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悪役令嬢の父親に憑依した俺、娘を見捨てる未来だけは絶対に認めない  作者: 白川 透


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菓子箱と結び目

 受ける返事を出して五日後に王妃の侍従から二通目の書状が届いた。


 茶会の決まりが書いてあった。候補の家はそれぞれ自分の家の菓子を一箱ずつ持ってくる。卓ではまず令嬢が自分の家の菓子を一つ食べてみせ、それから箱を隣へ回す。どの家の台所がどんな菓子を作れるかも家の品のうちだ、という古い慣わしだそうだ。王家の方々の前には王宮の厨房の菓子が別に出るので、持ってくる菓子は令嬢どうしで分けるためのものだとも書いてあった。王妃殿下は古い慣わしを好まれますとセバスが言った。


 ほかの四人の名は、その前の日に宰相府の使いが短い書付で知らせてきていた。

 ドレスラー伯爵家のヘルミーネ、八つ。ブラント伯爵家のコルネリア、八つ。あとの二人は子爵家と辺境の伯爵家の娘で、名前に覚えはなかった。


 ブラントという名で指が止まった。

 二年前の宝石の件で、ドーラを屋敷に入れる口添えはブラント伯爵夫人のサロンを通っていた。頼んだのは名を知らない婦人で、夫人自身が何かをしたという証はない。今も一つもない。

 手帳のブラントの名の横に点を一つ打った。それ以上は書かなかった。


*


「旦那様。その色は、日に当たっても透けません」


 衣装の間の入口でミーナが両手を前で組んで立っていた。


「……まだ何も聞いていないが」

「先ほどの二枚で、三度お尋ねでございました。この布でもお尋ねになると思いましたので」


 仕立て屋が持ってきた布が六枚並んでいた。エレノアは鏡の前の台に立ち、ミーナが一枚ずつ肩に当てている。

 口を出すつもりはなかった。だからさっきから尋ねているだけだ。


「薔薇園は棘があるだろう。袖は長いほうが」

「袖は肘まででございます。春の終わりの茶会ですので」

「日差しが強いと」

「帽子をお召しになります」

「帽子の縁は広いほうが」

「旦那様。衣装の間は、旦那様のお仕事場ではございません」


 鏡の前でエレノアが口を押さえずに笑った。

 俺は廊下へ出された。扉は静かに、しかし確実に閉まった。資料のてにをはに口を出しすぎて会議室から締め出される部長を、俺は前の会社で軽蔑していた。


*


 菓子に使う薔薇の砂糖は茶会の四日前の朝に届くことになっていた。


 俺は裏の搬入口へ下りた。屋敷の荷は朝だけ、この搬入口ひとつから入る。二年前に俺が言い出した決まりで、毎朝ここに立つのはミーナだ。

 荷車が一台止まっていた。手綱を持っているのはまだ二十にならない若い男だった。


「いつもの方ではありませんね」

「叔父は腰を痛めまして。今日は俺が」


 ミーナは荷帳と荷車の上の袋を見比べ、それから若い男の顔を見た。


「申し訳ございません。お店の書付をお持ちでないなら、お受け取りできません」

「書付って、叔父の代わりに来ただけですよ」

「はい。ですから、明日の朝、お店の書付を持ってもう一度いらしてください」


 若い男は口をとがらせたが、ミーナが一歩も動かないのを見ると荷車の向きを変えて帰っていった。


「厳しすぎないか」

「お店の方だったら、明日の朝おわびいたします」


 次の朝、若い男は同じ荷車で来た。手には店の主人の書付があって甥に荷を任せると書いてあった。ミーナは荷帳の最初の頁に控えてある主人の署名と書付の署名を見比べ、書付を荷帳にはさんでから袋を受け取った。それから若い男に頭を下げた。若い男は照れたように頭をかいた。


 その日の昼に俺はセバスに菓子職人のことを聞いた。


「ベンノは、いつからいる」

「半年前でございます。紹介状は菓子職人組合から。こちらの決まりどおり、三か所に人をやって確かめました」


 セバスが出した控えには組合の印が捺してあった。麦の穂を二本交差させた印で、王都の菓子屋の看板でよく見る形だった。

 組合の書記は確かに当組合から出した紹介だと答えた。前に勤めていた川向こうの菓子屋の主人は、六年いて腕は確かだが口数が少ないと答えた。保証人になった下宿の町の教区の司祭は、毎週の祈りに来る真面目な男だと答えた。三つとも行った者の名と日付が控えの端に書いてある。


「口入れ屋は通していないな」

「通しておりません。旦那様のお決まりで、口入れ屋の紹介は一切受けません」


 二年前にドーラを屋敷に送り込んだのは口入れ屋だった。今はその道そのものを閉じてある。


「分かった。ありがとう」


 俺は控えを返した。三か所とも確かめてある。決まりはちゃんと動いていた。


*


 菓子を決める日にエレノアは厨房へ行った。俺もついていった。


 厨房の奥の粉の匂いのする台の前にベンノが立っていた。四十前の背の低い男で左の眉の上に古い火傷の跡がある。前掛けも袖も粉で白く、指の先だけが何度も洗ったように赤い。

 台の上には試しに焼いた菓子が三種類並んでいた。干し杏の焼き菓子と、蜂蜜の小さな丸いのと、薔薇の花びらをかたどった焼き菓子。


「お嬢様。どれも、ひとつずつどうぞ」


 客の前に出ることのない職人の小さな声だった。


 エレノアは三つを順に食べた。一つ食べるごとに水を一口飲み、目を閉じて何か数えるように口を動かした。三つ食べ終えると薔薇の形の菓子を指さした。


「これにします」

「どうしてだ」

「蜂蜜のは、お父様と下町で食べたのと似ています。あれは、うちのものではありません。杏はおいしいけれど、形がふつうです。薔薇のは、薔薇園で食べるのに合っています。それに」


 エレノアは少しだけ声を低くした。


「ベンノの菓子の中で、これがいちばん、ベンノの手がかかっています。一つに花びらが七枚。でも、どの花びらも同じ形ではありません」


 ベンノが顔を上げた。粉の白い顔の中で目だけが一瞬大きくなった。何か言いかけて口を閉じ、深く頭を下げた。


 俺も一つ食べた。薄く焼いた生地の中に薔薇の香りの砂糖が閉じ込めてあった。噛むと花の匂いが鼻へ抜けて、甘さはそのあとから来た。表面には薄い艶がかかっていた。


「うまいな。王都の菓子屋で出てきても驚かない」

「もったいないお言葉です」

「艶がきれいだ。焼いたあとに塗るのか」

「はい。艶出しは当日の朝に仕上げます。前の晩に塗りますと、曇りますので」


*


 茶会の前の晩、エレノアは食堂の卓でリボンの結び方の練習をした。


 空の菓子箱に薄紅のリボンを十字に掛け、蓋の真ん中で輪を二つ作って結ぶ。最後に垂れた端の片方を結び目の下にくぐらせる。ミーナは手を添えずに見ていた。


「これで、しっぽが揺れません」

「私の母が、前掛けの紐をこう結んでおりました。走ってもほどけませんので。しっぽが外へ出ておりましたら、ほどけかけている合図でございます」

「では、ミーナのお母様結びです」

「長うございます」


 エレノアは七回結んで七回ともしっぽを結び目の下にくぐらせた。七回目の結び目は一回目よりずっと小さく、固かった。


「明日の朝、ベンノが箱に詰めたら、わたくしが結びます」

「起きられるのか」

「起きます」


*


 翌朝、まだ外が青いうちに厨房には灯りがついていた。


 俺が下りていくと、エレノアはもう寝間着の上に肩掛けを羽織って厨房の入口の椅子に座っていた。足は椅子の横木に乗せて揃えてあった。隣にミーナが立っていた。


 ベンノは台の前で刷毛を使い、焼いておいた薔薇の菓子に一つずつ艶を塗っていた。乾くと花びらの縁が朝の灯りで光った。

 艶が乾くのを待ってベンノは菓子を箱に詰めた。十二個。薄い紙を敷き、菓子と菓子のあいだにも紙をはさんで蓋をした。


「お嬢様。どうぞ」


 エレノアはミーナの持ってきた踏み台に上がり、薄紅のリボンを箱に掛けた。輪を二つ作って結び、端の片方を結び目の下にくぐらせる。

 俺は台の脇からそれを見ていた。小さな固い結び目の下にしっぽが一本きちんと入っていた。


「できました」


 八回目の結び目は七回目と同じ大きさだった。


「では、お発ちまで冷えた棚に置いておきます」


 ベンノが箱を両手で持って厨房の奥の石の棚へ運んでいった。


 裏の搬入口のほうで荷車の音がした。毎朝の粉と薪の荷だった。今朝はミーナがエレノアの支度にかかるので、搬入口には家政婦長が立つことになっている。料理長が下働きを呼び、粉袋を下ろしに出ていった。

 エレノアはミーナに手を引かれて厨房を出ていく前に、一度だけ振り返って奥の棚の箱を見た。


 俺も着替えに上がった。

 王宮の薔薇園で九つの王太子に娘を会わせる。五人のうちの一人として座らせて、俺は十歩離れた席から何を見ていればいいのか。頭の中はそのことでいっぱいだった。


*


 出立の時、箱は従僕のハインツが厨房から玄関の馬車まで運んできた。十七の背の高い若者で両手で箱を捧げるように持っていた。

 馬車の中ではミーナが箱を膝に載せた。向かいの座席でエレノアが帽子の縁を両手で押さえていた。


 俺は窓の外を見ていた。前と後ろにガレスの騎士が二騎ずつ。昨日の夕方に厩番の頭とガレスの部下が車軸と車輪を一つずつ叩いて調べ、その結果は書斎で聞いた。王宮までの道は人通りの多い大通りだけを通る。

 決めたことは全部やってあった。


 王宮の東の門を入ったところの控えの間で、王妃付きの女官が箱を受け取った。女官は帳面を開いて家の名と品と刻限を書いた。


 ――ヴァレンシュタイン公爵家、菓子一箱、薄紅の紐。九つの鐘の少しあと。


 ミーナが帳面に自分の名を書き、女官が受け取りの印を捺した。箱はほかの家の箱と並んで控えの間の長い卓に置かれた。どの箱にも違う色の紐が掛かっていた。


「では、お庭へ」


 女官が言った。

 エレノアは帽子の縁から手を離し、俺を見上げた。それから自分の髪のうしろの結び目にちらりと手をやりかけて、やめた。


「いまのは、合図ではありません」

「分かってる」


 娘は小さく頷いて女官のあとについて歩きだした。生垣の向こうから薔薇の匂いがしていた。

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