結び目が違う
朝の書見の間には昨日と同じ顔がそろっていた。
卓の向こうに調査官と書記。壁際にガレス。窓辺の椅子は空いていて、代わりに王妃付きの女官頭が立っていた。王妃殿下は午後にお見えになります、と女官頭は言った。
エレノアはミーナに髪を結い直してもらっていた。緑のリボンの結び目はいつもどおり右に傾いていた。朝の粥は半分残した。
「ゆうべ副団長殿から、令嬢がお父上に話されたことを伺いました」
調査官はガレスのほうへ一度目をやってから娘を見た。
「令嬢のお口から、もう一度お聞かせください」
「はい」
エレノアは椅子の上で背筋を伸ばした。俺は今日は手首を握らなかった。握る手を膝の上に置いたまま、娘の横顔だけを見ていた。
「茶会の朝、わたくしは箱のリボンを結んで、しっぽを一本、結び目の下にくぐらせました。でも、薔薇園の卓で女官の方がわたくしの前に箱を置いた時、しっぽは二本とも外に出ていました」
「見たのは確かですか」
「見たのは、確かです。どうしてそうなったのかは、分かりません」
書記のペンが止まらずに動いた。
調査官はしばらく娘の顔を見ていた。それから脇の者に合図をした。
運ばれてきたのは白い布の包みだった。調査官がそれを卓の上で開いた。昨日の薄紅のリボンが一本、ほどけたまま折りたたまれていた。
「お手は触れずに、ご覧ください」
エレノアは椅子から少し身を乗り出した。リボンの真ん中のあたりに輪の折れ目がいくつか重なって残っていた。娘はそれを長いこと見てから首を横に振った。
「折れ目は、たくさんあります。前の晩に、同じリボンで七回練習しました。どれが朝の結び目か、わたくしには分かりません」
「承知いたしました」
調査官は包みを閉じさせた。
「令嬢。いつも結ばれる形を、ここで一度見せていただけますか。紐と箱はこちらで用意します」
女官頭が空の小箱と生成りの紐を一本持ってきた。エレノアは紐を十字に掛け、蓋の真ん中で輪を二つ作って結んだ。垂れた端の片方を指でつまみ、結び目の下にくぐらせる。
「しっぽは、こうです。外に出ているのは、一本だけです」
調査官は立って卓を回り、小箱を上から見た。書記に形を書き取らせた。
「この結び方は、どなたに教わりましたか」
「ミーナです」
扉の脇でミーナが頭を下げた。
「侍女殿にも伺います。馬車の中で、箱はあなたの膝の上にあった。結び目はご覧になりましたか」
「……見ておりません」
ミーナの声は低かったが、はっきりしていた。
「箱は底を両手で持っておりました。私はお嬢様のお顔を見ておりました。帽子の縁を何度も押さえておいででしたので。結び目には目をやっておりません。申し訳ございません」
「謝ることではありません。見ていないと言っていただくのは、見たと言っていただくのと同じくらい役に立ちます」
ミーナが一人にするなと言われていたのは娘で、箱ではない。そう決めたのは俺だった。
調査官は令嬢と侍女に礼を言い、ここから先は大人の話になりますと言った。エレノアは俺を見た。俺が頷くと椅子を下りて膝を折り、ミーナと一緒に客間へ戻っていった。扉の外で衛兵が一人、二人のあとについた。
扉が閉まると、調査官は女官頭に言った。
「受け取った者を」
入ってきたのは昨日東の門の控えの間で箱を受け取った女官だった。丸い顔の四十ほどの女で、帳面を胸に抱えていた。
「九つの鐘の少しあとに、ヴァレンシュタイン公爵家の侍女殿から菓子の箱を一つ受け取りました。帳面のとおりでございます」
「紐の結び目を覚えていますか」
女官は少し考えた。
「結び目の形までは覚えておりません。ただ、端が二本、長く垂れておりました。控えの間の卓にはほかのお家の箱も並べますので、紐の端がよその箱に掛からないよう、二本とも蓋の上に載せました」
「二本ですか」
「二本でございました。帳面には書いておりません。覚えているだけでございます」
調査官は女官の顔を見たまま次を聞いた。
「控えの間で、箱に近づいた者は」
「わたくしと、もう一人の女官と、扉の衛兵でございます。お庭へは、わたくしどもが一箱ずつ順にお運びしました。その間、ほかのお家の方は控えの間にはお入りになっておりません」
そこで女官は一度言葉を切った。
「……わたくしども王宮の者が、そう申しているだけでございます」
調査官は頷いて書記に書かせた。俺はこの女官の最後の一言を覚えておこうと思った。自分の言葉の重さを自分で量って出す人だった。
「令嬢の差し込んだ端が、道中の揺れで抜けることもありましょう」
調査官は書記にではなく俺に向かって言った。
「結び目が変わっていたことだけでは、誰かがほどいたとは申せません。どこかで何かが変わった、というところまでです」
次はガレスだった。壁から一歩出て、懐から紙を出した。
「夜明けに部下が屋敷で聞いてきた。厨房の者は使用人棟に留めてある」
ガレスは紙を読み上げた。
荷の荷車が来たのはベンノが箱を石の棚へ運んだすぐあと。粉の袋を下ろすのに料理長と下働き四人が全員で外へ出た。搬入口に立っていた家政婦長が、荷の間五人とも外にいたと言っている。皿洗い二人は裏の井戸端で鍋を洗っていて厨房には入っていない。ベンノは刷毛を洗っておくと言って厨房に残った。荷の時はいつもベンノが残る。菓子場には火の番が要るからで、誰が決めたわけでもない。料理長たちが戻った時、ベンノは刷毛を干していて、箱は棚の上にあった。
「ハインツは」
「料理長に言われて棚から取った。両手で底を持って裏の廊下を玄関まで。途中で誰にも会っていない。座席に置いて、ミーナが乗るまで扉の脇に立ってた。結び目は見ていない。落とさないことしか考えてなかったそうだ」
ガレスは紙をたたんだ。
荷は朝だけ。裏の搬入口ひとつ。知らない顔からは受け取らない。決めたのは俺だった。
荷を受けるあいだ誰が厨房に残るのか、出来上がった物を誰が見ているのかは何も決めていなかった。だから毎朝、荷の間だけ菓子職人が一人で厨房にいるのが当たり前になっていた。茶会の四日前の朝、搬入口でミーナが若い男を帰すのを見て、俺は決まりがちゃんと動いていると思った。動いていたのは門のほうだけだった。
調査官は書記の紙をめくり、扉の外に声をかけた。
「医官殿を」
昨日薔薇園で銀の針を使った若い医官が、平たい箱を抱えて入ってきた。卓の上で蓋を開けると、中に薄い紙が何枚も重ねてあった。エレノアの箱の敷き紙と、菓子のあいだにはさんであった紙だった。
「侍医から、これをお見せするよう言いつかりました」
医官は紙を一枚ずつ指で示した。菓子に触れていた側に、薄い艶の跡がついていた。花びらの縁の形が紙に写っている。どの紙にも、表にも裏にも。
「艶が乾ききる前に紙が当たった跡でございます」
「乾いてからでも、これくらいは写るのではないか」
聞いたのは調査官だった。医官は首を横に振った。
「侍医の言いつけで、箱の残りを一つ、乾いた紙に半刻はさんでおきました。紙には何も写りませんでした。それから」
医官は紙の一枚を窓の光に傾けた。花びらの縁の跡が二重になっていた。一つは濃く、もう一つは少しずれて薄い。
「一度詰めた位置と、少しずれた位置に跡がございます。乾いていない菓子を、二度紙に当てた形でございます」
調査官が俺を見た。
「公爵閣下。昨日、令嬢は艶が乾いてから詰めたとおっしゃった。閣下もその場においででしたね」
「いた。ベンノは艶が乾くのを待って詰めた。紙をはさむところも見た。そのあとで娘が紐を掛けた」
「では、この跡は」
「詰めたあとで誰かが箱を開けて、もう一度艶を塗った。塗ったものが乾く前に詰め直した。そう考えるのが近いと思う」
言ってから、俺は自分が娘の父親としてこの部屋に座っていることを思い出した。
「ただ、それは私の考えだ。私はあの家の者だ」
「承知しております」
医官が控えめに口をはさんだ。
「はじめの艶が乾ききっていなかった見誤りも、ないとは申せません。ただ、それなら跡は一重のはずでございます。それから、毒が上の艶にあるのか下の艶にあるのかは、この試しでは分かりません」
調査官はそれ以上は言わなかった。書記に何か書かせ、それから卓の上に指で線を一本引くように話しはじめた。
「箱が家を出るまでと、出たあとを分けます」
娘が結んでから女官が受け取るまでに、箱のあった場所は四つ。厨房の石の棚、裏の廊下、馬車、王宮の控えの間。
控えの間の女官は、受け取った時にはもう端が二本垂れていたと言う。覚えているだけの話だが、それが確かなら、変わったのは控えの間に入る前だ。
馬車には公爵と令嬢と侍女が乗っていた。十二個に刷毛で艶を塗り直して詰め直すのを、三人が誰も見ないことは考えにくい。
廊下は一本歩くだけで、両手は箱でふさがっていた。途中で箱を置かなかったというのはハインツ本人の話で、それを見た者はいない。ただ、刷毛と艶と、十二個を並べる台が要る。
厨房にはそのどれもがある。荷の間、外にいた五人は互いの姿を見ている。中に誰がいたかは誰も見ていない。
「箱は、お屋敷を出る前に一度開けられたと考えるのが、いちばん筋が通ります。まず厨房を調べます。廊下と馬車も外しはしません。今申せるのはそこまででございます」
調査官は指を卓から離した。
「厨房に残っていたのがベンノ一人だった、とは誰も見ておりません。外にいた者が外にいたと言っているだけです。ベンノが戻らないことは疑いを集めますが、それだけで手を下した者とは申せません」
「娘は」
声が出てしまった。調査官はこちらを見て、言葉を選ぶように一拍置いた。
「令嬢がご自分で箱を開けたとする筋は、令嬢の朝の居場所と合いません。ですが、その居場所を話しておられるのはお屋敷の方々です。王宮として、令嬢には何の関わりもないと申せるのは、まだ先のことでございます」
俺は頷いた。頷くしかなかった。
少なくともこの男は、娘を犯人と決めてかかってはいない。決めてかかる者は、合わない筋のことをわざわざ口にしない。それ以上のことは、この男の顔からは読めなかった。
*
王妃は日が傾きはじめた頃に書見の間へ来た。
調査官の報告を窓辺の椅子で聞き、敷き紙を自分の目で一枚だけ見て、医官に戻した。それから俺のほうを向いた。
「公爵。今日はお屋敷へお帰りなさい。箱と紐と残りの菓子は王宮で預かります」
「承知いたしました」
「ドレスラー家には、今日の調べで分かったことを、わたくしの名で知らせます。分かったことだけを」
分かったことだけを。王妃はそこを少しだけ強く言った。
客間に戻ると、エレノアは窓辺の椅子に座って薔薇園のほうを見ていた。ミーナが帰り支度をしていた。俺は娘の前の椅子に座り、今日の調べで分かったことを話した。箱は家を出る前に誰かが開けたかもしれない。誰かはまだ分からない。お前が何かを入れたという証は一つもない。だが、調べはまだ続く。
娘は一つずつ頷いて聞いていた。帰っていいと言われたと伝えると「はい」と言った。それから窓のほうを向いたまま聞いた。
「ヘルミーネ様は、まだ王宮にいらっしゃいますか」
「今朝、ご自分のお屋敷へ移られたそうだ。侍医が付いていった」
「起きていらっしゃいますか」
「起きて、話もしていると聞いた」
エレノアは膝の上で指を組んだ。
「お見舞いに、行ってもいいですか」
すぐには答えられなかった。昨日、生垣の切れ目で振り返ったドレスラー伯爵夫人の顔を思い出した。
「向こうがいいと言ったら、だ。こちらから伺いたいと手紙を出す。会うかどうかは、向こうが決める」
「はい」
娘はそう言って椅子を下りた。それから窓辺に戻って一度だけ薔薇園を見た。生垣の赤い薔薇はここからでも見えた。
帰りの馬車を待つあいだ、ガレスが廊下で俺の肩を一度叩いた。
「ベンノの話は、まだ何もない。門には今夜も人を置く」
「頼む」
「お前は帰って寝ろ。ひどい顔だ」
寝られるとは思わなかった。それでも、帰るとは言った。
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。
Xでも更新情報などを発信しています。
よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!
https://x.com/st_shosetsu




