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悪役令嬢の父親に憑依した俺、娘を見捨てる未来だけは絶対に認めない  作者: 白川 透


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38/79

見たことを言う

 話を聞く部屋は王妃の私室の二つ隣にある小さな書見の間だった。


 その前に一つだけ、俺は自分の判断で動いた。王宮の厩から馬を借りて、ついてきた従僕を屋敷へ走らせた。セバスへの言づては四つ。厨房を閉めること。今朝から厨房に出入りした者を誰も外へ出さないこと。菓子に使った物に誰も触れさせないこと。分かったことは何でもすぐ知らせること。

 二年前に丘の道で馬車の車輪が外れた日、ガレスがしたことをそのまま真似た。


 書見の間には卓が一つあって、向こう側に王妃付きの調査官が座っていた。痩せた中年の男で隣に書記を一人置いている。王妃は窓辺の椅子に座り、殿下はその横に教育係と並んで立っていた。

 ほどなくガレスが来た。騎士団の青い上着のまま、息が少し上がっていた。王妃殿下のお言いつけで騎士団から一人立ち会うことになり、自分が来たのだと短く言って壁際に立った。


 俺はエレノアの隣に座り、ミーナは扉の脇に控えた。


「レオンハルトが、先に話したいそうです」


 王妃が言った。


「殿下。ご覧になったことを、順にお話しください」


 調査官に促されて、殿下は卓の前まで出た。


「私はエレノア嬢の箱を見ていました。薔薇の形の菓子がきれいだったからです。花びらが一つずつちがう形をしていました」


 書記のペンが走りはじめた。


「エレノア嬢は慣わしどおり、いちばん手前の一つをご自分で取りました。私はそれを一つ分けてもらえないかと言いかけていました。候補の方々のお菓子は見るだけだと母上に言われていたのに、言いかけました。言う前に、ドレスラー伯爵令嬢が先に欲しいと言いました。エレノア嬢はそれを譲って、二つ目を取りました。母上がお声をかけたので、口へ運ぶ前にお答えしていました。ドレスラー伯爵令嬢が倒れた時、エレノア嬢はまだ何も食べていませんでした」


 殿下は一息で言った。

 それから少しだけ間を置いて続けた。


「エレノア嬢は、そんなことをしません」


 書記のペンが紙の上で止まった。


「殿下」


 調査官が静かに言った。


「最後のお言葉は、殿下がご覧になったことでございますか」


 殿下は口を開けて閉じた。耳が赤くなっていき、手のひらが上を向きかけて途中で止まった。


「……見たことでは、ありません」

「では、調書には前半だけを」


 王妃が窓辺から言った。


「後半は、わたくしが聞いておきます」


 殿下は頭を下げ、教育係に促されて扉のほうへ歩いた。扉の前で一度だけ振り返ってエレノアを見た。娘も殿下を見ていた。二人とも何も言わなかった。


 俺は殿下の背中を見ていた。

 そんなことをしませんと言われて、俺の胸の中で最初に動いたのは礼ではなかった。この少年に何が分かる、という声だった。九年後に階段の上から娘の罪を読み上げる少年が、今日は娘を庇った。庇ったその言葉は調査官の言うとおり見たことではなく、何の証にもならない。

 それでも、誰が何を見たのかを俺が集めはじめるより先に、あの子は自分から見たことを話すと立った。


「ヴァレンシュタイン公爵令嬢。今朝、菓子の箱がどのように用意されたか、覚えていることをお話しください」


 調査官がエレノアに向かって言った。

 俺は卓の下で自分の左の手首を右手で握った。代わりに話したくなったらこうしていようと、馬車の中で決めていた。


 エレノアは椅子の上で背筋を伸ばした。


「夜明けの少し前に、ミーナと厨房へ行きました。お父様もあとから来ました。菓子職人のベンノが、焼いてあった菓子に艶を塗っていました。艶は前の晩に塗ると曇るので、朝に塗るのだそうです」


 書記のペンがまた走りはじめた。


「艶が乾いてから、ベンノが箱に詰めました。十二個です。紙を敷いて、菓子と菓子のあいだにも紙をはさみました。蓋をして、わたくしがリボンを掛けました。結んだのはわたくしです」

「それから」

「ベンノが、出立まで冷えた棚に置いておくと言って厨房の奥の石の棚へ持っていきました。わたくしはミーナと着替えに行きました」


 エレノアは少し考えて続けた。


「出立の時、箱は従僕のハインツが馬車まで運びました。馬車の中ではミーナが膝にのせていました。王宮に着いてから、東の門の控えの間で女官の方にお渡ししました。女官の方が帳面に書いて、ミーナが名前を書きました。茶会の卓で、女官の方がわたくしの前に置きました」

「それを、ご自分で開けられた」

「はい。リボンの端を引いて、ほどきました」


 エレノアはそこで言葉を止めた。目が自分の指に落ち、何かを確かめるように右手の指先を左手でなぞってから顔を上げた。


「……それから蓋を開けて、薔薇の菓子を一つ取りました。慣わしで、自分の家の菓子はまず自分で食べます。でも、ヘルミーネ様がそれをほしいとおっしゃったので、さしあげました」

「なぜ、さしあげたのです」

「お客様に望まれたものをお断りするのは、礼に反するからです。わたくしは別のを食べればいいと思いました」

「二つ目は」

「取りました。でも、王妃様がお声をかけてくださったので、お答えしていました。お答えしている時は、お菓子を口に入れません。食べる前に、ヘルミーネ様が倒れました」


 調査官はしばらく黙ってから言った。


「よく覚えておいでですね」

「茶会の前から、ちゃんと見ていようと決めていました」


 娘はそう言ってから膝の上で手を重ねた。

 俺は左の手首を握ったままだった。握っている指に力が入りすぎて手首の内側が白くなっていた。ガレスが壁際からそれを見て何も言わずに目を外した。


 扉が叩かれたのはその時だった。屋敷に走らせた従僕が戻ってきていた。まだ日は高かった。

 従僕は調査官に一礼してから、セバスの言づてを口にした。


「厨房は閉めました。今朝から出入りした者は皆、使用人棟に留めております。ただ、菓子職人のベンノだけが、皆さまのお発ちの少しあとに、薔薇の砂糖を買い足しに出ると言って裏口を出たまま戻っておりません」


 ガレスが壁から背を離した。


「砂糖を買うなら店は決まってるな。セバスに店の名と、ベンノの前の下宿を聞いてくれ。騎士団から王都の門と、その二か所に人を出す。人相はセバスに書かせて回す」


 調査官が頷いた。従僕はガレスの部下と一緒にもう一度走っていった。

 調査官が俺のほうへ向き直った。


「公爵閣下。そのベンノという者のことを伺います」

「半年前に雇った。菓子職人組合の紹介状で、組合の書記と前の勤め先の主人と保証人の司祭に人をやって確かめてある。口入れ屋は通していない」

「承知いたしました。お屋敷の調べには、騎士団と王宮の者を出します」


 調査官はそれだけ言って、書記に何か書き足させた。出ていったことは書かれた。何のために出ていったのかは、まだ誰にも分からなかった。


*


 侍医が来たのは灯りが入る頃だった。


 白い髭の老人は、ヘルミーネが日の傾く前に目を開けたと言った。言葉も出ていて、母親の顔も分かる。命に別状はないと見ている、と。

 エレノアは長椅子の端でそれを聞き、膝の上の手を一度握り直した。


「よかった」


 誰に言ったのでもない小さな声だった。


 侍医は俺のほうを見た。


「医官が薔薇園で試したとおり、銀を黒くする類のものが菓子の艶に混ぜてございました。奥で箱の残りをいくつか試しましたが、どれも同じくらい薄く黒ずみました。ほかの四家の菓子と、令嬢の茶碗からは出ておりません」

「何の毒かは」

「まだ申せません。この試しで分かるのは、この類のものが入っているということまででございます。何であるかは、残りを調べてから」


 侍医は一度言葉を切った。


「量についても、確かなことは申せません。箱の残りの黒ずみ方と、令嬢のご様子を合わせて、一つに入っていたのは多くはないと見ております。ただ、令嬢が口になさった一つそのものは、もう確かめようがございません」

「助かったのは」

「どれか一つのおかげではございません。量が多くなかったこと。ご自分で早くに吐かれたこと。息の道がふさがらなかったこと。……横にしてくださったのも、その一つでした」


 礼を言うべきだと分かっていたが、言葉が出てこなかった。俺は頭を下げただけだった。


 子供の口に入ると分かっていて入れた毒だ。

 箱はヴァレンシュタインのもので、慣わしでは娘が最初に食べる。そのあとは箱が卓を回り、ほかの子の口にも入る。娘の命を狙ったのか、ほかの子を倒したかったのか、この家の名を汚したかったのか。二年前、五つのエレノアを盗人にしようとした者がいたことも頭にあった。

 どれも消せなかった。今の俺に言えるのはそこまでだった。


 王妃の女官が来て、今夜は客間でお休みくださいと言った。箱は王宮で預かり、調べが済み次第お返しする。

 帰っていいとは言わなかった。


*


 エレノアは客間の寝台で眠る支度をした。ミーナが髪のリボンをほどき、靴を揃えた。ガレスは扉の内側の椅子に座っていた。

 娘は横になってから一度だけ俺のほうを見た。


「お父様」

「ん」

「殿下が、見たことを言ってくださいました」

「……ああ」

「わたくしは、殿下の前で泣きませんでした」


 俺はすぐには答えなかった。泣かなかったことを褒めれば、二年前のあの子に戻してしまう気がした。


「見てた。怖かったのに、見たとおりを最後まで自分で話したな」


 娘の額にかかった髪を指でよけた。エレノアは目を閉じかけて、また開けた。


「それから、もう一つあります」


 娘は掛け布の下から右手を出して、指先を見た。調査官の前でなぞっていた指だった。


「リボンのしっぽが、出ていました」


 俺は寝台の脇の椅子から身を乗り出していた。扉のほうでガレスが顔を上げた。


「卓で、女官の方がわたくしの前に箱を置いた時です。しっぽが二本とも、結び目の外に出ていました。わたくしは今朝、一本を下にくぐらせました。お父様も見ていました」

「見た」

「馬車でゆれて、出たのかもしれないと思いました。だから、あそこでは言いませんでした。たしかではないことは、言わないほうがいいと思ったのです」


 娘は俺の顔を見ていた。叱られるのを待つ顔ではなかった。言ったほうがよかったのかどうかを、知りたがっている顔だった。


「確かでないなら、確かでないと言えばいい」


 俺は言った。


「見たことは、見たとおりに言う。どうしてそうなったかを考えるのは大人の仕事だ。明日の朝、調べる人にお前からもう一度話してくれ」

「はい」


 エレノアは右手を掛け布の中に戻して目を閉じた。ほどなく寝息が聞こえた。


 俺は扉のほうへ行き、声を落とした。


「聞いたな」

「聞いた」

「娘から今聞いた話だ。まだ娘の口から調べる人には言っていない。それでいいから、今夜のうちに調査官へ伝えてくれ」

「伝え聞きだと断って伝える。紐は王宮の保管庫にある。受け取った女官が結び目を見ていたかどうかも、明日の朝までに聞いておけるかもしれん」


 ガレスは上着の襟を直して出ていった。


 寝台ではエレノアが眠っていた。ミーナが脇の椅子に座って目を開けたままこちらを見ていた。

 俺は窓辺の椅子に座って庭の暗がりを見ていた。眠れなかった。


 夜半を過ぎてガレスが戻ってきた。


「調査官には伝えた。明朝、お嬢から直に聞くそうだ。それからベンノだが、砂糖屋には今日一度も来ていない。前の下宿にも戻っていない。門の番兵は、それらしい男を見たとは誰も言っていない」

「王都の中にいるのか」

「昼のうちに出たのか、どこかに潜ってるのか、まだ分からん。門には夜通し人を置いてる」


 ガレスはそれだけ言って、扉の内側の椅子に戻った。


 手帳を開いて今日の頁に書いた。しっぽ、二本とも外。ベンノ、行方知れず。それから少し考えてもう一行足した。


 ――殿下は、自分から見たことを話した。


 あれは九年後の少年と同じ人間なのか。九年のあいだに何かが変わってあの階段の上に立つのか。それとも俺の知っている物語のほうが、どこか間違っているのか。

 今日、俺は殿下の顔ばかり見ていた。卓の上の娘の手元は見ていなかった。それなのに、あの子が何を考えているのか一つも分からなかった。


 窓の外が白みはじめた頃に手帳の三行を読み返して、最後の一行にだけ問いの印をつけた。

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