帰りの馬車
エレノアが石段を下りてくるのが窓掛けの隙間から見えた。
入っていった時より歩幅が小さかった。ミーナが手を引いていた。門のところで娘は一度だけ屋敷を振り返り、それから前を向いて馬車まで歩いてきた。
顔は濡れていなかった。濡れていないことのほうが気になった。
御者が扉を開け、ミーナが先に娘を乗せた。エレノアは向かいの座席の窓際に座り、膝の上で手を重ねた。ミーナがその隣に座った。
「出してくれ」
馬車が動きだした。川沿いの道は石畳が古く、車輪が段差を拾うたびに座席が揺れた。
娘は窓の外を見ていた。
どうだった、と聞きかけて、やめた。
どうだったかは顔を見れば分かる。分からないのは中で何があったかで、それを聞けば娘はまた順に話すだろう。王宮で調査官の前でそうしたように。見たことを見たとおりに最後まで。
今日はそれをさせたくなかった。
「……ヘルミーネ様は、起きていらっしゃいました」
娘のほうから言った。窓の外を見たままだった。
「顔は白かったけれど、お話はできました。王妃様のお使いが来て、箱はお家を出る前に誰かが開けたかもしれないと聞いた、とおっしゃいました」
「そうか」
「わたくしがしたとは思わない、とおっしゃいました。でも」
エレノアの指が膝の上で動いた。
「わたくしの顔を見ると、口の中が薔薇の味になって、おなかが痛くなりそうになるそうです。だから、帰りました」
帰ったのか、帰されたのか。娘の言い方はそのどちらでもなかった。
俺の頭はすぐに動きだした。
お前のせいではない。それは何度も言った。箱は家を出る前に開けられたかもしれない。そこまでは王妃の名で伝わっている。伯爵夫人に詫び状を書く。家と家との形にして、こちらの調べの進み具合も添えて。ヘルミーネにはもう少し時を置いてから、娘の名で手紙を。
どれも段取りだった。段取りを並べれば娘の顔が戻るような気がしていた。
「エレノア」
「はい」
「お前のせいでは」
「知っています」
娘は言った。静かな声だった。
「お父様は、そう言いました。調べは、まだ続いていますけれど。ヘルミーネ様も、わたくしがしたとは思わないとおっしゃいました」
そこで娘の声が少しだけ揺れた。
「思わないと言ってくださったのに、ヘルミーネ様はおなかが痛くなりそうになるのです」
俺は口を閉じた。
言える言葉はあった。怖さは理屈では消えない。時がかかる。お前が悪いのではない。全部本当で、全部この子はもう知っていた。知っていて、それでも消えないものの前に座っている。
言葉を探すのをやめた。
揺れの合間に腰を浮かせて、向かいの座席へ移った。ミーナが黙って詰めて、娘の隣を空けた。座ると座席が少し沈んで、娘の肩が俺の腕のほうへ傾いた。娘はそれを直さなかった。
口のほうが先に動きそうになるので、膝の上で両手を組んだ。
川沿いの道を抜けると、馬車は東の広場の脇を通った。
広場では木の枠を組んだ屋台が解かれているところだった。板を荷車に積む男たちのあいだで、子供が二人しゃがんで地面から何かを拾っていた。落ちた飴の欠片かもしれない。
春の市は昨日で終わったのだと、御者台のほうから声がした。
エレノアがそれを見ていた。何も言わなかった。
考えておく、と俺は言った。考えないうちに春が終わった。
*
屋敷が近づいた頃、娘が口を開いた。
「お父様」
「ん」
「わたくし、しっぽの話をしようと思って、行ったのです」
俺は娘の横顔を見た。
「二本とも外に出ていたことと、誰かが箱を開けたかもしれないことを、順に話そうと思っていました。そうしたら、ヘルミーネ様は分かってくださると思いました」
「話したのか」
「話しませんでした。ヘルミーネ様が、掛け布をにぎっていたので」
娘は窓から目を離し、自分の膝を見た。指がスカートの布をつまんでいた。
「……でも、今も話したいです。話せば、分かってもらえる気がします。分かってもらえたら、わたくしは」
娘はそこで言葉を止めた。続きは言わなかった。
褒めたいと思った。褒めればこの子は、話したい気持ちのほうを間違いとして覚える。
「……そうか」
「はい」
「話さないで帰ってきたのは、難しかっただろう」
エレノアは少し考えてから頷いた。
「むずかしかったです」
それきりまた窓の外を見た。肩はまだ俺の腕に寄りかかったままだった。
「次は、どうする」
聞いてから、聞き方が悪かったかと思った。次、と言えば何かしなければならないように聞こえる。
だが娘はすぐに答えた。
「ヘルミーネ様が来ていいとおっしゃるまで、行きません。騎士の頬を見る約束も、待ちますと言いました」
「手紙は」
「手紙も、ヘルミーネ様が読みたいかどうか、分かりません」
伯爵夫人への詫び状のことを言いかけて、やめた。それは俺がしたいことで、向こうが望んでいることではないかもしれない。
向こうの条件で決める。娘はそれをもう自分で決めていた。
「分かった。待とう」
「お父様も、待ちますか」
「待つ」
娘はようやく少しだけこちらを見た。
「お父様は、待つのが苦手だと思います」
「……なぜ分かる」
「さっき、ずっとここをこうしていました」
娘は自分の鼻の付け根に指を当てて、ないものを押し上げる真似をした。ミーナが窓のほうを向いた。肩がわずかに揺れていた。
*
屋敷に着くと、玄関でセバスが待っていた。ガレスからの知らせは、と目で聞くと、セバスは小さく首を横に振った。ベンノはまだ見つかっていない。
エレノアは着替える前に庭へ出ていった。ミーナがあとを追った。
俺は玄関の石段から二人を見ていた。娘は西の畝のはしっこまで歩いていき、しゃがんだ。春の半ばに殿下と植えた白い薔薇の挿し木だった。
娘は葉を一枚ずつ指で裏返して見ていた。それから如雨露を取りに行き、根元に少しだけ水をやった。
水は土に吸い込まれてすぐ見えなくなった。娘はしばらくしゃがんだまま、それを見ていた。
俺は石段を下りて畝のところまで行った。上着の裾が土につかないように、娘の隣に片膝をついた。
挿し木の先に小さな葉が一枚増えていた。植えた日にはなかった葉だった。
「根が出たのだと思います。庭師が、葉が増えたら根が出たしるしだと言いました」
「そうか」
娘は葉の縁を指でなぞってから手を引っ込めた。
「お父様」
「ん」
「ヘルミーネ様のおなかは、いつ痛くなりそうにならなくなりますか」
分からない、と言うのに少し時がかかった。前の会社では、分からないと言う前に必ず見込みの数字を一つ添えた。添える数字がないことを、子供の前で言うのは初めてだった。
「分からない。侍医にも、たぶん分からない」
「分からないのは、いやです」
「私もだ」
エレノアは如雨露を両手で持ち直した。中にはまだ水が残っていた。娘はそれを畝の端の、まだ何も植えていない土にゆっくり撒いた。
「ここには、何を植えるのですか」
「お前が決めていい。お前の畝だ」
「では、考えておきます」
娘は言ってから俺の顔を見た。考えておく。俺が春に使った言葉だった。
娘の口から出ると、断るつもりの返事には聞こえなかった。
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