途切れた紹介状
王妃の書状は茶会から十日目に届いていた。
淡い紅の封蝋を切ると、中は調べの記録の写しを短くまとめたものだった。箱は公爵家を出る前に一度開けられたと考えるのがいちばん筋が通ること。開けた者はまだ分からないこと。公爵令嬢に罪を問う理由は今のところ見当たらないこと。調べは続けること。
最後に一行だけ別のことが書いてあった。
――王太子殿下の妃の選定は、当面これを延期する。
読み終えて椅子の背にもたれ、長い息を吐いた。吐いてから自分が安堵していることに気づいた。
八つの子が芝の上で引きつって、娘が泣かずに調査官の前で話して、それで婚約が遠のいた。俺はそれにほっとしている。ヘルミーネの部屋の窓掛けが閉まったままなのを知っていてもだ。書状を持つ指が少し冷たくなった。
書状は伏せて引き出しにしまった。それが春の終わりのことで今はもう夏だった。
*
ベンノは見つからなかった。
門の番は二十日で騎士団の手から王都の衛兵に戻った。ガレスの部下は今も週に一度、砂糖屋と前の下宿と北門の宿を回っている。何もない、という知らせが週に一度届く。
そのあいだに俺はセバスと執務室の卓に紙を三枚並べた。
一枚目はハンスの紹介状だった。二年あまり前の冬に雇い、前の持ち主が倒れた翌朝に消えた従僕だ。保証人の商人にはあの春に使いを出した。紹介状に書かれた市場通りの店には別の者が入っていて、前の借り手は前の年の秋に出ていき行き先は分からなかった。市場の商人の組合の名簿にもその名はなかった。そこで止まったまま二年たっている。
二枚目はドーラの紹介状だった。下町の口入れ屋の印がある。店は調べの日の朝に戸を閉め、主人は消えた。
三枚目がベンノの紹介状だった。菓子職人組合の印。麦の穂を二本交差させた形。
「組合と、前の店と、司祭に、もう一度人をやったのだな」
「はい。今度はガレス様の部下の方にご同行いただきました」
セバスは控えを一枚ずつ読み上げた。
組合の書記は、紹介状は確かに組合が出したものだと前と同じことを言った。ただ、騎士がいたので組合の帳面まで出させた。去年の秋の終わりの頁にベンノの名で紹介状を一通出したとある。受け取りに来たのは本人ではなく、東の外れの口入れ屋の使いだった。手数料と早く出してくれという心付けを置いていった。口入れ屋が職人の書類を取りに来るのは珍しくないと書記は言った。
川向こうの菓子屋の主人は、ベンノは六年いて腕は確かだったと前と同じことを言った。そのあとで騎士に聞かれて付け足した。去年の夏、ベンノは酒場の裏の骰子で借りをこしらえた。秋口に知らない男が来てそれを全部払っていった。それからしばらくしてベンノは店を辞めた。いい口が見つかったと言っていた。
教区の司祭は、ベンノは毎週の祈りに欠かさず来たと言った。茶会の前の週まで来ていた。司祭が請け合ったのは人柄で懐のことは知らなかった。
「東の外れの口入れ屋は」
「茶会の日の昼過ぎに、主人が旅の包みを一つ下げて出ていったと、隣の桶屋が申しております。夕方に人足が三人来て、戸の鍵を開けて中の物を荷車で運び出しました。家主は家賃を半年分前に硬貨で受け取っておりました。証文の名の者は、書かれた通りには住んでおりません」
二年前と同じだった。こちらが店の名を知った時には店はもうない。
「二年前の口入れ屋と、同じ主人か」
「分かりません。あちらの主人の顔を覚えている者は、もう見つかりませんでした。証文の名も違います」
セバスは三枚目の紙を指でそろえた。
「三か所への照会は、三か所とも本当のことを答えておりました」
分かっている。
ベンノは本物の菓子職人で、本物の組合の紹介状を持って、本物の前の勤め先と本物の保証人を挙げた。照会は正しく動いて正しく答えを返した。この男が誰かということには。
誰がこの男の借りを払ったのか、誰が紹介状を取りに行ったのかは、照会の紙のどこにも出てこない。
前の会社で取引先の与信を見ていた頃を思い出した。届いた書類が本物でも、書類に欄のない借りは載らない。去年の数字が正しいことと、締めのあとで誰に金を借りたかは別の話だった。
三枚の紙の先はどれも同じところで切れていた。紹介状の後ろに名の分からない誰かがいる。たどって行った先はいつもこちらが着く前に閉まっている。
「ハンスの保証人の店にも、もう一度人をやってくれ。今度は商人を探すんじゃない。あの店の家主に、家賃を誰が払っていたか、どんな男だったかを聞く」
「東の外れの家主は、主人が自分で硬貨を持ってきた、愛想のいい男だったと申しておりました。同じことを、あちらでも聞くのでございますね」
「そうだ。顔の話が二つそろえば、比べられる」
「かしこまりました」
分かっていることの欄にまた一行増えた。分からないことの欄は減らなかった。
*
その週の終わりにミーナが一人の女を断った。
菓子職人の空いた口に応じてきた三十ほどの女で、南の男爵家の料理長の紹介状を持っていた。字は丁寧で紹介状の日付は先月だった。
セバスが決まりどおり三か所に人をやった。男爵家からの返事は七日で来た。当家の料理長は二年前の冬に亡くなっております、と。
「四人目でございます」
ミーナは執務室の入口で言った。断った者を数えるのはミーナの仕事になっていた。
「紹介状の字は、前の三人とは違いました。今度は字では分かりませんでした。照会で分かりました」
「よく断ってくれた」
「断ったのは決まりでございます。私は帳面に書いただけで」
ミーナはそう言ってから手に持っていた紙を卓に置いた。
「それから、厨房のことでございます。旦那様のおっしゃったとおり、荷の間は二人残すようにいたしました。出来上がった物は鍵のかかる戸棚に入れて、鍵は料理長が持ちます。誰がいつ何を戸棚から出したか、料理長が帳面に書きます」
「どうだ」
「穴だらけでございます」
ミーナは迷わずに言った。
「荷の朝は、二人残すと粉袋を下ろす手が足りません。料理長が腰を痛めると申しております。洗濯場の荷車は厨房の前の廊下を通ります。戸棚の鍵は料理長が一本だけ持っておりますので、料理長が熱を出したら、朝の菓子が出せません」
「……そうか」
「でも」
ミーナは紙の端を指で押さえた。
「旦那様は、穴の場所を聞いてくださるので。聞いていただけるうちは、ふさぎようもございます」
俺は紙を引き寄せてミーナの挙げた穴を一つずつ読んだ。荷の朝だけ厩から一人回す。洗濯場の荷車は厨房の前で止めずに通す。鍵はもう一本作ってセバスが預かる。
ミーナは帳面にそれを書き、それでもまだ二つ残っておりますと言って下がっていった。
屋敷の門は少しずつ固くなっている。
四人目が断られたのは決まりが動いているからだ。それは本当だった。
だが茶会の箱は、門を出たあとで王宮の手に渡り、王宮の女官が運んで、王宮の卓に置かれた。そこから先に俺の決まりはない。次に何かが来るのが俺の家の門からだとは限らない。よその家の箱かもしれない。王宮の厨房かもしれない。人の多い祭りの夜の屋台かもしれない。
屋敷の決まりは屋敷の中でしか動かない。
俺は王妃付きの調査官に宛てて手紙を書いた。荷の間に厨房に一人が残っていたこと。こちらで変えた決まり。照会の紙で分かったことと、分からなかったこと。最後に、候補の家の菓子を受け取ってから卓に出すまでの扱いについて、ご検討いただければと一行だけ添えた。命じることはできない。決めるのは王宮だ。調べの最中に当家の箱の責めを王宮へ回すように読まれないよう、当家の厨房の穴を先に書いた。
*
調査官への手紙を出して三日後、ガレスから封書が届いた。
いつもの月の知らせより早かった。開けると、ガレスの大きな字の下に、もう一枚別の紙が入っていた。
子供の字だった。行がまっすぐで一文字ずつ丁寧に書いてある。
――ヴァレンシュタイン公爵閣下。
――茶会のあとの私の失礼について、エレノア嬢と閣下にお詫びを申し上げたく、お屋敷に伺うことをお許しください。
――レオンハルト
ガレスの紙には一行だけ書いてあった。
――殿下が自分で言い出した。王妃殿下は止めなかった。
失礼。
俺は子供の字をもう一度読んだ。あの少年が茶会のあとでした失礼を、俺は一つも思いつかなかった。見たことを順に話して、話しすぎた一言を調査官に止められた。それだけだ。
机の上で手紙を伏せかけてやめた。伏せずにセバスを呼んだ。
「殿下がお見えになる。段取りを頼む」
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