
知っていた。セバスがよそのサロンの話として持ってきた。俺はそれを、茶会の噂の一つとして手帳に書いただけだった。
「私が言ったせいで、エレノア嬢がそう言われました」
少年はそこで一度息を吸った。
よくできた詫びだと思った。王宮の教育係が添削したのだろう。言うべきことが言うべき順に並んでいて、余計な言い訳が一つもない。
そう思いかけて、少年の手に目が行った。
両脇に下ろした手の指先が、上着の縫い目をつまんでいた。つまんだ指が白くなっている。右の手のひらが一度上を向きかけて、縫い目に戻った。春に娘の畝で、掘った穴と娘の指を見比べていた時にも同じ手を見た。
添削された言葉を言っているのは、九つの子供だった。娘の父親の前に一人で立って、自分のしくじりを自分で数えている。後ろにいる侍従は口を出さない。ガレスは扉の外だ。
俺はこの子に、怖い公爵の顔のまま座っていた。
「申し訳ありませんでした」
少年はもう一度腰を折った。今度は少し長かった。
詫びは受けた、とセバスの段取りにはある。俺はそれを言うつもりで口を開いた。この身体の声で言えば、受けてやったと聞こえるのは分かっていた。
「……よく、言いに来られた」
出てきたのは段取りにない言葉だった。春に迎えた時の「よく来られた」と、同じ低い声だった。それでも一語足しただけ、少年の肩が少し下りたように見えた。
「詫びは受けた。あとは娘に」
少年はエレノアのほうへ向き直った。
娘は椅子を下りて立った。二人の背丈の差は、春より少し開いていた。
「エレノア嬢」
「はい」
「申し訳ありませんでした」
「殿下が言ってくださった時、わたくしはうれしかったです」
娘は迷わずに言った。それから少しだけ間を置いた。
「でも、そのあとの噂は、いやでした。どちらも、本当です」
少年は娘の顔を見ていた。目をそらさなかった。
「……はい」
「殿下は、どうして言ってしまったのですか。見たことではないと、分かっていたのに」
少年の右手がまた上を向きかけた。今度は止めなかった。手のひらを上にして、胸の前で小さく開いた。左手も同じように開いた。
「父上に、六つの時に教わりました。手のひらは天秤の皿だと。こちらに見たことを載せる。こちらに、思ったことを載せる。二つを一緒の皿に載せてはいけない」
少年は右の手を少しだけ持ち上げた。
「あの時、私は思ったことを、見たことの皿に載せました。載せてから気がつきました」
エレノアは少年の両手を見ていた。それから顔を見た。
「今日は、殿下がご自分で来たいと思ったのですか」
少年は瞬きをした。
「……はい。母上は、止めなかっただけです」
「それなら、うれしいです」
少年はゆっくり手を下ろした。耳が赤くなっていた。
俺は座ったまま、少年の下ろした手を見ていた。
娘の畝でも調べの部屋でも、俺はこの手を見ていた。何をしようとしているのかは知らなかった。知ろうとしたことがなかった。
侍従が一歩前に出て、包みを少年に渡した。
「これを。お詫びの品です」
布の中は紺の革で装丁した大きな本だった。表紙に銀の点がいくつも打ってある。
「星図です。王宮の書庫にあるものの写しで、季節ごとに一枚ずつ。竪琴の星は、夏の頁の、いちばん高いところに描いてあります。夏の終わりの空なので」
「星図!」
エレノアの声が跳ねた。詫びを受けた時の声ではなかった。
娘は両手で本を受け取り、表紙の点を指でなぞった。それから膝の上で夏の頁を探してめくり、いちばん高いところを指で押さえた。
「ほんとうに、いちばん上です」
「調べ直しました。茶会のあとで」
「わたくしは、まちがっていませんでした」
「はい。私が、まちがっていました」
少年が言うと、娘は少しだけ顎を上げた。それから星図を閉じて胸に抱えた。
*
応接間で俺は侍従と向かい合って茶を飲んでいた。
侍従は三十前の生真面目な男で、王都の今年の麦の出来について話していた。俺は「そうか」と三回言った。
窓の外の西の畝のはしっこに、子供が二人しゃがんでいるのが見えた。白い薔薇の挿し木を見ている。少年が葉を指さし、娘が何か答えている。ミーナが少し離れて立っていた。
「失礼する。茶が冷めた頃だ」
俺はポットを持って立ち上がった。侍従が目を丸くした。
畝のそばまで行くと、少年が娘の如雨露を両手で持って、挿し木の根元に水をやっていた。娘が「そこまでです」と言い、少年がぴたりと止めた。春には鏝の先が娘の描いた丸からはみ出していた。今日は一滴もはみ出さなかった。
ミーナが俺の手からポットを取った。何も言わなかった。言わない顔のほうがよく分かった。
応接間に戻ると侍従が麦の話の続きを待っていた。子供たちは庭のあずまやへ移り、卓の上に星図を広げて額を寄せていた。
額が近い。
二度目は何も持たずに出ていった。
あずまやの階段の下まで来たところで娘の声が聞こえた。
「その星は、灯守りの星です」
「星図には北の釘と書いてあります」
「書いてあっても、灯守りです。昔、教わったのです」
「誰にですか」
「……分かりません。髭のおじいさんです。夜に、高いところで、抱っこしてくれて。あれが灯守りの星、あれが竪琴の星、って」
少年が黙った。娘も黙った。
星図の上で娘の指が止まっていた。
「顔は、覚えていないのです。髭が白かったのと、声が低かったのと。それから、わたくしの手を持って、星のほうへ向けてくれたこと」
「……それなら、灯守りの星なのでしょう」
少年は言った。
「その方がそう教えたのなら。星図の名と、別の名があってもいいと思います。……書き込んでもいいですか。もう、エレノア嬢の星図ですが」
「王宮の本の写しなのに、いいのですか?」
「写しは、もう王宮のものではありません。エレノア嬢がいいと言えば」
「では、書いてください。殿下の字で」
髭の白い、声の低い老人。夜に高いところで、まだ小さかった娘に星を教えた誰か。俺の知らない人だった。この屋敷で俺の知らないことは、二年たってもまだいくらでもある。
肩を叩かれた。ミーナがあずまやの階段を下りてきていた。
「旦那様。セバスさんがお呼びです。書斎で、急ぎのご決裁が」
書斎には決裁など一枚もなかった。
机の上には領地の去年の帳簿の束があった。セバスはそれを指して「お目通しを」と言って出ていった。扉が閉まり、閉まったあとで扉の外で椅子を引く音がした。
扉を引くと、少し開いて何かに当たって止まった。隙間から椅子の背が見えた。ミーナが座っていた。
「ミーナ」
「はい」
「扉が開かない」
「さようでございますか」
「そこに座っているからだ」
「はい。お嬢様のお客様でございますので」
ミーナはこちらを見なかった。
「あずまやには若い侍女がついております。殿下がお帰りになるまで、私はここで少し休ませていただきます」
来客中の会議室に部長がコーヒーを運び、二回目で秘書に資料室へ案内された。そういう形だった。
扉を閉めて机に戻り、帳簿を開いた。東の村の倉の修繕費が並んでいたが、数字は一つも頭に入らなかった。
窓が叩かれた。
書斎の窓は庭に面していて、腰の高さに外の石畳がある。そこにガレスがしゃがんでいた。片手で窓枠をつかんで、もう片方の手で窓を叩いている。
窓を開けると、ガレスは窓枠に腕を乗せた。
「殿下はあずまやでお嬢と星図だ。部下が二人、生垣の向こうにいる。俺は暇だ」
「帳簿を見ている」
「扉の前に侍女が椅子を置いてるのをな、閉じ込められてると言うんだ」
ガレスはしばらく俺の顔を見ていた。
「あの坊主は稽古場でもああだ。分からないことは分からないと言う。言われたことは次までに直してくる。今日のも、誰に言われて来たんじゃない」
「知っている」
「知ってるなら、なんでそんな顔で見る」
答えなかった。
「春にここで稽古した時もそうだった。坊主が構えるたびに、お前は坊主の手じゃなくて、その先を見てた。まだ振ってもいない一本を、先に止めに行く目だ」
ガレスは窓枠から腕を下ろして立ち上がった。
「やってもいないことで、九つを睨むなよ」
それだけ言って石畳を戻っていった。
窓は閉めなかった。夏の風が帳簿の頁を一枚めくった。
*
見送りは玄関の石段だった。
ミーナが書斎の前の椅子を抱えて廊下の奥へ戻っていき、俺はようやく書斎から出された。
エレノアは星図を胸に抱えて、少年と並んで石段を下りていった。庭を案内したのは娘だから、見送りも娘が先に立つ。セバスの三頁目にそう書いてあった。
石段の下で少年は俺に礼をし、エレノアにも礼をした。馬車のほうへ歩きかけて立ち止まった。
それから振り返って石段を上がってきた。三段、四段。下に残ったエレノアが目を丸くしていた。
少年は俺の二段下で止まり、俺を見上げた。
「公爵閣下。お聞きしてもよろしいですか」
低い声だった。石段の下までは届かない声だった。
「閣下は、なぜ私をお嫌いなのですか」
石段の下ではセバスが侍従と並んで立ち、ガレスは馬の手綱を握っていた。誰も上がってはこなかった。
嫌いなわけではない、と言えばよかった。
言えなかった。嫌いでないなら、なぜあんな目で見るのかと聞かれる。
「……お前が」
声が出た。この身体の、低い声だった。
「いつか、娘を泣かせるからだ」
少年は瞬きをした。それから少しも迷わずに言った。
「泣かせません」
誓いを立てる声ではなかった。当たり前のことを当たり前に言う声だった。手のひらはどちらも開いていなかった。
俺は何か言おうとした。何も出てこなかった。
少年はもう一度礼をして石段を下りていった。エレノアの前で一度立ち止まり、何か短く言った。娘が頷いた。
馬車が門を出ていくまで、俺は石段の上に立っていた。
エレノアが石段を上がってきた。星図を落とさないように一段ずつ。俺の隣まで来て言った。
「お父様。殿下に、何とおっしゃったのですか。下まで聞こえませんでした」
「……また来い、と言った」
「本当ですか?」
「……いや」
エレノアは眉を寄せ、それから星図を抱え直した。
「では、今度はわたくしが言います。また来てください、って」
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。
Xでも更新情報などを発信しています。
よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!
https://x.com/st_shosetsu




