お見舞いの作法
(エレノア)
王宮から帰った次の朝、洗濯場の前を通った時にその話が聞こえました。
「ドレスラーのお屋敷の子に聞いたのよ。お菓子の箱から毒が出たって」
「それが、うちのお嬢様の箱だって?」
「そう。ほら、前にもお客の宝石がお部屋から出たって話があったじゃない。だから、また、って」
「やめなさいよ。あれは侍女がやったって、旦那様がはっきりさせたでしょう」
「わたしが言ってるんじゃないわよ。よそのお屋敷の子たちが言ってるの」
わたくしは洗濯場の角で立ち止まりました。干してある敷布の向こうなので、二人にはわたくしが見えませんでした。
また、と言っていました。
お部屋に戻って窓のそばの椅子に座りました。
王宮の客間で、お父様が調べで分かったことを教えてくれました。箱はお家を出る前に誰かが開けたかもしれないこと。誰かはまだ分からないこと。わたくしが何かを入れたという証はないこと。でも、調べはまだ続くこと。お父様は、わたくしのせいではないとも言いました。それでも、よそのお屋敷の人たちは「また」と言っています。
五つの時もそうでした。わたくしが盗っていないと分かったあとも、しばらくは噂が残っていたと、あとでミーナが教えてくれました。
ヘルミーネ様のお家でも、そう言っているのかもしれません。
そう思ったら、お見舞いに行きたい気持ちと行くのがこわい気持ちが、両方いっぺんに大きくなりました。
*
お返事が来たのは、それから二日目の朝でした。
ドレスラー伯爵夫人のお字で、短いお手紙でした。ミーナが読んでくれました。
娘がお会いすると申しますので、明日の昼過ぎに。長くはお控えください。わたくしも同じ部屋におります。
それだけでした。
ミーナは便箋をもう一度上から見てたたみました。
「お会いになってくださるというお手紙でございます。でも、お待ちしております、とは書いてございません」
「どういう意味ですか」
「奥様が喜んでお迎えくださるかどうかは、まだ分からない、という意味でございます」
わたくしは頷きました。分からないことは分からないままにしておくことにしました。
その日の午後は、何を持っていくかを考えました。
はじめはお菓子を持っていこうと思いました。お見舞いには甘いものがいいと本に書いてありました。厨房へ行って料理長に頼もうとしたところで足が止まりました。
ヘルミーネ様は、わたくしの家のお菓子で倒れたのです。
お花にしようと思いました。お庭の薔薇を切ってもらおうとして、それもやめました。倒れたのは薔薇園でした。
何も持たずに行くのは失礼な気がしました。でも、持っていけそうなものが全部あの日のものに見えました。
ミーナに聞くと、ミーナはしばらく考えてから言いました。
「何もお持ちにならなくて、よろしいと思います。お見舞いは品ではなくて、お顔を見に行くものでございますので」
「お顔を見たら、ヘルミーネ様はいやではないでしょうか」
「……それは、行ってみなければ分かりません」
ミーナは分からないことを分からないと言いました。わたくしは、それでよかったと思いました。
*
ドレスラー伯爵家のお屋敷は王宮の西の、川のそばにありました。
お父様は門の外の馬車に残りました。中にはわたくしとミーナで入る、とお父様が決めました。お父様が入ると、謝りに来たのか言い訳をしに来たのか、向こうが量りかねるからだそうです。
わたくしは謝りに来たのでしょうか。言い訳をしに来たのでしょうか。どちらでもないと思いました。でも、どちらでもないものの名前がわたくしには分かりませんでした。
玄関の広間で侍女の方が待っていました。伯爵夫人はいらっしゃいませんでした。侍女の方について二階へ上がりました。
ヘルミーネ様のお部屋は窓の大きなお部屋でした。
ヘルミーネ様は寝台の上で枕をいくつも背中にあてて座っていました。巻いていた髪は下ろしてあって、顔は白く見えました。寝台の横の椅子に伯爵夫人が座っていて、わたくしが入っても立ち上がらずに顔だけこちらへ向けました。
わたくしは膝を折りました。
「エレノア・ヴァレンシュタインでございます。ヘルミーネ様のお加減を伺いにまいりました」
「……どうぞ」
夫人はそれだけおっしゃいました。
侍女の方が寝台から少し離れたところに椅子を置いてくれました。わたくしはそこに座りました。ミーナは扉の脇に立ちました。
寝台のそばの小さな卓に、赤い薔薇が一輪だけ挿してありました。騎士の頬でした。
「お母様が、うちの庭から切ってきたの」
わたくしが見ているのに気づいて、ヘルミーネ様が言いました。
「見てると、おなかのことを忘れるから」
それからヘルミーネ様はわたくしを見ました。わたくしの手も見ました。何も持っていない手でした。
「来たのね」
「はい」
「王妃様のお使いが来たの。箱はあなたの家を出る前に、誰かが開けたかもしれないって。誰かは、まだ調べてるって」
ヘルミーネ様は掛け布のはしを指でつまんでいました。
「わたしは、あなたがしたとは思わない。あなた、自分で食べようとしてたもの。お母様も、もうヴァレンシュタインの子がって言わないわ」
夫人は何もおっしゃいませんでした。窓のほうを見ていました。
「でもね」
ヘルミーネ様の指が掛け布をぎゅっとにぎりました。
「あなたが部屋に入ってきた時、口の中があの味になったの。薔薇の。そしたら、ここが」
ヘルミーネ様はおなかに手をあてました。
「また痛くなりそうになったの。痛くないのよ。もう治ったの。でも、痛くなりそうになるの」
わたくしは膝の上で手を重ねました。
騎士の頬を見ても、ヘルミーネ様のおなかは痛くなりません。わたくしの顔を見ると、痛くなりそうになるのです。
ここへ来るまでに言うことを考えてきました。しっぽのことです。二本とも外に出ていたこと。誰かが箱を開けたかもしれないこと。わたくしは朝きちんと結んだこと。順に話せば、ヘルミーネ様はきっと分かってくださると思っていました。
でも、ヘルミーネ様はわたくしがしたとは思わないと言いました。そう思っていても、おなかが痛くなりそうになるのです。
それでも、話したいと思いました。話したら、ヘルミーネ様はもう痛くなりそうにならないかもしれません。わたくしも、もう苦しくなくなるかもしれません。口を開けかけました。
ヘルミーネ様の指は、まだ掛け布をにぎっていました。
「ヘルミーネ様」
「なに」
「来てしまって、ごめんなさい」
ヘルミーネ様は目を大きくしました。
「会うって言ったのは、わたしよ」
「はい。でも、わたくしの顔を見ると痛くなりそうになるのでしたら」
声がふるえそうになりました。ふるえないように手に力を入れました。
「わたくしは、もう帰ります」
ヘルミーネ様はしばらく何も言いませんでした。夫人がはじめてこちらを見ました。
それからヘルミーネ様が小さな声で言いました。
「……うん。帰って」
わたくしは椅子から下りて膝を折りました。
「騎士の頬を近くで見るお約束は、ヘルミーネ様がいいとおっしゃるまで待ちます。おっしゃらなくても待ちます」
ヘルミーネ様は返事をしませんでした。卓の上の薔薇を見ていました。
わたくしはミーナと一緒にお部屋を出ました。
*
階段の途中で、うしろから足音がしました。
夫人でした。わたくしが振り向くと、夫人は階段の上で止まりました。
「あの子が会うと言ったのです」
夫人の声は茶会の時より低くて、かすれていました。
「わたくしが言ったのではありません。わたくしは、あなたのお家の菓子のことをまだ考えたくないのです」
「はい」
「あなたが入れたという証はないと、王妃様から伺いました。……それでも」
夫人はそこで言葉を止めました。続きはおっしゃいませんでした。
わたくしは膝を折りました。夫人も浅く頭を下げました。それから夫人はヘルミーネ様のお部屋のほうへ戻っていきました。
玄関まで侍女の方が送ってくれました。
石段を下りながら門の外の馬車を見ました。窓掛けが半分開いていて、お父様の顔が見えました。わたくしが入っていった時と同じところにありました。
ミーナがわたくしの手を取りました。何もおっしゃいませんでした。
わたくしは泣いていませんでした。泣くのは馬車に乗ってからにしようと思っていました。でも、ほんとうに泣きたいのかどうかもよく分かりませんでした。
馬車の扉の前で、わたくしは一度だけお屋敷を振り返りました。
二階の大きな窓には窓掛けが閉まっていました。
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