薔薇園の茶会
王宮の薔薇園は二年前より薔薇が増えていた。
生垣で囲まれた芝生の真ん中に、白い布を掛けた長い卓が一つ置いてあった。その上に薔薇を絡ませた木の棚が渡してあって、日差しは葉のあいだから細かく落ちてくる。卓の片側に候補の令嬢が五人、向かいの真ん中に王太子殿下、卓の端に王妃の席があった。
親の席は卓から十歩ほど離れた木陰に並べてあった。話は聞こえるが口ははさめない距離だ。令嬢たちの侍女は生垣の切れ目に並んで控えていて、ミーナはその列の端にいた。俺の席からも娘の席からも見える場所だった。
俺は親の席のいちばん端に座った。隣はドレスラー伯爵夫人で、金の髪を高く結って扇で胸元をあおぎながら、卓の自分の娘から目を離さなかった。その向こうにブラント伯爵夫人がいて、俺に気づくと浅く会釈した。二年前の快気祝いの茶会に来ていた時と同じ、隙のない笑顔だった。
俺も会釈を返した。手帳の点のことは顔に出していないはずだ。
卓では令嬢たちが順に名乗った。
ドレスラー家のヘルミーネは五人の中でいちばん背が高い。赤みがかった金の髪を二つに分けて巻き、声も大きかった。名乗り終えると隣の子に何か小声で言って笑わせた。
ブラント家のコルネリアは栗色の髪をきっちり編んでいて、名乗る声は卓の向こうまでやっと届くほどだった。名乗ったあとはずっと膝の上の自分の手を見ていた。
エレノアは四番目に名乗った。
「エレノア・ヴァレンシュタインでございます」
膝の折り方は二年前と同じだった。顔を上げたあと娘は卓の向こうの殿下をまっすぐ見て小さく会釈した。殿下のほうが一拍遅れて会釈を返した。
殿下を睨まない、と娘と約束した。だから俺は卓の茶碗を見ていた。
茶碗を見ていても殿下が何か言うたびに目が上がった。
茶が注がれ、しばらくは王妃が話していた。王妃が侍女と言葉を交わしはじめると、卓の上の話は子供たちのものになった。何がきっかけだったのかは分からない。気がつくと殿下とエレノアが星の話をしていた。
「夏の夜にいちばん高いところに見えるのは、竪琴の星です」
「竪琴の星は、夏の初めにはまだ東の低いところにあります。いちばん高くなるのは、夏の終わりです」
「……そうでしたか」
「本に書いてありました」
「私の読んだ本には、夏の星と書いてありました」
「夏の星です。でも、いちばん高いところに見えるのは、夏の終わりです」
殿下が口を閉じた。耳が少し赤くなっていた。
エレノアは茶碗を持ち上げて一口飲んだ。家で俺に言い返して勝った時と同じ顔だった。
「エレノア嬢は、星がお好きなのですか」
「好きかどうかは分かりません。名前を覚えると、夜に窓から見た時に、知っている人がいるみたいで安心します」
殿下は少し黙ってから「それは、分かる気がします」と言った。
隣でヘルミーネが「わたしは星より薔薇がいいわ」と言った。生垣の赤い薔薇を指さして「あれは騎士の頬っていうの。うちの庭にもあるのよ」と得意そうに言う。エレノアが「どうして頬なのですか」と聞くと、ヘルミーネは「騎士が恥ずかしいときの色だから」と答え、自分の答えに自分で笑った。エレノアもつられて笑った。口を押さえずに笑っていた。
殿下が生垣の白い薔薇のほうを手で示し、あとで庭を歩く時間にご案内しますと言った。エレノアは頷いてからヘルミーネに「騎士の頬も、近くで見たいです」と言った。ヘルミーネは「いいわよ、教えてあげる」と言った。
俺は茶碗を見ていた。見ていたつもりだった。
隣でドレスラー伯爵夫人の扇が一度止まり、俺の顔を横目で見てからまた動きはじめた。卓の端で王妃が扇を開いた。
しばらくして王妃が「では、お菓子を」と言った。
女官たちが控えの間から盆に載せた箱を運んできて、それぞれの令嬢の前に置いた。殿下と王妃の前には王宮の厨房の菓子が銀の皿で別に出ていて、毒見役が先に試したものだと女官が言い添えた。候補の家の菓子は令嬢どうしで回すもので、王家の方は口になさらない。二通目の書状にもそう書いてあった。
一番目は子爵家の娘の箱で干し葡萄の焼き菓子だった。令嬢がまず一つ食べてみせてから、箱が卓を回った。二番目は辺境の伯爵家の、木の実を固めた飴。三番目はヘルミーネの家の、粉砂糖をまぶした丸い菓子。
コルネリアは回ってきた三つの箱をどれも両手で受け、何も取らずに隣へ渡した。茶碗にも手をつけていなかった。人見知りの子なのだろうと俺は思った。
四番目がエレノアの箱だった。
娘は箱を引き寄せ、リボンの端を引いてほどいて蓋を開けた。
俺はその手元を見ていなかった。殿下が身を乗り出して箱をのぞきこんでいたからだ。俺は殿下の顔を見ていた。
娘が一つ取り上げたのは次の声で分かった。
「それ、いちばんきれい」
ヘルミーネだった。
「花びらが全部ちがうのね。ねえ、それ、わたしにちょうだい。あなたは別のを食べたらいいわ」
エレノアは手の中の菓子を見てそれからヘルミーネを見た。慣わしではまず自分が食べる。だが客に望まれたものを断るのは礼に反する。どちらが上か、たぶん娘は一瞬で量った。
「どうぞ」
ヘルミーネは受け取るとためらわずに口に入れた。
「おいしい。薔薇の味がする」
エレノアは少しだけ口の端を上げて、箱から二つ目を取った。口へ運ぶ前に卓の端から王妃の声がかかった。
「お宅の職人が焼いたの」
「はい。ベンノといいます。薔薇園で食べるのに合うと思って、わたくしが選びました」
王妃に話しかけられているあいだは菓子を口に入れない。娘は二つ目を指先に持ったまま答えていた。
ヘルミーネが王妃に向かって「わたしのお母様も薔薇の砂糖が好きなの」と言い、茶碗を持ち上げた。卓の話は王都の菓子屋のことへ移っていった。エレノアは聞かれるたびに答え、指先の菓子はまだそのままだった。
何分かたった頃だった。
ヘルミーネが茶碗を下ろして、おなかを押さえた。顔から色が引いていった。何か言おうとして口を開け、そのまま卓の脇の芝に吐いた。茶碗が手から落ちて卓の端に当たって割れた。ヘルミーネは椅子の背にもたれかかり、腕と肩を細かく引きつらせながら椅子ごと後ろへ倒れた。
ドレスラー伯爵夫人が叫んで立ち上がった。扇が芝の上に落ちた。
気がつくと俺は卓の脇にいた。
十歩をどう越えたのかは覚えていない。芝の上でヘルミーネが仰向けになって手足を引きつらせていて、倒れた椅子の脚がその頭のすぐ横にあった。俺は椅子をどけ、割れた茶碗のかけらを靴で遠くへ払った。
前の会社で年に一度受けさせられた講習の言葉が、手より先に戻ってきた。押さえつけない。口に物を入れない。まわりの危ない物をどける。引きつりが止まったら、吐いたもので息が詰まらないように身体を横に向ける。
俺は膝をついて、手を出さずに待った。
「侍医を」
「呼びました」
王妃の声だった。立ち上がって、もう女官を走らせていた。
引きつりは長くは続かなかった。止まったところで肩と腰に手を添えてヘルミーネを横向きにし、上の膝を曲げさせた。脱いだ上着をたたんで頭の下に入れた。口もとへ耳を寄せると浅い息が頬に当たり、胸も動いていた。それから先にすることを俺は知らなかった。
卓の向こうで殿下が椅子から腰を浮かせていた。エレノアは座ったままで、手にはまだ二つ目の菓子があった。生垣の切れ目からミーナがこちらへ一歩出て、そこで止まっていた。
侍医が来るまでは長くなかった。王宮の茶会にはいつも近くに控えているのだろう。白い髭の老人は芝に膝をつき、ヘルミーネの口もとに耳を寄せて手首を取り、まぶたを指で開いて目をのぞいた。
「このままで結構。息は通っております」
侍医は短く言い、ついてきた若い医官に毛布と板と奥の部屋の湯を言いつけた。それから卓のほうへ顔を上げた。
「最後に何を召し上がりましたか」
答えたのはエレノアだった。
「わたくしの家の菓子です。薔薇の形のを、一つ」
侍医は頷き、王妃のほうを見た。
「その箱と、令嬢の茶碗と、吐いたものを残しておいてください。調べさせます」
板が来て、ヘルミーネは横向きのまま載せられて運ばれていった。侍医がそれに付いていった。ドレスラー伯爵夫人が板を追いかけ、生垣の切れ目で一度振り返った。
「ヴァレンシュタインの菓子よ。あの子が食べたのは、あの子の箱の」
声が裏返っていた。夫人はそれ以上言わずに娘のあとを追って走っていった。
残った若い医官が、芝の上の吐いたものに布をかぶせて女官を一人そばに立たせた。それから鞄から細い銀の針を何本かと白い皿を出した。
俺は娘のほうへ向き直った。
「エレノア。手に持っているものを、そのままこの皿に置きなさい」
娘は医官の差し出した皿の上に二つ目の菓子をそっと置き、置いてから両手を膝に戻した。指先に薔薇の砂糖が少しついていた。
医官は皿の菓子の艶のところに針を一本刺し、しばらく待って抜いた。針の先が黒ずんでいた。エレノアの箱から一つ取って別の針を刺すと、それも黒ずんだ。ほかの四つの箱の菓子に刺した針は白いままだった。
医官は針を一本ずつ布に並べてから、王妃に向かって言った。
「薔薇の菓子に、銀を黒くする類のものが入っております。ここで申せるのはそこまででございます。何であるか、どれほど入っていたかは、奥で侍医が調べます」
芝の上がしんとした。
俺の知っている物語にこの場面はない。妹のゲームで毒が出てくるのは学院に入ってからで、七つの茶会のことなどどこにも描かれていなかった。俺はここから先を何も知らない。
「衛兵」
王妃の声で、生垣の陰から槍を持った衛兵が二人出てきた。卓のほうへ歩いてくる。
俺の身体は卓の脇から一歩動いて、娘と衛兵のあいだに入っていた。右腕が娘の前に伸びていた。
衛兵が足を止めた。
腕は下ろさなかった。下ろさないまま、俺は自分の口が先に言おうとしている言葉を探した。調べるなら私が立ち会う。この箱は私が預かる。どれもこの場で俺が言ってはいけない言葉だった。
「王妃殿下」
声がひどく低かった。
「娘はどこへも逃げません。当家の者は、箱にも、菓子にも、紐にも触れません。王宮の方で、どれも別々にお預かりください。ほかの家の箱も同じように」
王妃は俺を見ていた。何かを量るような目だった。
「そのつもりです」
王妃は扇を閉じ、衛兵のほうへ向けた。
「誰にも手をかけてはなりません。卓の上の物を誰にも動かさせぬよう、見張りなさい」
衛兵が槍を立てて卓の両端へ分かれた。
「箱がどの家のものかは分かりました。誰がいつ何を入れたのかは、まだ何も分かっていません」
王妃は女官を二人呼び、卓の上の物を一つずつ帳面に書かせた。五つの箱。それぞれの箱に残った菓子の数。敷き紙。紐。医官の皿と針。
女官が布を手に巻いて、エレノアの箱の横にほどけたまま落ちている薄紅のリボンを拾った。リボンは箱とも菓子とも別の白い布に包まれた。結び目はもうほどけていて、どんな形をしていたのかは俺の立っている場所からは分からなかった。
俺の右腕はまだ娘の前にあった。下ろそうとして指先が震えているのに気づいた。
「話は、見た者から順に聞きます」
王妃が言った。
卓の向こうで椅子が鳴った。
「母上」
殿下が椅子を引いて立ち上がっていた。九つの少年は衛兵と俺と母親のあいだで、背筋をまっすぐに伸ばしていた。
「私は、見ていました」
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